恋とは。
殊さらに、初恋とは。
どうにも厄介なもの──らしい。昔、誰かから聞いた気がする。どのくらい昔のことなのか、どこの誰から聞いたのか、全く思い出せないが。
少し休むと言って宿直室へ向かったキャスターを見送り、私はひとり階段に腰掛けぼんやりと考える。
年齢不詳の私だが見るからにいい大人。記憶を失う前は恋のひとつでも経験しているだろう。もしかしたら彼女や妻が居るかもしれない。……いや、今の時代性別に囚われる必要はないか。彼氏か夫が居る可能性だって……。
……可能性だって……。
……可能性……だって……。
「……我がことながら全く想像できないなあ……」
彼女も彼氏も妻も夫も一切ピンとこない。好みの性格や容姿を少し考えてみたが何も浮かばない。
「セイバーはしたことある?」
「何をですか?」
「恋」
「私にそれを問いますか……」
さらり、と綺麗な赤毛をかき上げるセイバー。
……何も考えずテキトーに話題を振ったけれど、なんだか変なスイッチを踏んだ気がする。私がなんとなく勘づいているセイバーの真名が正解だったなら、尚さら……。
「ええ、ええ、しましたとも。身の燃えるような、焦がれるような、他の何をもってしても得がたい恋をしましたとも」
「そ、そう……。セイバーちょっとテンション高くない?」
「高くもなります。今の私は騎士としてではなく、ひとりの男として言葉を紡いでいるのですから」
騎士としてではなくひとりの男として、か。つまり今は本当に素の性格を出したセイバーということなのだろうか。
現代日本に生きる私は王やそれに仕える騎士のなんたるかを本当に理解しているとは言い難いだろうけれど、それにしたってずいぶんとフレンドリーになったものだ。本当は案外冗談好きで愉快な人だったりするのかな、セイバー。
「恋……良いですね、恋。この時代は性に関する自由度が高いようですが、私はやはり人妻……未亡人……そういった王道にして禁断……そのような恋愛群像劇を乞い願う……あっ、今のは恋と乞いをかけたわけではなくてですね。偶然です、偶然」
「え? なに? キャラ変わりすぎじゃない? 大丈夫?」
さっきまで隣に居た、いつも冷静で少し冷たく、礼節を重んじつつどこか儚げな騎士はどこに行ったのだろう。ふつうに人妻好きのお兄さんに変わったのだが。
「ははは。それは買いかぶりというものです、マスター。もちろん貴方には敬意をもって接します。騎士として、サーヴァントとして、貴方を守ります。それでも少し欲が出てしまったのです。……良き友人としても、貴方と関わりたいと。そう願ってしまったのです」
「……」
「失望なさいましたか?」
「ううん。むしろ嬉しいです。……でも理由は探ってしまうね。もしかしてその欲求は、私の記憶が少し戻ったことで君にも戻ってきた霊基の欠片に関係があるのかな?」
「そうですね……ええ、そうかもしれません。なぜだかは分かりませんが、私と貴方は、通常の契約よりも精神の根底で強く結びついてしまっているようですから。恐らく、私の……召喚されて
「そこはまだ分からない、か。君は一体誰に何を託されたんだろうねえ……」
「……」
「セイバー?」
「それで、マスター的には人妻はいかがです?」
「その話に立ち戻るの!?」
「ははは」
「もう……」
「マスターは少し気を張りすぎていると判断しましたので。冗談のひとつでも言っておこうかと」
「……気を張ってるのかなあ、私。どちらかといえばぼんやりして思考があっちこっち行って注意力散漫で怒られてばっかりで……」
「そうですね。そのとおりです」
……自分で言ったことだけど、肯定されると傷つくなあ……。
「ですが、そこにこそ貴方の真価はある。思考を止めない。考えることをやめない。例えそれが場違いなものであったとしても、決して頭を休ませることをしない。それは類まれなる才能です」
「そう、かな」
「ええ。ですから脳が疲れて睡眠時間も長くなるのかもしれませんね。まあ、寝ているときでさえ夢を見て考えているようなマスターですから、あまり効果があるとは思えませんが」
「……」
「竪琴のひとつでもあれば、不肖私が多少なりとも癒しとなる曲を奏でることもできたのでしょうが──」
言葉の途中で、すっとセイバーの表情が固くなる。……というより、さっきまでが少し弛緩していたというかいつもより柔らかったのか。
視線の先にはアーチャーが居る。
相変わらず綺麗な顔だなあ……いまだに真名不明だけれど、どこぞの王子様だったりして……。
「どうしたの、アーチャー」
とりあえず訊ねてみる。見たところ傍にエミリは居ない。アーチャーがエミリの半歩後ろを離れるとは珍しい。
彼は眉のひとつも動かさず、冷徹な印象の声で答えた。
「我がマスターの兄君が、貴方と話をなさりたいと」
「そうなの? 私また怒られるようなことしたかな……」
「確かに伝えました。では失礼します」
霊体化して消えるアーチャー。相変わらず素っ気ない人だ。でもエーミールが呼んでいるということは説教か、あるいは──私の記憶に関係のありそうな情報を得たか。
「行こうか、セイバー」
「はい」
立ち上がり、事務机とモニターの部屋へ戻る。くれあとライダー、灰音、及びキャスターを除く全員が居た。
「あれ、今日は内緒話じゃないの?」
モニターの前のエーミールに訊ねる。エーミールはこちらを一瞥して私の問いに答えた。
「別に隠す必要もねーなって気づいてな。また何かの拍子に鼻血出して倒れられても俺だけじゃ対処できねーし」
「そう。まあそうだよね、私の正体はみんなには隠す必要も知っておいてもらう必要もない」
「そういうこった。で、ちょっとこっち来い。この研究所の裏データ、少しだがさらに開けられた」
「おお」
画面を覗き込むと、また名簿だ。ずらりと名前が並んでいる。
「これは?」
「職員名簿」
「ただの名簿にそんな厳重なロックかけてあったの?」
「いや、物理学の研究所としての職員名簿はふつうに見られた。これは裏名簿ってやつだな。表じゃ清掃員のやつがお偉いさんやってたりしてるよ。例えば──表向きじゃ事務員のこいつとか、な」
エーミールがカーソルを動かし、ひとつの名前を拡大する。
『所長 久堂紘平』
「……え?」
「お前が名前借りてる久堂とやらは、どうやらこの施設の裏の所長だったらしい。お前、たまにぼそぼそ所長がどうしたこうしたぶつぶつ言ってたよな? それ、こいつじゃねえのか」
「……」
確かに『所長』という存在が頭をよぎることはあった。ここまで偶然が繋がるとは思えない。九分九厘『所長』とは久堂紘平のことだろう。……私は、この施設と何か深く関わっていた……のだろうか。
「何か思い出せるか?」
「うーん……もう少し……もう少しで何か……」
「そうか」
歯がゆくてたまらない。記憶を失う前の私が『所長』にどんな感情を抱いていたのかは分からない。しかし、その感情が大きなものだったことだけは分かる。だからこそ、ひどく歯がゆい。
「まあとりあえず報告は以上だ。また何か分かったら呼ぶ」
「……うん。ありがとう、エーミールくん」
画面から視線を逸らし、振り返る刹那。
一瞬だけ見えた視線。ただひとり、『彼女』に注がれた──。
ああ、私はこれを知っている。この視線を知っている。
かつて、私が誰かに向けた目だ。
一瞬だけでも隠しきれない。
あの目は紛れもなく、恋をしている者の目だ。