呼張たこ公園。
サッカーグラウンド程もある敷地のど真ん中に蛸を模した巨大な遊具があることから、ここはそう呼ばれている。
遊具を囲むように疎らにベンチが配置されており、そのさらに外側には桜の並木と植え込みが簡易ながらも遊歩道を形作っている。羽星市の中心部であるビル街の中に現れるオアシス、近隣の住民にもそのように捉えられ、平日休日問わず親子連れの姿が絶えない。
何時の世もカリカチュアに歓声を上げる子供たちの感性の例にもれず人気を博するこの公園に、ここのところ不審者が毎日のように出没するのだと言う。
「いい天気だなあ」
「おいおい、遊びに来たんとちゃうぞ」
甲斐の暢気も無理はない。目の届く限り遊具は手入れが行き届き、芝生や植え込みも綺麗に刈り込まれている。それにこの陽気である、子連れの主婦やジョギング中の老人の姿は絶えることなく、気持ちの良い風景が何時までも、どこまでも続いていた。
今日は、調査の初っ端から警官姿の二人である。大柄な制服姿の2人組は勿論人目を引くのだが、にこやかな甲斐の会釈がすれ違う人々の毒気を抜くのか、不思議と周囲の雰囲気に溶け込んでいる。
不審人物が出るという通報だったが、行けど歩けどそれに類するような不穏な気配はどこにも感じられない。
公園の外周と遊歩道をぐるり2周ずつ周り、時刻はそろそろ正午に差し掛かろうと言う頃になって、さすがに小笠原はうんざりしてきた。この陽気である。制服姿で歩き詰めとなれば、汗ばむ衣服が一層不快感を煽った。
全然どうもあれへんやんけ帰ろうや、そう水を向けようとしたところで足を止め、甲斐に目くばせした。
10メートルほど前方、ブランコの裏手にあたる植え込みがガサガサと不自然に揺れている。茂みの高さは丁度成人男性がしゃがんで隠れられるほど、犬猫というにはちょっとばかり揺れ方が大きく雑多に過ぎる。
(聞こえたか?)
(はい、あれ、怪し過ぎますよね……)
足音を殺しながら植え込みの切れ目を越え、ブランコの側から覗き込んでみる。ブランコの後ろには2脚の安っぽいベンチが並べられており、ベンチと植え込みに挟まるようにしてスーツ姿の男が一人、もぞもぞと落ち着かなげに身をよじらせている。何かから隠れるつもりであれば、全くその用をなしていない。
「おい、何しとんねん」
呆れたような小笠原の問い掛けに、男は「ひいっ」と文字通り飛び上がって仰天した。
歳は20代半ば頃であろうか、随分と貧相な男だった。服装こそビジネスマン然としたグレースーツだったが、しばらくクリーニングにも出していないのだろう、あちこち皺が寄っており、貧弱な撫肩がオーバーサイズ感を過剰に伝えていた。ぼさぼさの髪には植え込みの葉っぱが1枚、だらしなくへばりついている。
更にその面構えたるや、捕食動物の挙動を覗う小動物そのものの上目遣いである。その男を目にした小笠原の心中に、瞬時に火が点った。
その火はこう告げていた。こいつ、いじめたる。
「おうおう、不審者発見やな!」
殊更に大声で詰め寄る小笠原の姿に、男は大げさなほど狼狽えた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
叫ぶように謝罪の言葉を繰り返し、手中に抱えていた物を取り落とす。
「あ……」
それは、食べかけの弁当だった。パッケージからして、その辺りのコンビニで購入したのだろう。半分以上手つかずの白米と唐揚げがひっくり返り、グラウンドの砂に塗された。
男は零れ落ちた弁当とこちらを交互に見て、泣きそうな顔をしている。
流石に、甲斐は男が哀れに思えてきた。
「あの、済みません。大丈夫ですか?」
「あぅ……」
その気遣いは一層男の惨めさを煽ったのだろう、その声は既に半泣きだった。
