霊安室は1階にあり、遺体を運び出すよう駐車場と繋がっている。
我々の第一任務は、駐車場へと繋がる扉の鍵を開け、外に待機している真矢記者を招き入れることである。
まずは神田青年と山田嬢が霊安室の様子をそっと窺い、中に誰もいないと分かった所で神田を見張りとしてドアの外に残し、私と山田嬢が足音を忍ばせて侵入した。
中はこれと言って変哲のない霊安室である。一見して異常な個所は見当たらなかった。
向かって左側の壁には遺体安置室が3つ並び、向かって右側の安置室には『橘ゆずか』とネームプレートが掲げられていた。ネームプレートがあるのはその1つだけ、他の安置室は空なのだろう。部屋の反対側には祭壇があり、橘嬢の遺影と、ロウソクの灯った燭台が配置されている、簡素な部屋である。
遺影の中で笑う少女の顔が、私の胸中を静かに波立たせた。
思わず写真を手に取ろうとしたその時、うっかり手をロウソクの炎にかざしてしまった。
指先を襲う痛みに声にならない悲鳴を上げ、慌てて手を引っ込めた私であるが、不思議なことに火傷の痕は何処にもない。
「どうかしましたか?」
「いや……何もないよ」
手を何度もひっくり返して凝視する私を訝しんだ山田嬢だったが、私は炎に触れたのは気のせいだと決めつけて、この出来事をそれきり記憶の片隅に追いやってしまった。
後に、それは大きな間違いであったと知ることになる。
外開きの扉の鍵を開けてやると、「どうですか?」と顔を期待に輝かせながら真矢記者が入ってきた。
「どうですかと言われても、ご覧の通り何の変哲もない霊安室ですよ」と答える私に一瞬落ち込む表情を見せるが、そんな事でめげる記者根性では無かった。
「じゃあ安置室の方、見てみましょう」
つかつかと安置室の方に歩み寄るや、何の躊躇いもなしにネームプレートの掲げてある金属質の扉をガチャリと開けてしまった。
「あんた、何やってるんですか!?」
さすがにやりすぎである。こんな非常識な人間の頼み事など聞くんじゃなかった……
後悔と橘嬢への罪悪感と共に真矢青年の肩を掴もうとした時、私は気付いた。
安置室の中には空のストレッチャーが鎮座しているのみ、遺体は何処にもない。
今一度扉のネームプレートを確認するが、間違いなくここには少女の遺体が安置されているはずだ。
固まる我々の様子を不審に思ったのか、山田嬢も恐々と中を覗き込む。
「ありませんね、遺体……」
「あれから丸1日以上経ってるみたいだし、ご家族が引き取りにいらしたのかもしれない」
「ちょっと待ってください。何か泣き声が聞こえませんか?」それに何だか生臭いような、と真矢青年。
泣き声などは聞こえない。山田嬢も首を傾げるばかりだが、ふと妙なことを呟いた。
「奥から風……が吹いてるように感じます」
「何してるんですか、皆さんで」
いつの間にか神田青年が入室していた。恐らく私の大声を聞き咎めたのだろう。
しかし、眉を顰めているのは別の原因らしい。
「何か、生臭くないですか、ここ?」
「まあ、霊安室なんて僕もあんまり入ったことはないけど、こんなものじゃないかな? 場所が場所だし」
「生臭いですか? 私はお線香の匂いしか……」
そうこうしている内に、真矢青年はストレッチャーを引き出して安置室の中に潜り込んでいた。
「ちょっと、これ何だと思います? センサーかな……?」
ストレッチャーが収まるだけの空間しかない安置室は、当然の事ながら大人が立って入れるほどの高さはなく、屈むか膝をついて這い進むしかない。その足元で、何かを見つけたというのだ。
「スマホの明かりだけじゃ弱くて、よく見えないんですよ」
ついに好奇心に負け、私は祭壇のロウソクを手に真矢青年の後に続いて行った。
薄暗い安置室の足元をロウソクで照らしてみると、確かにストレッチャーのレールに沿うように、センサーらしき小さな機械が対になって設置されていた。
「ひのふの……奥の方も合わせて3対か。ストレッチャーが全部入ったことを感知するのかな?」
問題は、感知して何が動作するかである。まさかセンサーライトでもないだろうが……
「あれ、この奥の壁、向こうは空洞みたいですよ。叩くと音が違う」
