そしてその馬に乗っている者は計りを手に持っていた。すると私は四つの生き物の間から出て来ると思われる声がこう言うのを聞いた。
「小麦1マスは1デナリ、大麦3マスも1デナリ、オリーブ油とぶどう酒とを損なうな」
ー「ヨハネの黙示録」第六章第六節よりー
悪意の気配
加奈は日に日に、強い何かを感じていた。
それは最初は頭の痛みや気持ちの悪さ、と言った具体的なものではなかった。何と形容できるのか、言わば「直感」や「本能」と言ったものに近かった。自分の奥底の潜在的な「もう一つの自分」と言えるような存在が、加奈に仕切りに何かを発している、そんな感覚だ。
それが影響してか、次第に自分のコンディションにも影響が出始めていた事を彼女は気づいている。加奈の今の心境も相まってか、それは彼女に知らずの内に負担をかけていたのだ。
加奈は気だるげに、まだ開店まで時間のあるレストランの椅子に腰掛けて机の上にうつぶせていた。
と、不意に誰かの気配を感じた。
確信があったわけではないが、彼女は昔からこの手の勘に優れているのだ。それが彼女の持つ「力」によるものである事を、はっきりと自覚してはいなかったが。
実際に見てみると、レストランの入口の方で何やら人影が右往左往としているのが見えた。こんな時間に人が来るなんて事が多いはずもないが、翔一ならばさっさと入ってくるだろう。一体誰だろうと立ち上がり、入口の方に歩いていった。
中から覗いてみると、見知った顔がいた。少し前は頻繁にこの店に訪れてくれていたし、つい最近出会った顔だ。
確か……美杉さんだったかな。津上さんが前に世話になってたっていう。
加奈は黙想すると、レストランの扉を開けて彼を迎えた。
「あの、津上さんに何か御用ですか?」
何やら相当に慌てているらしく、彼は加奈がそう声をかけるまで彼女の姿に気づかなかった。そのためか、声をかけられた途端にちょっと肩を震わせたりなどして何だか怪しい。髪型はボサボサで、昨日は眠れなかい用事でもあったのか目元にはクマが浮かび上がっている。服装も着の身着のままという感じで、あまりしっかりとしたものではなかった。
加奈が首を傾げると、美杉はそれを見て姿勢を直した。
「あ、ああ。実はそうなんだが、彼は今は?」
「すみません。さっきちょうど出ていってしまったんです」
「出ていった?」
「はい、何だか随分慌てた様子で……」
「……そうか」
加奈の説明を受け、美杉は頷く。それから少し考えた後で真摯な目で。
「少し、ここで待たせてもらっても構わないかね?」
「はあ、それは構いませんけど」
────────────ー
気がつけば翔一はいつの間にかバイクを駆っていた。
今までとは比べ物にならないほどの衝動だった。アギトの力を長らく使いこなし、そして完全に制御したと思っていた翔一が、自制することも、それどころか「自制しようという意思」を持つことさえ出来ないほどの衝動に突き動かされ、翔一はFIRESTORMを最高速で走らせる。
衝動に導かれてやってきたのは、かつては翔一が見慣れた通りだった。美杉家に居候していた頃、行きつけのスーパー、食材を買った帰り道は必ず通る道だったからだ。今もあの頃の面影は変わらない。鼻唄を歌って歩いた帰り道が懐かしまれるようだった。
一体なぜ、翔一はこんなところに突然バイクを走らせたのか不思議だった。何があったというのか。アンノウンが現れたのか? しかしそれにしてはいつものビジョンが見えない。しかし何か、何か強い力を感じたはずなのだ。
翔一は目を細め、辺りを見回す。まばらではあるが人が往来し、何も変哲はない。
翔一は手がかりを探すべく、バイクのハンドルに再び手をかけようとした。そしてその時。
(翔一くん……)
小さな、風にかき消されてしまうほど小さな声……というよりも言葉のイメージのようなおぼろげなものを感じた。翔一が慌てて辺りを見回すが、その主らしき人間の姿はない。まるで本当に風に飲み込まれて消えてしまったかのように、世界は無情にも無関心に通り過ぎていく。