「いっつもこうだ。ぼくの人生そのものだ……いいんです。お気になさらないで……」
「お、落ち着いてください。ここで、何かされていたんですか?」
「いえ、そう言う訳ではないんですが……ここで、お昼ご飯を……」
「昼飯を? この植え込みでか?」
芝居がかった大声で、問い詰めるような口調の小笠原である。
「食いもん粗末にすんなって、親に教わらんかったんか?」
「ご、ごめんなさいごめんなさい!」
「ちょっと、脅かしたのは小笠原さんでしょ!?」
「あー、うるさいうるさいうるさい」
「僕はただ、青空の下でご飯を食べようと……」
「分かりますよ、ええ。こんないい天気ですから」
図らずとも、「良い警官と悪い警官」の構図そのものを模したような2人である。このまま尋問を進めるのであれば、さぞかし男の口は滑らかになったことだろう。だが、「良い警官」はその善意によって、すぐさま前線を離脱した。
「あの、僕、かわりのお弁当買ってきますね」
そう言って、最寄りのコンビニに向かって足早に駆けていった。
「お、お構いなくぅ……」
明確な拒絶の意志も示すことが出来ず小笠原と2人きりになってしまった男は、自身に降りかかる災厄の予感に身震いせざるを得ない。
恐々と肩越しに振り返ると、逆光に翳る警官(偽)の顔が、にたりと性悪な笑みを浮かべて見下ろしてくる。
果たして、小笠原は小うるさい甲斐が見えなくなってすぐ、その本性を露わにした。
「おら、吐かんかい!」
「ひぃ、ひぃ……知りません、不審者なんて……ひぃ」
「じゃあお前が不審者やな。市民の皆様にお詫びの気持ちを込めて、もう100回追加や!」
「ひぃ……」
おにぎりを二個購入して戻ってきた甲斐が見たのは、半べそで腕立て伏せを強いられる男と、それを腕組みしながら見下ろし罵倒する小笠原の姿だった。
「ちょっ、何してるんですか!?」
「腕立て伏せ」しれっと小笠原が答える。「あと180回やったかな」
「そうじゃなくて、理由を聞いてるんですよ!?」
「……なんでやったっけ」
(特に理由もないのかよ!)
呆れかえりながら、甲斐は男に手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
ひぃひぃと息をつきながら、男は立ち上がる。
「あ、ありがとうございますぅ」
「おう、そういやお前、名前は?」
(それすら聞かずに腕立て伏せか……)
「ぼく、根墨、って、いいます……会社員、です……」
脂汗をかきながら息も絶え絶えに言葉を返す根墨。
「身分証明書」
居丈高に片手を差し出す小笠原に、根墨は素直に保険証と免許証を差し出す。
「根墨孝史郎ね」
それをスマートフォンの写真に収めて、「これでもう逃げられへんぞ」と強めの声色で脅し付ける。
「ひぃ……」
根墨が跳び上がらんばかりに身を震わせている。
「またすぐそうやって脅す……」
だが、意外なことに、根墨が怯えているのは別の何かにであるようだった。
甲斐と小笠原の肩越しに視線をやり、慌てた様子でベンチの後ろに隠れようとする。
何だなんだと振り返って視線の先を追う2人の目に映ったのは、スーツ姿の男女だった。揃ってこちらを見ている。
警官の捕り物を珍しがっているという風でもない。正確には根墨を見て、何がそんなに可笑しいのか、聞こえよがしに笑いあっているのだ。
「あー。あれ、ねずみじゃん」
「傍にいるのって警察? なにお前逮捕されんの? まあ存在自体不審者だもんなお前」
パンツスーツの女はこちらにスマートフォンを翳して写真をパシャパシャと撮っている。後から仲間内で回し見て、物笑いの種にでもするのだろう。無用に張り上げた声が、昼時の公園に似つかわしくなく響き渡った。
甲斐の顔が曇る。一見格好だけはビジネスパーソン然とした集団だったが、品のない連中だった。しかも若者だけではない。部長と呼ばれた年かさの男も、こちらを指さし嘲り笑っている。
