「ご苦労。今日は報告は要らん」
各自療養しろ、と開口一番頼佳は2人を労った。「以上だ」
「あ、あの」と甲斐。
「何だ?」
「さっきの女のひと、誰なんですか?」
「ああ、D‐3とかいう奴の事か。正体は不明だが、こちらでも調査を進めておく」
恐らく支援者による攻撃だろう、と頼佳は言うが、いまいち腑に落ちない甲斐である。
「また会う事もあるかもしれんが、自衛の為、撃破しろ」
「あの交番の地下におった虫みたいなチンピラも、うちらの仲間なんでっか?」と小笠原。
「……以上だと言ったはずだ。答える必要はない」
けっ、という顔をする小笠原に、すげなく突き放された子犬のような顔をする甲斐。
「全てが正義であり、人類の為だ」
「……一言だけ言うときまっけど、あんな奴ら信用せん方がええで。えらい目に遭うたわ」
「ピーチクパーチク喚く前に、そもそも今回の任務が何だったかよく思い出してみろ、この鳥頭め!」
頼佳が爆発した。以上と自分で話を遮っておきながら、よほど腹に据えかねていたのだろう。
「速度違反者の拘束と都賀交番への引き渡しだ、思い出したか! 何一つ達成できなかった無能に目を瞑ってやるから帰れ、と言っているんだ!」
「へーい。ほな、日給よろしゅう」
ストレートな怒りをぶつけられても、小笠原は堪えた様子もなくのらくらとしている。
投げ付けるように、二人の前に札束が放り出された。
言われてみればその通り、散々に苦労をした割に本日の任務は未達成であるという事に、今更ながら気づいた甲斐である。報酬に手を伸ばすことは昨日まで以上に躊躇われたのだが、小笠原の目顔に促されるようにして、結局は手に取りそっとダウンのポケットにしまった。
「ども、ほなさいなら」
「し、失礼します」
頼佳は椅子ごとそっぽを向き、今度こそ返事もしなかった。
「ただいま……」
「おかえりー……なんか、すっごく疲れてる?」
「あ、うん、そうかも」
時刻は18時頃。一足先に帰宅していたののが玄関まで出迎えてくれたが、ぎょっとしたように甲斐の顔をまじまじと見つめている。
暖色のダウンライトの下でもはっきりとした隈が見て取れるほど、甲斐は疲労の極致にあった。たった半日の任務をこなしただけで、未だかつてないほどの倦怠感に襲われていた。小笠原のような怪我こそないものの、片目を失明した状態で強行した慣れないバイクチェイスはAIのサポートが付いてなお、甲斐の繊細な神経を盛大に削っていた。あるいは、だからこそあれほどのライディングを披露できたのかもしれない。
「でもちょっと疲れただけだし、大丈夫だよ」
ちっとも大丈夫そうな顔ではないが、気丈にも甲斐は「ご飯作るよ」とキッチンに向かおうとした。冷蔵庫の余り物から主菜と副菜のレシピを瞬時に練り上げるのは、甲斐のちょっとした特技である。何なら冷凍食品のストックを解放してもいい。
「今ほっとんど空っぽなの、言ってなかったっけ」
言われてみればそんな気がしないでもない。
「しまった、スーパーに寄らなきゃいけなかったんだ……」
「いいじゃん。一緒に買い物いこ?」
「いや……確か挽肉がまだちょっと残ってなかったかな」
のっしのっしとキッチンに辿り着き、チルド室を開ける。
「あったあった。ピーマンもある。じゃあ、今日は肉詰めだな」
「手伝おうか?」
ののが肩越しに顔を覗かせた。
「うん、お願い」
甲斐は炊飯器をセットし、肉タネを作り始めた。牛乳でふやかしたパン粉を挽肉に混ぜていく。ののは不器用な手つきで野菜室に半身の姿で残っていた玉ねぎをみじん切りにしていた。狭いキッチンに高さのまるで違う肩が並び、心地よい沈黙が満ちる。
「何かさ」
