マンションの自室に戻ってきた涼はいつもと変わらないチビの出迎えに静かな笑みを返した。それから軽く頭を撫でてやり、おやつの牛乳を与えるために冷蔵庫に向かう。
みんな、やられたんだ。
冷蔵庫の取っ手に手をかけた涼の頭に、一輝の言葉が蘇った。さやかを送り届けたことで用を済ませた涼は、「怪我、看てもらえばいいのに」と言うさやかの提案を断り、シケリオスとの闘いで負った体中の痛みをこらえながら家へと戻ってきたのだ。
今のこの自分の体を誰かに見せるなど、ろくなことにならない。涼の肉体は最早、普通のものではないのだから。
しかし、一輝のあの言葉の意味は一体なんだったのだろうか。みんなとは誰のことを指すのだろうか。
涼がそんなことを黙って考えていると、不思議そうにチビが足元に擦り寄ってくる。涼はそれに我に帰ると、今更気にしても仕方ない、と冷蔵庫を開けた。
「それにしても、まさかあいつと会うなんてな……」
涼はどこか遠くを見つめるようにして呟いた。
────────ー
「なるほど」
城北大学のガラス張りの講師室、突然やってきたかつての自分の教え子の話と、それに関する資料について一通り把握した高村は重々しく頷いた。そして眼鏡の位置を正すとそっと小沢の目を見やる。
「驚いたよ。まさかあのG3-Xに更に手を加えようと考えるような科学者がいたとは」
その声音にこもった感情は、あまり好意的なものではないことが小沢にもすぐに分かった。小沢はあえて何も言わずに、高村が言葉を続けるのを待つ。
「何故君は、G3-Xを更に進化させたのかね」
「未知の脅威に対抗するためです」
小沢は胸を張り、毅然と言い返す。
それに対して高村は皮肉げに笑った。
「私からしたら、こんなものを生み出してしまう君の……人間の頭脳の可能性こそ正しく「未知の脅威」だよ」
そして抑えきれなくなったように笑い声をこぼす。それから、「言いたいことははっきり言ってください」とばかりに無言でガンを飛ばしてくる小沢から目をそらした。
「科学者としては私は、このシステムの素晴らしさを賞賛せざるを得ないだろうね。完璧……いや、まさしく完璧というものが存在しない、「無限の可能性」とさえ言えるシステムだ」
そこまで言って、高村は真剣な表情に変わる。
「君は昔から「完璧な欠陥品」を作らせると右に出る者がいなかった。誰にも理解されない世界に生き、誰も扱えないものを生み出していたね」
かつてのG3-Xもまた、そうだった。人を超え、人の手に余る、言うなれば理論上の理想の人間にしか使いこなせないシステムだった。そしてそれはおおよそ小沢の頭の中にしか存在しなかったのだ。それは実在の人間を否定し、人間の不完全さを拒絶するものでしかなかった。誰もそれを受け入れず、また誰も受け入れられることがない世界だ。だから、小沢は封印したのだ。『あれ』と共にG3-Xの高度なAIレベルを永遠に。
「言葉遊びは好きではありません。率直に伺います。教授、このシステムは失敗であると思いますか?」
「……君が気になるのはそこか?」
高村は低い声で言った。
意味を解し損ねた小沢が首を傾げる。
「どういう意味ですか」
「このシステムが成功か失敗か、そんなものは私に聞かなくても分かるはずだ。このシステムによって拡張された機能をもう一度よく確かめてみたまえ。そこに答えがあるだろう」
小沢は一瞬、彼の言葉にまゆを潜める。が、すぐにその真を察したように目を見開くと恩師に挨拶をするのも忘れていきなり駆け出した。
焦るように講師室の扉に手をかける小沢の背中に、高村が鋭い声を浴びせる。
「小沢くん!!」
貫かれたように動きを止め、固まる小沢。高村は静かに彼女を見つめて言った。
「君は一体何のために、小沢澄子としてG3を開発し、アンノウンと戦っているのかね」
しかし小沢は固まったまま答えなかった。
「G3-XXは見事だった。君の頭脳が全ての問題を解決して見せた。だがね」
そして、高村はそっと彼女の背中から視線を外す。魔法が解けたように小沢の体の強ばりは融解し、同時に曖昧で漠然とした問いかけが自身の内から湧き上がってきた。
「君がこの兵器を開発し、戦い続ける以上、いつかその問いに向き合わなければならない時が訪れる。そのことを肝に命じておきなさい」
高村にそう言われ、小沢は視線を落とした。
それから、ゆっくりと振り返ると、まるで気の小さな少女のような素振りで頭を下げて、そのまま逃げるように講師室を後にした。
────────ー
体に不快感を覚えながら、加奈は苦しそうに街道を歩いていた。頭と体の中がグルグル回転して、まるで混ざり合うかのように混沌としている。重たい岩がお腹の中をゴロゴロと転がり、呼吸をすればその岩が砕け散って内蔵に突き刺さるかのように感じた。
全身に冷や汗を浮かべながら、頼りない足取りで歩を進める。どこかでタクシー拾えればよかったのだが、そう都合がよくはなかった。加奈は時折、塀や手すりに手をつきながら苦痛に耐えていた。
と、いつの間にか前方から一人の女性が加奈と向かい合うように歩いてきていた。ショートカットに揃えた黒髪の、まだ二十歳くらいの若い女性だった。白いパーカーに青いサブリナパンツという、年齢を考えればお世辞にもお洒落とは言えない、ラフな格好の女性だ。