「ネズミらしく公園で飯でも食ってろ。人間サマは寿司屋でも行くか!」
どっと歓声が上がった。
「あ……いってらっしゃい……」
へらへらと笑いながら根墨が小さく手を振った。もうそれきり興味を無くしたと言わんばかりに、男女はビル街に消えていった。
ぼく、何も身に覚えがないんだけどなあ、と呆然とした目で1人ごちる根墨。
「嫌な、人たちですね」
心底同情するような目で見下ろす甲斐の眼差しが、却って根墨の心を突いたようだった。
「こんな所でお昼ご飯食べるなんて、気持ち悪いですよねえ」
目線は下を向き、口調はへらへらと笑いながらも自虐に湿っていた。
「同じ会社の人ですか?」
「ええ、ええ、同僚です……恥ずかしいとこ見せちゃいましたね」
「お前、あそこまで言われて何も言い返せへんのか」と小笠原。この男まで憐みの目を向けていた。
「でもでも、でもですね、僕はもうすぐ生まれ変わるんです」
「あん?」
「弱い自分から生まれ変わるんです。見てくださいよ、これ」
根墨がポケットから取り出したのは500ミリサイズのペットボトルだった。中に透明な液体が満たされており、手作り感のあるチープなラベルには「神の涙」と印刷されていた。
「何ですか、これ?」
「由緒正しい、血統書つきの水ですよ」
全く説明になっていない。
「今飲んでる水は全部これにしてますし、家の浄水器も変えました。すごいんですよ、身体から邪気や陰気を洗い流してくれるんです」
シャワーヘッドも変えて……というところで少し我に返ったようで、照れた笑みを浮かべる根墨。
「何か、怪しい代物ですよね……」と甲斐。
「いやいやとんでもない!」
遮るように勢い込んでから、根墨は一層卑屈な笑みを浮かべる。
「この前にね、占い師さんに声を掛けられたんですよ。『貴方、何かに大変な思いをしているね』って。ズバリ当てたんですよ。『仕事が大変でしょう』『人間関係も苦労している』『自分自身に悩みがある』って。全部当たってたんですよ、すごいでしょう?」
大げさな身振りとともに、早口でまくしたてる。
どう聞いても、当たり障りのない誰にでも当てはまる曖昧な指摘を、根墨は大層蟻有り難がったようだった。よほど理解者に飢えていたのだろう。
「そしたらですね、そんな人に効果覿面なものがあるから話を聞いてみるといいって、人生変わるっていう話をもらいまして。御神水セミナーっていうんですけど、それに通い始めたんですよお」
ほおお、と小笠原は感心している。こういう馬鹿を騙して金儲けの道筋が出来上がるんだなあ、とシルクロードの成り立ちをなぞる歴史家のような目をしている。
「大変言いにくいんですが……それ、詐欺……じゃないですかね……?」と甲斐。
「いえいえいえ! 僕もね、最初は皆さんと同じように疑ってたんですけどね」
と言った所で、何かを思い付いたようだ。
「そうだ、皆さんもセミナー体験に来ませんか? 今日ね、ちょうど大きなイベントがあって、会員以外も1日体験が出来るんですよ。『神シリーズ』は名前の通り商品に神様が宿ってるんですけど、今日はその神様が降臨なさるそうです」
どうやら先に出てきた浄水器も神シリーズとやらの一つらしい。他の人間に神シリーズを紹介すると売り上げの10%を貰える、更に紹介された人間が更に紹介していけばその分も懐に入るのだ、と根墨は興奮した様子で自らの手柄のように語った。
(これって、まんまネズミ講ですよね)
(ギンギンのマルチやな。流石にちょっと可哀想になってくるわ)
それに、商法云々は置いておくとしても怪しい話ではある。神、そしてその降臨。支援者を思わせる単語が散りばめられている。調査の価値はあるかもしれない。
(セミナー、行ってみるか?)
