三年前の、辛く、悲哀に満ちた戦いの日々。あの壮絶な時間を終えてから、今の涼に生まれた新しい日課は、チビとの散歩だった。
とても忙しい日(最も、今の涼にそんな日は滅多にないが)を除いては、一日一度、必ずこの小さな同居人の散歩に付き合っている。距離は気分次第だ。近所を周回する日もあれば、隣町まで遠出するようなこともある。チビの気の済むまで、散歩は続く。
今日もそんな日課として、涼はチビと一緒に街中を歩いていた。トテトテと四本足がたどたどしく進んでいく後を、ゆっくりと追う。この旅に、急ぐ理由も、目的もない。時折流れる北風を感じながら、ただただ目の前に広がる道を行くだけの、その何もない感覚が、涼には非常に心地よかった。
覚めない夢のように、ずっとこのまま、この何もない時間が続けばいい。そんな風に、涼はこれまでもずっと考えてきた。
そんな涼の目の前、少し先の、ちょうど住宅街の細い十字路になっている交差点を、ふと誰かが横切った。それは、普段の日常からすれば何でもない、当たり前のごく普通の出来事だった。
普通の出来事のはずだったのだが……。
「……!!」
涼の目にはその何気ない光景が、カメラで写し取ったかのように一コマ一コマが鮮烈に焼きついた。何故ならば、それがあまりにも異質な、涼にとってありえない、信じられない光景だったからだ。
彼の目の前を横切ったその姿は、長く流れる髪、女性にしては背が高く、大きな瞳、意志の強さを感じさせる口元と、なによりもその佇まい。どこか謎めいて、どこか儚げで、どこか危うげな美貌。
その姿を、彼が忘れるはずがなかった。
かつて互いに強く焦がれたその姿に、もう二度と、会うことは叶わないと思っていた。
「亜紀……?」
榊亜紀、かつて木野や真島らと共に暁号に乗り合わせ、未来を奪われた女。その中でもがき、苦しみ、逃げ続け、そして還らぬ者となった。涼に絶望と苦しみだけを残して、彼女は去った。
なんと、そんな彼女の姿が再び、涼の前を通りすぎたのだ。
「亜紀!」
無意識に名を叫び、駆け出す。チビもそれに付き従った。
距離にして100メートルほど先の交差点、もう既に彼女の姿はない。幻だったと言われてもおかしくない、いや、そちらの方がむしろ納得出来る。
だが、それでも涼は走った。目の裏に焼き付く幻影に追いすがるように。
もう一度会えるだけで……一言交わすだけでいい!
そんな願望にも似た感情を胸に、涼は彼女の姿が消えた交差点までたどり着き、振り返る。
そこにいたのは……。
「ぐっ……うう……」
残念ながら、涼が望んだ榊亜紀の姿はそこにはなかった。
なんの偶然なのか、代わりに出くわしたのは最近ではやけによく遭遇する顔だったが、今はどこか様子がおかしいように思えた。さやか、と呼ばれていた少女が足を引きずりながら、道の塀に手をつき、歩いている姿があった。
「おい、お前……」
思わず涼は、彼女に声をかけた。
よく見れば、足や手に怪我を負い、出血までしている。涼は以前、この少女を目にした時のことを思い出した。
何やら良からぬ連中に追いかけ回されていた少女。まさか、こんな子供に手をあげたというのか……。
とにかく考えていても仕方がないと、涼はさやかに近寄る。それに気づいて、さやかは彼を見上げた。
「あ、あんた……うっ!」
さやかが、体を抑えて顔をゆがめる。そこにも怪我を負っているのか、それともなにか別の原因なのかは分からないが、涼は倒れそうになるさやかを受け止めて支えた。
「おい、一体どうした! なんでこんな……」
そう言いながら、涼は辺りを見回す。
しかし、先程彼の目に写った亜紀の姿は、どこにも見当たらなかった。チビだけが不安げに、涼の近くで鼻を鳴らしているだけだ。「あたりまえか」と思いつつも下唇を噛みながら、涼は自分の質問に答えようとしないさやかを見下ろす。
彼女はただ、苦しそうに眉を寄せるだけだった。
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「とにかく、真魚さんのことはこれで全面的に捜索に当たることが出来ると思います。河野さんにも協力をお願いしましたから」
ひとまず自分の上司に連絡を済ませ、真魚の捜索に乗り出すむねを伝えた北条は、美杉邸で随分長い間、美杉の嘆きと悲しみを聞かされて、来宅した時よりも幾分か痩せたような顔で、最後に美杉に頭を下げた。美杉はそれを聞いて、神の救いでも得たかのような表情で自身も頭を下げる。
「刑事さん、本当にありがとうございます。あなたは頼りになる人だ!」