ぽつりと、ののが呟く。
「ん?」
「何かさ、うまく言えないんだけど」
「うん」
「何でも、言ってね」
甲斐は自分の肩よりも下にある恋人の顔をちらりと見下ろした。ののは目線を手元に向けたまま、言葉の穂を継ぐ。
「さすがにちょっと、心配だよ。毎日そんなに顔色悪くしてさ」
「大丈夫だよ……でも、ありがとう」
務めて明るい声で、甲斐は答えた。
「今朝も、様子が変だったし」
「……疲れてるんだよ。中々慣れない仕事してるからさ、今」
警察の人って独特の空気あるし、まだビビっちゃうっていうかさ……と言葉を濁して取り繕う。だが、ののは一応信じてくれたようだった。
「そりゃそうだよねぇ。ほら、小心者だし」
安心したように、悪戯っぽい声で笑う。
「もう、すぐそんな事言う」
唇を尖らせて抗議するが、内心ほっと胸をなで下ろしている。
「ののちゃんは、かわいいのに、何て言うか滅茶苦茶強いよね」
「そうかも」
吹き出すようにののが笑った。
「私は、俊亮の強そうに見えるのにかわいらしいとこ、とっても好きだよ」
「かわいい、かなあ」
「かわいいよ」
「腑に落ちないなあ……どうせだったらカッコいいって言ってよ」
「ん、ちゃんとカッコいいよ」
「本当かよ」と言いながら、自分でも頬が紅潮しているのが分かった。照れだけではない。変身している時とはまた違う、春風にも似た穏やかな充足感と高揚感があった。
喋りながら手を動かしていく。既にピーマンには小麦粉を振るい、あとは肉タネを詰めて焼くだけだった。味噌汁用の手鍋が沸き、甲斐は手早く出汁のパックを取り出した。
「そう言えば、夕方に宅配の業者っぽい人が来ててさ。俊亮、何か通販で買い物でもした?」
「え? いや、何も頼んではない、けど」
豆腐を掌の上で切ろうとする手が止まった。
本当に、心当たりはなかった。
ののが帰宅した直後、インターフォンが鳴ったのだという。ドアスコープから覗くと作業着の男が3人。いずれも、業者名の分かるものは身に着けていなかった。のの自身の心当たりも甲斐からの言伝もなかった為、咄嗟に出る事なく居留守を決め込んだ。男達は程なくして立ち去ったようだが、再度の訪問は無かったという。
(それって、支援者……?)
まさか、と頭を振る。連日世間を騒がせている、ベアリルと称される2人組の怪物、それと甲斐俊亮という個人を紐づける手がかりは何もない筈だった。
だが、用心に越した事は無い。警察で聞いたんだけどさ、と前置きして釘を刺す。
「何だか最近、そういう不審者が多いんだって。ちょっとでも怪しいと思ったら、出ちゃ駄目だからね」
「分かってるよ」
子供じゃありませんー、と返す膨れっ面がそのまま子供なのだが、ここで混ぜっ返すと怒られるので、「本当かな?」と含み笑いで突っつくにとどめた。
「ホントですー。俊亮と違ってオトナなのー」
「同い年じゃん」
「年齢の問題じゃないんだなあ」
「おかしいなあ……」
笑い声はさざ波のように重なり合い、キッチンを緩やかに満たしていく。
こうして手と口を穏やかに動かすことで、一日の疲れがほぐれていくような気がした。
(やっぱり、僕は料理が好きなんだなあ……それに、ののちゃんの事も)
片目は相変わらず見えないが、それも1日で大分慣れた。頼佳が請け負ってくれたのだから治療法が見つかるかもしれないし、何なら明日の朝起きたら治っている事だって考えられる。日中の調査も、柄は悪いが頼もしい相棒がいる。家に帰れば、帰りを待ってくれる大切な人がいる。
何も心配する事は無い。自分に出来るベストを尽くして、1日いちにちを大切に過ごそう。
心の底から、そう思えた。
この時までは。