(ですね)
「あの、そのセミナー、僕たちも参加してもいいですか?」と甲斐。
「勿論、大歓迎ですよ! あ、でも警察服で来てしまうと皆ビックリしちゃうかもしれませんので、私服でお願いできますか?」
「まあ、ええけど」と小笠原。
ではセミナーが14時からですから、30分後にここで集合という事で、と言うと根墨は小躍りせんばかりの上機嫌でその場を後にした。午後休を申請しに、一旦職場へ戻るらしい。
根墨の姿が消えてから、AIbotがビープ音を発した。
『任務更新:当該セミナーへの潜入。支援者団体の可能性あり』
二人が着替えて戻ってくるのには三〇分もかからなかったが、根墨は既に先ほどのベンチに座っており、ぶんぶんと手を振ってきた。
「休み、取れましたあ」
と嬉しそうに報告してくる。
「というより無視されたので、正式に取れているかのか分かりませんが……」
ひひ、と自虐的に笑う根墨を見下ろし、小笠原は同情の余り目頭を押さえそうになった。
「さあ、行きましょう」
案内されたのは、徒歩で10分ほど、羽星市の中心部にあってなお威容を誇る高さのタワービルだ。その名も羽星タワーという。
様々なテナントが詰め込まれた商業ビルの、50階でセミナーは行われるらしかった。
簡単な受付に出鱈目な名前を書き、入ったのは大学の大講堂のような会場だった。後ろの席が階段状にせり上がっていく形で、部屋全体の奥行と高さはかなりのものがある。その気になればオーケストラ公演もできそうだ。
セミナーの開始まであと10分ほどあるが、席の半分以上は既に埋まっている。随分と盛況なようだった。
「こんなところでマルチ商をやってるんですね」
もっと閉鎖的でカルトまがいの空気を想像していた甲斐は、何だか肩すかしを食らっている。
「一見まともな雰囲気なんがミソなんやろなあ」
(ただし、まっとうなマルチやったとしての話やが)
「あ、先生が来ました」と根墨。
神シリーズの生みの親なんですよ、と根墨が指さしたのは、舞台裾から現れ40代半ばと思われる女性だった。遠目にも高額なブランド物と分かる服装で、ゴテゴテと身を固めている。
「ほらほら、始まりますよ」
鼻息も荒く興奮する根墨を横目に、甲斐は気付いた。
講堂の後ろにある2つの大きな扉――先ほど自分たちの入ってきた出入り口だ――の脇に立つ、黒いローブとサングラスを身に着けた男。立っているのは1人ずつだが、どちらも眼を瞠るほどの堂々たる体躯だった。そして、さりげない風を装って扉に鍵を掛けている。
ちらりと小笠原が甲斐に目配せするが、甲斐も気付いているようで、警戒した面持ちで小さく頷きを返してきた。
視線を戻すと、女が舞台中央のスタンドマイクの前でスピーチを始める所だった。数度マイクを軽く叩き、音響を確かめる。
「あらあら、こんなにお集まり下さって光栄ですわ。本日は神シリーズ商品紹介と併せて、皆さんの力で神様をこの場に降臨させて見せましょう」
キンキンと高音が耳につく声だった。服装といい芝居がかった台詞といい、人の意識に残るようなキャラクター作りを行っているのだとすれば、ある意味で成功していると言える。
それにしても、観客の力で神を降臨させるとはどういう事だろうか、と小笠原は瞬時に判断しかねた。
その考えを置いてきぼりにするかの如く、講師の女は淀みなく話し続ける。考える暇を与えず、ひたすら正誤のあやふやな情報を流し込んでくる。
「私たちは、何よりも水を重んじているのです。ですから水をこそ崇め奉らなければなりません。何故なら私たちの身体のおよそ6割は水で構成されているのですから……」
内容はどうという事は無い。水がろ過されることで失ってしまった神性を呼び戻し、その聖なる水を常飲していれば生活の全てが上手くいくようになる。私たちにはそのノウハウがあります。実践すればみんなハッピー。
だが上手いのは喋り方だった。抑揚を付けた、しかし止まらぬスピーチが静かに観客の興奮と心酔を引き出していく。
隣に座る根墨など、瞬きすら忘れて聞き入っている。
「さて、本日は祝詞を読み上げる事によってお水に神性を取り戻しましょう。私が触媒になって、皆さんの力を終結させるのです。ではお手元の資料を元に復唱を」
そう言えば、入り口でA4サイズの資料が配布されていた。手元に寄せてみると、下の方にその祝詞とやらが平仮名書きで記載されている。
『ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるうるるいえ うがふなぐる ふたぐん ※繰り返し』
「いきますよ、せーの」
観客たちの祝詞がこだました。講堂の作りもあってか、くぐもるような響きと抑揚のなさが、一層不気味さを引き立てている。
「ほら、お2人も読んでください」
愉悦に口の端を歪ませた根墨が、二人を促す。
「えい、じゃかましわ。お前は大人しゅうもごもご言っとれ」
呪文めいた祝詞は最初こそバラバラに唱えられていたが、繰り返されるうちに徐々にまとまりが出てきた。それに、詠唱の速度も変化している。ゆっくりと噛み締めるように読んでいたものが、次第に速く、そして大きく。顔や手、露出した皮膚の産毛が音圧に震える程の唱和に。
耳を塞ぎたくなる大音響の中、甲斐は気付いた。
講師の口元に違和感がある。明らかに祝詞の進行と一致していない。
(もしかして、別の何かを喋っている……?)
