――兄ちゃん、今日は晩御飯どうするの?
――いる
鈴太から確認のメッセージに返信したのが甲斐の手当の最中、警察署を出る少し前である。タイミングとしてはそろそろ出来あがった頃か、と当たりを付けて玄関を開けると、聞こえてきたのはフライパンで肉を炒める音。焼けた脂と香辛料の匂いが小笠原を出迎えた。
「おう、帰ったぞ」
「おかえり、兄ちゃん」
ごめんね、もうすぐ出来るから待ってて、とキッチンの方から声がする。構うことなくどかどかと上がると、エプロンを着けた鈴太がフライパンと菜箸を振るっていた。
「お、今日は生姜焼きか。スズは分かっとるのう」
厚めに切った豚肩ロースの生姜焼きが、小笠原の好物だった。へへへ、と照れたように鈴太が笑う。
「今日は、ちっと疲れたわ」
「お仕事大変だね、お疲れ様。あと、豚汁と水菜のお浸しがあるから」
「おう」
献立に豚肉が被ってしまっているが、特に気にはしない。ご馳走には変わりないのだ。
ボロボロになった服は脱いでからゴミ箱に突っこんで、部屋着に着替える。幸いと言うべきか、鈴太は料理に夢中で兄の服装には気付いていないようだ。
どかり、と椅子が後ろに傾きそうなほどの勢いで小笠原はダイニングテーブルに着いた。
「ビールあるか?」
「うん、冷えてるよ」
「よっしゃ」
言いながら、当然のように自分で冷蔵庫には取りにいかない。鈴太も察して、調理と盛り付けの合間を縫って缶ビールを2本冷蔵庫から取り出し、テーブルに置いた。
プルタブを開け、一気に半分以上を喉奥に流し込んでから、溜息ともつかぬ声を上げた。
こちらに背を向けて調理に励む鈴太に語り掛ける。
「今日は何しとった?」
「今日はね、特にすることもないから予習してたよ」
「スズはほんまに賢いのお」
「他に、趣味もないから」
これは小笠原の兄馬鹿、というだけではない。実際に鈴太は、暇さえあれば苦にした風もなく勉強に打ち込むことが多かった。定期試験の成績も、学年上位を占める常連である。将来は医者に、と小笠原は半ば勝手に決め込んでいた。
「そろそろ、彼女のひとつでもできたか?」
何気ない問い掛けに、鈴太の背中が面白いぐらい跳ねた。
「い、いないよ……!」
自身の唾で咽たのか、咳き込みながら応える鈴太。それをにやにや笑いながら小笠原は眺めている。
「やめてよ兄ちゃん急に……」
「兄ちゃんは構へんぞ。昼間はおらんしな、連れ込んでも五月蠅うは言わん」
「つ、連れ込むとかそんな……そういうタイプの子じゃないし」
よほど動揺したと見える、聡明な鈴太が語るに落ちた。小笠原は笑みを深めてすかさず絡む。
「ほーう……おるんやな」
「あ、いやでも、お付き合いしてる訳じゃなくて……委員の繋がりでちょっと仲良くしてるだけで」
鈴太はへどもどしている。火を止め手をエプロンの端で拭いてから配膳を始めたが、その顔は耳まで真っ赤に染まっていた。不自然に俯いて、目を合わせようともしない。
「そろそろスズも……そんな時期か……」
「もう……!」
「おれに似て、モテるのう」
兄に似ていると言われて鈴太はさらに照れたが、にへへ、と満更でもなさそうな顔で笑っている。
「でも、僕みたいに気が弱い男なんて、女の子にはあんまり相手にされないんじゃないかなって……」
「まあ、男ならビシっとせないかん」
うんうん、と尤もらしく頷く。
小笠原は知る由もなく、鈴太自身も気付いていない事だが、実は鈴太は一部の女子の間では押しも押されぬ人気があった。16歳とは思えないほど幼い顔立ちは贔屓目を差し引いても可愛いと言えたし、おどおどした内気な性格は常に眉の辺りに困った様なニュアンスを施して、薄幸の美少年といった趣だ。加えて謙虚とも卑屈ともとれる態度は、好意や嫉妬など濃淡様々な感情を周囲に波立たせ、鈴太の学生生活に大小のドラマを生むことになるのだが、それは余談である。
「いただきます」
「ん」
今日は疲れと空腹の為か、酒疲れの常日頃が嘘のように食が進んだ。
「この水菜、中々イケるな」
「そう? 旬は少し過ぎちゃったけど、この前テレビで見たレシピ試してみたんだ」
鈴太が嬉しそうに語る事には、どうやら出汁のひき方にコツがあるようだった。
「生姜焼き、めちゃくちゃ美味い」
「でしょ。兄ちゃんのくれたお金で良いお肉と新生姜買ってきたんだあ」
「いつものスーパーと違うとこか?」
「うん。何ていうか……周りがマダムばっかりで、ちょっと居づらかったかな」
「お前、そういうオバハンにもモテそうやな」
「僕が悩んでたらねえ、色んなおばちゃ…お姉さんたちが一杯助けてくれたよ」
その時の様子は、小笠原にも容易に想像できた。
「……まあ、若いうちにようけ遊んどくこっちゃ」
「遊ぶ……? あ、うん、分かった」
あまり理解していない口調である。
「兄ちゃんも若い頃は、たくさん遊んだの?」
「おれは……遊んでたというより、暴れてたかなあ」
兄ちゃんらしいや、と言鈴太は笑った。
「あ、豚汁まだ沢山あるから、お代わりしてね」
「ん」
「はーい」
早速突き出された木椀に、いそいそと豚汁をよそう鈴太。ここまで小笠原の食が進むことは珍しい。
なあスズ、そう言えばな、と渡された木椀から豚汁を啜りながら小笠原は水を向けた。
「なあに?」
今むくむくと小笠原の心に湧きあがってきたのは、自慢したい、言ってしまいたい、という気持ちだった。
「お前、仮面ライダー好きやったっけ?」
「え、うん。いつも兄ちゃんと一緒に観てるし」
唐突な問いにきょとんとしてた顔で答える鈴太。
「カッコいいよね。何かさ、朝のニュースでやってた怪人だったっけ。ああいうのやっつけて欲しいよね」
ドカー、バキーって、と効果音を口真似する。
まあ、せやな、と言いながら、小笠原は複雑な顔をしている。
(そっちやないんやけどな)
ふと、帰り道での甲斐を思い出す。スマートフォンの画面に照らされる、あの憂鬱に沈んだ顔を。あの時は一笑に付したが、少しだけその気持ちが分かった気がした。
自分たちは今、民衆の敵、ベアリルなのだ。
何事にも、兆しというものがある。前触れ、あるいは事前の報せ。もしそれらが無いというのなら、それはただ見落とされているだけに過ぎない。
種は蒔かれ、萌芽し、微かに土を割って新芽を覗かせている。取り除かなければ、いずれは育つ。根で地を割り、ゆくゆく花も咲かせるだろう。ただ、それがどんな花なのかは、まだ誰にも分からない。
小笠原家の夜は、いつもの日常と変わらず平和に更けていく。
少なくとも、彼らがそう認識する限りにおいては。
少なくとも、今はまだ。