……痛い。苦しい。
しかしその痛みや苦しみはひどく他人事のようで、さながら明晰夢のように俯瞰した感覚で私はそれらを感じていた。
冷たい床。暗い部屋。気味の悪い音。気持ちの悪い感触。
一通りの苦しみが終わると放り込まれる寒い檻と、柵の向こうの窓から見える夜景。
駄目だ、耐えきれない。泣き叫びたい。
口を開き、声を出そうとして、気づく。
──『僕』の声は、もう──
「……」
なんだろう、今の──白昼夢のようなものは。
一瞬なのか数分なのかも分からない。ただ漠然とした情報が頭の中に流れ込んできた。
「……そういえば、灰音くんは?」
「んー? そういえば居ないね。寝ちゃったのかな。灰音ってそゆとこあるから」
呑気な声でまほらばが言う。
「さっき出ていったぞ」
エーミールがそうつけ加えた。
なんとなく気になり、私は席を立った。
探すならまず隣の宿直室かなあなどと考えながら隣室の扉を開くが、居ない。
反対方向へ顔を向けるとすぐに見つけた。というか、地上へ繋がる階段の一番下の段に腰かけ、猫背になってこちらを見ていた。
「わ。びっくりした」
『おやおや驚かせてしまいましたか。これは失礼、すみませんね。』
「え、っと……その喋り方はキャスターかな?」
『ええ。灰音は久しぶりに喋って疲れたーなんて言って寝てしまいました。我がマスターながら、マイペースなことです。』
「……」
『お気づきなのでしょう? どこで気づかれたのかは分かりませんが。』
「……」
『ええ。
「……やっぱり、そうなんだ」
『灰音は痛覚と聴覚と味覚のことしか言わなかったようですが。このスピーカーを外したとて、その声は偽物。喉に埋め込んだ疑似声帯が発する機械音です。』
ではやはり、あの夢は灰音の……。
でもどうしてそれを、私が?
『これは灰音の最後の意地。ですからどうか、気付かないふりをしてあげてほしいのです。もう失われたあの声は、たったひとりの弟と瓜二つだった唯一のものなのですから。……と、言おうと思っていたのですがね……。』
からん、と背後で音がする。
振り返るとプラスチックのスプーンとプリンの容器が床に転がっていて、その先にはくれあが棒立ちになっていた。
表情は絶望。……今にも泣き出しそうな、見ているだけで痛ましい驚愕と悲壮の顔。
「……兄、さん……」
『……ライダーのマスター。いいえ、我が
くれあの大きな瞳から、ひとつ涙が零れた。それは頬を伝い、顎から落ちて、彼の足元に転がっているプリンの容器を濡らした。
「……っ! ライダー!」
踵を返し、くれあはライダーを呼ぶ。その声は涙で震えていて、くれあは何度も何度も目元を袖口でぬぐいながら自らの部屋へ去っていってしまった。
「……これで良かったのかな」
『どうでしょうねえ。私はこの体の記憶と知識を灰音と共有していますが、感情までは繋がっていませんから。俯瞰して眺めて推測することはできても、本当の灰音の気持ちは彼にしか分かりません。……ましてや、くれあの方がどう思っているかを考えろなんて言われてもそれは困難です。』
「だよねえ……」
なんとなく、私は灰音──今は違うか。もといキャスターの隣に腰かけた。
『あなたもどうやら難儀なものを背負っておられる様子。そうですね、ホッジ予想の証明なんて挑戦してみれば気も紛れるかもしれませんよ。』
「数学かあ……」
『数学は無限です。自由です。脳みそひとつあればどこにでも行ける、宇宙です。』
「……」
無限。自由。宇宙。
だから灰音は、あの檻の中でそれを求めたのだろうか。
私が何を言わずとも、キャスターは灰音とは違う目つきで微笑んだ。
『悪魔は、いつだって皆様の味方です。』
別に上手いことを言おうとしているつもりはないのだけど。
灰音はまさに、悪魔に足元を
あの冷たい床に座って夜景を眺めていたあの日から、灰音はきっと、キャスターととっくに契約していたのだろう。
……そのときも。
灰音は、くれあの幸せを想っていたのだろう。
あの白昼夢の中の『僕』は、確かにそうだったのだから。