醜女の林檎   作:紫 李鳥

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 ――約束の時間より少し早めにドアを叩いた。ドアスコープで確かめたのか、中からチェーンを外す音がした。

 

 開けられたドアの向こうには、バイオレットのワンピースを着た彩花が笑みを湛えていた。

 

「父から電話があって、少し遅れるって。酒でも呑んで、くつろいでいてくれって。何呑みます?ビールにウイスキー」

 

「じゃ、ビールを」

 

 和弥はソファに腰を下ろすと、タバコを出した。

 

「……どうして、わざわざ成田で待ち合わせを?」

 

「父が明日の便でアメリカに行くの。ロス支社のジェームズからの誘いだから、たぶん、取引先との接待ゴルフだと思うわ。どうぞ」

 

 プルタブを開けた缶ビールを、もう一方の手に持ったグラスに注ぎながら来て、それを和弥の前に置いた。

 

「ありがとう。……ゴルフか」

 

「ゴルフやるの?」

 

 缶コーヒーを飲みながら、彩花が訊いた。

 

「ええ、たまに。お客さんの社長夫人と」

 

「ああ、駄目ね。ホストの件は内緒でしょ?」

 

「えっ、もう始まってるんですか?」

 

 和弥が慌てて背筋を伸ばした。

 

「父から何を訊かれるか分からないのよ、注意しないと」

 

「あ、はい」

 

「じゃ、予行演習しましょう」

 

「えっ?」

 

 台本を用意していなかった和弥は慌ててタバコを揉み消した。

 

「私が父になるから。いくわよ」

 

 狼狽(うろた)える和弥を見た。

 

 和弥の思考は整理されていなかった。

 

「名前は」

 

「あー、斉藤、……ヒデユキ」

 

 和弥はしどろもどろになっていた。

 

「え?斉藤?」

 

「ええ。……どうして?」

 

(まさか、本名を知ってるわけないよな)

 

 これで一巻の終わりかとハラハラした。

 

「……一条じゃなかった?」

 

 彩花が疑いの目を向けた。

 

(なんだ、そっちの方か。ビックリさせやがって)

 

「一条和弥は源氏名です」

 

「へえ、そうだったんだ。ご出身は?」

 

「佐賀の嬉野です」

 

「うむ……。これまでどんな仕事をしていた?」

 

「……訪問販売です。アクセサリーやランジェリーなどの」

 

 ホスト業で身に付けた知識だが、貴金属や宝石の真贋(しんがん)を見分ける自信があった。

 

「うむ……。それで、売れたかね?」

 

「はい。お陰さまで、売上はトップでした」

 

 旨そうにビールを呑んだ。得意分野になると、水を得た魚のようだった。

 

「ほう。で、売る、何かコツはあるのか」

 

「そうですね、まず、女性の肌質や体型を見極めてから、その女性に合ったものをご提供させていただきます。中には金属アレルギーの方もいらっしゃいますので」

 

「うむ……。ハンサムだからモテただろ」

 

「いいえ、とんでもありません。誠心誠意、良い品をご提供するのが使命だと考えています」

 

「うむ……。畑違いの仕事だが、やれるか?」

 

「……はい。営業で……頑張り、……社長のお役に……立ちたい……です」

 

 何度も欠伸をした。

 

「はい、オッケー。でも、父は何を訊いてくるか分からないわよ。墓穴を掘らないようにね」

 

「ああ。ごめん、……眠い。ちょっと横になる」

 

 そのまま、ベッドに横たわった。

 

 彩花は、そんな和弥の寝顔を軽蔑するような目で見下ろした。

 

「睡眠薬が効いたみたいね。……あなたの本名は斉藤ヒデユキなんかじゃないわ。自分で喋ったのを忘れたの?……井上アツシさん。――あれは二年前、上弦の月が出ていた。あなたは、テレビの巨人×阪神戦に夢中になっていた。私の手料理に箸を付けながら、画面と料理を交互に見ていた。

 

『……一条和弥は本名だびょん?』

 

『バーカ。嘘に決まってるだろ』

 

『……そすたっきゃ本名は?』

 

『井上アツシ』

 

 あなたは無意識のうちに名乗っていた。……斉藤ヒデユキさんて誰?名前を買ったの?それとも、その男を殺して、本人に成り代わったの?そこまでする価値はなかったのに。……このお芝居に」

 

 彩花こと大谷由紀恵はソファに腰を下ろすと、寝息を立てている和弥の顔を見ながらタバコに火を付けた。

 

「……二年前。あれから間もなくして会社を辞めるとアパートを引き払って池袋に行った。寮付きの風俗で働きながら話し方教室に通って、訛りを矯正した。風俗で稼いだ金を株に投資して大金を儲けた。その金で美容整形するとブランドに身を包んだ。

 

 あなたに復讐するために今回の芝居を打ったのよ。野心家で金の亡者のあなたなら、私の書いたシナリオに興味を持つはずだ。案の定、あなたの頭には社長の椅子が思い浮かんだ。

 

 あなたに妻子がいるのは、下調べして知ってたわ。独身かと訊いた時、あなたは思わず嘘をついた。さて、どうする?離婚でもするのかと思ったら、なんだか思い切ったことをしたみたいね。斉藤さんになっちゃったんだものね。ああ、恐ろしい。もっと面白い復讐劇も考えたけど、これ以上あなたに関わる必要がなくなったわ。だって、あなたは自らの手で自分に復讐したんだから。大きな犠牲を払ってあなたは斉藤という別人になった。この先を井上アツシで生きるのか、一条和弥を続けるのか、それとも斉藤ヒデユキを(かた)って第二の人生を生きるのかは、あなた自身が決めること。犯罪という名の(とが)を背負って」

 

 由紀恵は、和弥の寝顔を暫く見詰めると、

 

「……さようなら」

 

 そうぽつりと言って、ソファの後ろに隠していた旅行カバンを手にした。

 

 

 

 

 

 目を覚ました和弥が、ふと、テーブルに目をやると、カーテンの隙間から漏れる街灯が、一口かじった林檎を照らしていた。――

 

 

 

 

 

  完


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