しかし翔一は、その気のせいとも思えるような感覚にふと口ずさんだ。
「真魚ちゃん……?」
────────────ー
多くの人々が行き交う、都市圏の商業地区。いくつものオフィスビルが立ち並び、人々の足音が昼も夜も絶え間なく響いている。上から見れば粒のような人々がひしめき合うように群れているその様は、実際に人間が働きアリを見下ろした時のその様子にとてもよく似ていることだろう。
シケリオスは人どものそんな姿を一棟のビルの屋上から悠然と見下ろすと、左手に持っていた奇妙な鎖付きの天秤のようなものを空に掲げた。そして祈るように右手を自身の胸元に重ねる。
その途端だった。眼下にひしめき合っていた人間達の何人もが次々と倒れ始めた。全員ではなかったが、一見しただけでも数十人の人間が糸が切れたように倒れてその場に動かなくなる。それを見た辺りの人間が、突然の出来事に驚き、そして徐々にパニックになっていく。
やがて群集は四散するかのように散り散りにその場から逃げ出し始めた。
シケリオスはその様子を眺めて満足げに頷いた。
────────────ー
「おいおい、冗談じゃないぞ!」
警視庁本部で部下の刑事の報告を聞いた河野は、珍しく声を上げた。思わずと言った調子だ。それというのも、電話越しの部下の報告が信じられないような内容だったからに他ならない。
「500人だって!?」
突拍子もない数字を自分の口で繰り返す。どうにも納得行かないという態度が露骨に現れていた。
「ああ……ああ。ああ、分かった。とにかく一度検討してみないことにはな」
河野はそう言って相槌を打つと電話を切り、難しそうな表情でため息をつく。そこに、丁度よく氷川が廊下を歩いてきて彼に挨拶をした。
「河野さん、おはようございます。……どうかしたんですか? 気分が良さそうではありませんが」
「どうもこうもないな。殺しだよ」
物騒な言葉に氷川は途端に息を呑む。
「殺し……まさかアンノウンが?」
「いや、それはまだ分からないんだがな。別々の場所で同時に人間が倒れたって言うんだよ。報告に上がってるだけでも500人だ」
「ご、ごひゃく!?」
想像だにしなかった数字を耳にして、氷川は思わず目を丸めた。河野は参ったように頷きつつ続ける。
「ああ。被害者は都内の商業地区で86人、それとほとんど同じくして各地で死亡者が出たらしい。関連は今の所不明だがな。それに死因が妙なんだ。まるで中世ヨーロッパの飢饉にでもあったかのように衰弱して死んでいるらしい。餓死というより、飢え死にと言った方がイメージに合うな」
「やはりアンノウンの仕業でしょうか、被害者の血縁関係は?」
「うん、いかんせん人数が多すぎて纏まっていないんだが……商業地区で死亡した被害者と各地で次々と死亡した被害者とは既に血縁関係が確認されているものがあるらしい。まだ確かな事は分からないんだがな?」
河野の言葉を聞いて、氷川は少し考えるように顎に手を当てた。
「では、商業地区で死亡した被害者達の血縁関係者がそれと同時期に全く別の場所で次々に死亡したということですか?」
氷川が驚愕したような表情で言うと、河野も渋い顔をした。
「そんなところだな。いくらアンノウンとはいえ、今回はちょっとやりすぎじゃないか? あいつらは超能力者を狙ってるなんて話だったが、これじゃあお前、人類はみんな超能力者になっちまうぞ」
河野は自嘲げにそう言って笑う。しかし、氷川は核心をつかれたようにその表情を固まらせた。アギト、アンノウン、そして超能力者と推測される被害者達。
かつて、「人がアギトになる何らかの出来事が起こり、超能力がその予備段階に呼び起こされる」という憶測が起こった。もしもその「何らかの出来事」が実際に起こり、そしてそれが限定的なものでないとしたら。
「人類が……全員?」