そう言いながら御丁寧に、両手で北条の手を握ったりなどしてくる。あまりにも大げさで、まるで彼が命の恩人かのような所作だ。まあ、美杉の真魚を思う気持ちを考えれば無理もないところなのだろうが。
北条は美杉の感謝を程々に受け取ると、改めて襟元を正し、今度は自分の要件に入ることにした。
「いえ、礼には及びませんよ。それよりも美杉さん、私からも少し、あなたにお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
迫真の表情でそう聞く北条に対して、美杉は怪訝そうに眉をひそめて首をかしげた。
「私に聞きたいこと? 一体なにかね? もちろん、力になれることであれば協力するが」
「はい。唐突にすみません、私が聞きたいのはあなたのお義兄さん、そして真魚さんのお父さんでもある風谷伸幸氏についてなのですが」
北条のその言葉に、見る見るうちに美杉の表情は変わっていった。
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真魚が目を開けた時、そこは先程までいた何も無い空間とは異なっていた。
辺り一面、見渡す限りが緑に包まれた、豊かな大地がそこに無限に広がっていたのだ。遥か彼方に広がる地平線では新緑の野山と澄み渡る青空が結びつき、大地はどこまでも青い芝生で覆われ、そこからいくつも生える逞しくも安らぎを感じさせる木々は赤々とした立派な木の実をつけ、その葉の隙間からは光が差し込んでいる。青い空にはまばらに白い雲が浮かび、地平線を目指して流れていく。その真ん中には強く輝きを放つ太陽が浮かんでいた。
芝生を踏みしめる感触も、若草の匂いも、風の通る音も、新鮮な空気の味も、太陽の温かさも何もかもがそこにはあった。真魚が実際にこのあまりに美しい空間に存在しているかのように。思わずその場に寝転んで、大きく深呼吸をしてしまいたくなるほどに。
「これは、始まりの楽園の記憶です」
と、真魚の背後から聞き覚えのある声がする。振り向けば、白い服を着た青年がそこに立っていた。
彼はあい変わらず穏やかな笑みを浮かべながら真魚に話してくる。
それはどこか、子供に昔話を聞かせてやる大人のような口ぶりで。
「かつて永遠の闇の中から生まれた一つの「力」がこの楽園を生み出しました。その「力」は冷たく、孤独な存在でしたが、「形」を作ることが出来ました」
そう言いながら、青年は片手を上げ、宙に何かを描く。すると、それに従ってそこに、黒色に蠢く流動的な何かが現れた。それは青年の近くをユラユラと漂いながら縮まったり広がったりしている。
「孤独な「力」は、自身から「光」を分けて生み出し、続けて「命」を分けて生み出しました。そこから「地」と「海」と「空」、「雲」、「星々」に形を与えて分けると、それらを支配するために自らの分身を七つ、生み出して友としました」
青年の言葉に従うように、黒い何かは宙を駆け回り七つの小さな破片を自分からちぎりわけた。
「そして、自らの使徒とするために君たちが「アンノウン」と呼ぶ存在をも、彼は作り出した」
そこで真魚が息を呑む。
アンノウン、自分たちを、人類を襲う未知なる敵。それを「生み出した」?
彼の言っている孤独な「力」とは恐らく、かつて幾度か真魚や翔一達の前に現れた、あの黒い服を着た青年のことだろう。ならば、彼がアンノウンを生み出したというのだろうか。
頭の中で疑問を浮かべながらも、真魚はどこかでその事実を知っているような気がした。いつか、どこかでそのことを何かで知ったような、そんな気がするのだ。
「やがてこの楽園には、「力」が自らに似せて生み出した人間と、アンノウンに似せて生み出した動物とが溢れます。人間は動物を家畜として従える術を学び、動物たちを虐げました」
その言葉と同時に、美しく澄み渡った空に暗い雲が渦をまくようにして立ち込め始める。
「自らの似姿を虐げられたアンノウン達はこれに怒り、かつて自らが人間たちを滅ぼさんと地に降りました。人間も抗いましたが、まだアンノウンに敵う術はなく、次第に追い込まれていきました」
やがて空の雲に稲光が走り、ポツポツと静かな雨が若草を濡らし始めた。太陽は覆い隠され、豊かな大地に影を落とす。
「君たちの言葉で「40年」にも渡る暗黒の歴史が始まり、楽園の時代は終わりを告げました」
また投稿に時間が空いてしまいました。
毎度すみません汗
不定期になっても細々とまた投稿を続けていきますので何卒よろしくお願いします