その女性は加奈が苦しそうにしている様子を見ると、異変を察知したのかゆっくりと近づいてきた。そして足を引きずるようにフラフラと歩く加奈に話しかけた。
「あの、大丈夫……ですか?」
声をかけられて加奈は立ち止まったものの、悠長に答えているような余裕もない。というか、そもそもこの状態を他人にどう説明すればいいのかが分からなかった。
「すいません、ちょっと……」
困ったように顔をしかめる加奈の表情を伺い、相手の女性は一考したあと「よし」という感じで頷き、加奈に背を向けてすっと膝を折った。
加奈は一瞬、相手が何をしているのか分からずに戸惑った。
「どうぞ。送りますよ」
女性が言ったその言葉から察するに、おぶってやる、ということらしい。しかし、見ず知らずの人にいきなりおんぶしてもらうというのはいかがなものだろうか。それもこんな街中である。というかそもそも私、重くないかな。
加奈がそんな風に躊躇してると、女性は更に続ける。
「大丈夫です。市民を助けるのが私の仕事ですから」
女性はそうして闊達な笑顔を加奈に向けた。加奈はそれにますます戸惑ったものの、立ち止まっている内にいよいよ体の重鈍感が強くなってきてこのままでは身がもたないと思い、半ば無意識の内にその言葉に甘え、彼女の背中に覆いかぶさっていた。
────────ー
「じゃあ、先生の息子さんって……」
「ああ、自殺だよ。それは間違いない」
河原の土手に座り込んだまま、翔一と国枝は話し続けていた。国枝は先程よりは気楽そうに、翔一は逆にますます真面目な表情になっていた。
「でもどうして……」
「ショックなことがあったんだよ。上手くは言えないけどな、あいつの世界がガラッと変わっちまうような」
「世界が……変わる……」
翔一は眉根を寄せた。その気持ちが、なんとなく翔一には分かってしまうような気がした。
何度も翔一は世界の劇的な変化に直面した。崩れさり、裏返り、引き裂かれる世界を目の当たりにしてきた。自分の生きる世界がいかに簡単に変わってしまうのかを。
「でもそれで死んじゃうなんて、一体なんで……。死ぬくらいなら一層のこと、逃げちゃえばよかったんじゃ」
目線を地面に落として、翔一は言う。
国枝はそれを聞いて軽く頷きながら、川の向こうを眺めた。
「案外辛いんだよ、逃げるのもな」
「逃げるのが……辛い?」
「ああ。逃げきれないものから逃げ続けるのは辛い。逃げるのをやめるには、立ち向かうか死ぬしかないんだ。あいつは……そこで負けたんだよ」
肩を落とし、国枝は苦笑いをした。国枝もまた、息子の死という逃れられない現実から逃げ続けてきたことに疲れ果てているようだった。翔一は息を飲み込み、そんな国枝にかける言葉を探した。
『離して……』
だがその時、翔一の脳裏に、姉の姿が浮かんだ。亡霊が、翔一をじっと見つめている。
あの時、姉の幻影に言葉を返すことが出来なかった翔一に今、国枝にかけてやれる言葉が存在するのだろうか。
『お願い……離して!』
あの時から時間は止まったまま、何も進歩していないのではないだろうか。本当は今も、姉の幻に見て見ぬフリをして、誤魔化して生きているのではないだろうか。翔一は今も、かけてやれる言葉を持たないのではないだろうか。
……でも、それでも。
『お前は……離すな!!』
「美味しい……」
翔一は無意識に、そんな言葉を呟いていた。
「……なに?」
「美味しかったんです、ピーマンが」
「ピーマン?」
「はい。俺が美杉先生にお世話になる前に、先生が出してくれたピーマンが、とっても」
唐突に昔の思い出話を語り始める翔一に、国枝は困惑した。どこかおかしくなったのかと翔一の顔を覗き込む。しかし、翔一は大真面目な顔で続けるのだ。
「あの時、あのピーマンを食べて、俺本当に楽しくなって。なんか、美味しいもの食べてよかったって。美味しいものっていいなって!」
「お、美味しいものだって?」
「はい!」
迫真の表情で頷く翔一。その光景は、場にそぐわないとても他愛ない内容と、あんまり真剣な表情がどうにもミスマッチで、どことなく滑稽にすら思えてくる。国枝は真顔の翔一を見つめている内にどうしようもなくおかしくなってきてしまった。
「……ぷっ! く……ははは! あはははははは!!」
ついこらえきれずに笑い声があふれでてくる。面白いことを言ったつもりがない翔一はそれに対して不服そうに抗弁した。
「わ、笑うことないじゃないですか、酷いですよ先生!」
いつもの俺のオヤジギャグは誰も笑ってくれないのに。
しかし、国枝はなおもおかしそうに翔一の方を見た。
「いやな、別にお前のことを馬鹿にしてるんじゃない。ただ、何を言い出すかと思えば「美味しいもの」とはな。お前らしいよ。ははは!」
国枝のその楽しそうな笑みを見て、翔一もなんだか嬉しくなってくる。そのまま破顔してちょっと恥ずかしそうに。
「そうですか? でもそうかもしれないですね! あははは!」
「ははははは、ったく、お前ってやつはな」
国枝は安心したように眉尻を下げ、翔一の肩を叩く。そして、大きく深呼吸をしてから落ち着いた声色で満足気に言った。
「ほんと、お前に会えてよかったよ」