いっぺん出ましょう、と真矢青年に促されて私は霊安室に戻った。とんとんと腰を叩く。
「これ、試してみませんか?」
最早何を、とは訊くまでもない。我々は顔を見合わせたが、好奇心が良識に勝ったか、反対する者はいなかった。
誰からともなくストレッチャーに手を掛け、安置室にゆっくりと押し込んでいく。
「まだです。奥のセンサーの所までだから、もうちょっと押してください……ストップ、その辺で」
当初の位置より随分と奥までストレッチャーを押し込んだところで、左の方から音が聞こえた。何か重量のあるものが滑らかに動くような……
「真ん中の安置室ですね。行ってみましょう」
今度は神田青年を先頭として、真矢青年、私、山田嬢の順番で真ん中の安置室へと入っていった。
「何で君みたいなでかいやつが先頭なんだ……前が見えないじゃないか」
「僕だって、中が気になるんですよ……あれ?」
頓狂な声を上げる神田青年を質すと、
「奥の壁がない……どこか、に続いているみたいです」
安置室の奥を抜けたその先は、確かに『どこか』に続いてはいた。
その場所で何が起きたのか、我が身で味わった経験として勿論私は知っているが、『そこ』が『どこ』であったのか、あらゆる意味で私は未だ知りえていない。
深く屈み込んだ私の前で、真矢青年が立ち上がった。奥の壁を抜けだのだ。
そこは今まで我々がいた空間、人の手による近代的な建築物とは明らかに一線を画していた。
スマホとロウソクの明かりに浮かび上がるのは、先ほどまでの無機質な病院の内装ではなく、前時代に掘られた洞穴のような無造作な岩肌である。
小部屋ほどの空間のその先には、これもまた造作の荒い下り階段が、その先へと我々を誘う様に闇口をぽっかりと開けている。その闇は我々の持つ幽けき光源をむしろ塗りつぶさんばかりに色濃く……
「下りですね、足元に気を付けていきましょう」
欠片も不安を感じさせない真矢青年の声に、頼もしさよりも苛立ちと呆れが沸き起こる。この男の心臓はどうなっているのだろうか。頭のネジが十本単位で外れているのか。
「待ってくださいよ。明らかにおかしいでしょう、ここ」
このまま進むんですか、と最早声に哀願を滲ませて問いかけるも蛙の面に小便、不良記者は何に遠慮することもなく、まるで見知った遊歩道を歩くかのように、粗雑な階段を降りていった。
どれだけ下っただろうか、先頭を行く足音に湿気を感じてから程なく、浅い水たまりを踏みゆく音が聞こえ、そして自らも水に足を踏み入れる感覚があった。
足元を照らすと、浅く広がった水が足元を揺蕩い、4人の歩みが水面に作り出す複雑な波紋がてらてらと鈍く光を返してくる。
「緩いけど、流れがありますね……川かな」
「戻りましょうか」
どこか呑気な神田青年の感想に、それをほぼ無視する形で突如として真矢青年が畳みかけた。
「どうしたの急に」
面食らって問いただす私に、
「まあ、記事にするならもう十分ですもんね」と後ろの方から山田嬢の声がした。確かに、安置室の馬鹿げた仕掛けとこの空間、これだけで十分記事のネタにはなるであろう。
『隠し通路を抜けるとそこにはアンデッドの実験場!? とある医院に隠された政府転覆の陰謀!』という荒唐無稽な見出しが脳裏に踊った。
しかし、返ってきたのは意外な反応である。
「まあ、記事にするだけなら、そうですね」
身体ごとくるりと振り返り、真正面から見つめてくる。どこか醒めたような顔と声。
「でも、これだけでは証拠不十分です。僕は、本当の事が知りたい」
「本当の事って?」
「ドクター渡は何かを隠している。それは最早間違いのない事ですが、この地下空間はその一部に過ぎない。僕が知りたいのは、彼が隠そうとしている事、その全貌です」
先ほどまでの軽薄な笑みはそこにはない。切れ長の双眸を貪欲に光らせて、真実への飢えを隠そうともしない。どうやら、この青年は私が思っていたよりもずっと切れ者のようだ。
「これだけの空間です。恐らく、どこかにこの場所に関する資料があると思います」
「秘密の資料、と言うと……院長室とか?」と神田青年。
得たりとばかりに頷き、破顔する真矢青年。
「行きましょうか、院長室」