正直に告白しよう。
手記の中に記されていた「妖精」という言葉に、私は少なからず予断を抱いていた。それは例えばネバーランドのティンカーベルであり、エルフ国のレゴラスであり、つまるところ意思疎通の出来る人間の亜種である。その辺りが私の想像力の限界だったということであろう。
だが、これは、こいつは違った。
あの夢が正夢に近い何かだったという予感をもっとある種の覚悟として自分の中に持っておくべきだったと、今この手記を書きながら自身の不明を恥じるばかりである。
そう、かの『妖精』とは、読者諸兄が想像している如く、総身を毒々しい紫色で覆った巨大な芋虫であった。夢の中に出てきた様に、体中に斑点のように点在する人の顔。それぞれが別個の人物の顔のように見えたが、みな一様に苦痛を訴えるかのように情を歪ませている。そして夢に出てきたそれよりもなお悍ましいのは、人の顔だけでなく、腕や脚がそれぞれ好き勝手な方向に生えているのだ。
苦しみに喘ぐ顔また顔、そして好き勝手な方向に蠢く手足、そしてそれらの根付く本体たる芋虫……
私の惰弱な精神は、かの『妖精』を直視することを躊躇いもなく放棄した。
有体に言えば失神であり、私のその後の記憶は、全てが終わってからエレベータに駆け込むまで途切れている。
山田嬢に当時の様子を伺うに、「なんか『うご』と『あが』の中間みたいな声を出したっきり棒立ちになってましたよ。視線? ……まあ、虚ろでしたね。あとヨダレ垂れてました」とのことである。
(正確に記せば、その間私の精神は完全に幻覚・幻想の世界に逃避していた。それが具体的にどういったものであるか当手記では省くが……まあ、脂ぎった中年男に相応しい低俗なそれであったと記すに止めたい)
かの妖精、そして陰謀の黒幕たる渡医師を目前にし、語られた経緯やその先の結末を、だから私は見届けることは出来ていない。
読者諸兄におかれては、私がこれからここに記すことは、すべて神田青年や山田嬢の記憶に基づく出来事であり、いわゆる『事後』の成り行きである事をご承知おき願いたい。
そこはごく浅い水溜り。
地下水脈の緩やかな流れがほんのひと時留まるだけの水辺は澱むことなく、空間の広さに比して頼りない照明の元でも、清らかさを見て取ることが出来た。
その真ん中に、渡医師はいた。白衣の脇に両の手を垂らして、我々が来るのを待ち受けていたかのように相対し、その姿勢にも視線にもまるで揺るぎは見られない。
そして、その後ろに控えるのは、かの妖精。
我々が探る謎、その核とも言うべき存在である。そして同時に……
「ゆずかさん……橘さんも、その中にいるのか?」
声音に深い怒りを滲ませ、神田青年が単刀直入に詰問した。
「ええ、そうです」
対比するように、渡医師の応えはどこまでも穏やかである。
『その中』とは即ち傍らに控える巨大な芋虫、そこから生える手足や顔面に他ならない。幸いと言って良いのか分からないが、少なくとも我々から見える中に、橘嬢のそれと思わしき顔は無かった。……いや、間違いなくそれは不幸中の幸いというべきだったろう。我々の誰一人として、彼女の苦悶の表情を見たいとは思っていなかったのだから。
もう一点、ここで特筆すべき事項がある。それは渡医師が神田青年の問い掛けに即答したという点だ。それはつまり超常的な現象や巨大な妖精について、また橘嬢の迎えた末路について我々が知っているという事を、彼も知っていたという事になる。
それが意識的ものか否かは分からないが、少なくとも渡医師の態度は秘密をひた隠しにする人間がとるそれではない。その証拠に、素人丸出しの我々でさえここに辿り着くことが出来た。
『裁かれたがっている』。私がこみ上げる不快感と共に抱いた直感は、やはり間違ってはいなかった。
「彼女を犠牲にして、それで満足か?」
「はい。貴方がたを助けることが出来ましたから。それに、他の人も」
他人を裁くという行為に言いようのない忌避感を覚えるのは、自分にその資格があるのかという問いが何処までもついて回るからだ。
しかし彼を、神田青年を動かす激情は、その問いを凌駕するほどに激しかった。
それが何かの免罪符になると思ってはいない。ただ、神田青年の決意の深さと導き出された決断を、私は尊重したいと思う。
「あの子に、選択肢はなかった」
それだけを言って、神田青年は手元のキーパッドを操作した。
『
『
『
なおも悠然と佇む渡医師とは対照的に、真矢青年と山田嬢は泡を喰った。
当然であろう。メモ書きが正しければ、それは高層ビルの爆破スイッチを当のビル内で押すのと同じ行為だ。
「ちょっと、いきなりすぎやしませんか!?」
「菅沼さん起きて! ああもう!」
このような状況下でも、彼女の瞬発的な行動力は如何なく発揮された。なおも木偶のように立ち竦む私を殆ど抱えるようにして、エレベータへの道のりを駆け戻った。
山田嬢と私、真矢青年が乗り込み、最後に神田青年が息せききって扉をくぐるや山田嬢がキーパッドをもぎ取った。
叩き付けるようにボタンを押し、僅かに上昇のGを感じた所から、ようやく私の精神は現実へと帰還した。
「あ……夢か……幸せだった……」
「何言ってるんですか……もう全部終わりましたよ」
息も絶え絶えな真矢青年の言葉にきょとんとする私、当然、状況は全く掴めていない。
ただ、そう長い時間気を失っていた訳でもなく、エレベータが停止して院長室に戻る頃には、大まかな流れは知ることが出来た。
「そうか、神田君が、ボタンを押したんだな」
「すみません。何の相談も、せずに……ただ、僕は渡さんを、許せなくて……」
出会った最初の時のような、どもりがちな喋り方で不器用に謝る神田青年を、慰めこそすれ誰も責めることはなかった。
ただ、一点気になる事があった。
山田嬢も、同じ事を疑問に思ったようだ。
「そう言えば、『地下室に水を落とす』んですよね? 流石に何か、音とか振動とかがあっても良さそうですけど……何も聞こえませんよね……?」
「そうなんだよ。ねえ神田君。キーパッドで何て打ったの?」
「え……S’sBDって、メモの通りに、打ちましたけど……」
私は小さくため息をついて、キーパッドを手に取った。
「そこは、こう打つんだよ」
20070514。それは、この部屋にあった写真の裏に書かれていた数字。
『さやか7歳の誕生日 さやか、裕子と』。
渡医師がこの精霊を使役する意思を固める切っ掛けとなった出来事がこの日に起きたのか、今となっては分からない。
一人の男は裁かれたいと願い、また別の男はその人を断罪したいと思った。
私が何かの意志を示した訳ではない。
それは、自分の手を汚したくないという意味ではない。自分はしょせん傍観者に過ぎなかったのかもしれないという、諦めの境地にむしろ近い。ただ、彼の思いに寄り添いたいという気持ちが、素直に彼の背を押す手助けをした。
足元に静かな、しかし確かな振動を感じた。
きっと、悠然としたあの姿勢のまま、彼は自らの仕掛けに呑まれていったのだろう。恐らくは、彼の意図したとおりに。
私は今に至るまで、彼ほど自らの死を何の外連味もなく受け入れた人物を知らない。
「痛っ……」
何気なく写真立てを持ち上げた手に、鋭い痛みが走った。
小さなガラスの破片が裂いたのだろう、指先には薄く血が滲んでいた。
それは、この物語の終焉を示唆していた。
精霊は最早、いなくなったのだ。そして、我々の最も新しい友人も。
<了>