会場のボルテージは最高潮に達している。
突如、何かが小さく爆ぜるような音がどこかから聞こえ、それと共に何かが机の上に飛んできた。小振りの果実程のそれを、小笠原は咄嗟に左の拳で叩き落とした。
ベチャリ、と水っぽい音と柔らかな感触。嫌な予感に顔を顰めながら叩き落としたそれを覗き込んでみる。
「なんすかそれ」と甲斐も視線を向ける。
拳にほのかな暖かみをのこしたそれは肌色で、うっすらと毛が生えていた。裏側は赤く、西瓜を引き千切ったような断面をしており、所々焦げたような跡もあった。
人肉の一部だった。
ひっ、と甲斐が小さく息を呑んだ。その間に、小笠原はこの人肉の飛来源に目を向けている。
いくつかの列を隔てた席の、恐らくは男性だった。『恐らく』というのは服装以外で最早判別が付かないからで、過去形なのは最早人間であるかも怪しいからだ。
その身体は、全身が奇妙に膨れ上がっていた。粘性の液体が泡立ったような凹凸が表面を隈なく覆い、緑がかった汚らしい色に染まっている。
肘や腹の一部が裂け、内側から同じ質感の肉が飛び出していた。顔も飛び出た眼球以外は原形を失い、そこかしこから触手が生えている。口があった場所は裂けたように中の空洞を覗かせているが、所々唇の上下が癒着したようになっており、隙間からくぐもったうめき声が洩れていた。
「うわ、何やこれ」
小笠原は突然の事に呆気にとられながらも、原形を大きく損ねた人体を見て先日の牧師を連想した。確か、あの男も泡立つようにその身体を変形させていた。ただ、それは牧師自身の意志によるものだったが、今回のこれがそうであるようには見えない。
人肉の破裂する音はとめどなく連鎖していく。油で熱したポップコーンのように肉が飛び散り、次々と人が人間の姿を失っていった。
俄かに、会場はパニックに陥った。
聴衆の半数ほどは変形を免れていたが、祝詞の代わりに悲鳴を上げ、それすらままならない者はひたすら硬直している。
舌打ちの音が聞こえた。講師だ。
「今回は随分残ったわね。不作だわ」
マイク越しに、低い声で忌々しげに吐き捨てる。先ほどの作り声はどこにもない。
よく見るとその右手もその肘の先が泡立つように膨れ上がっていたが、目の前に掲げられた腕は次第に元の姿へと戻っていった。講師自身にも動揺は見られない。
(あれは……注射器?)
甲斐の目には、講師が手元の箱から小型の注射器を取り出し、自身の腕に突き立てたように見えた。
(即効性の解毒剤みたいなものかな?)
「変化しなかった個体はゴミよ、始末なさい」
その指示は、入り口を固めていたローブ姿の男達に向けられていた。
指示を聞いて、一斉にローブが乱暴に毟られ、サングラスが弾かれる。その下から現れたのは、地獄の生き物のような怪物だった。
剥き出しになった筋肉のような質感でありながら、どす黒い表皮。特筆すべきはその上半身で、大小4対の腕が肩から生えており、その先端には水かきのついた爪や触手を備えていた。肩と腕に埋もれて首は見えない。その上に乗る頭部に目は無く、中央にのっぺりとした1対の鼻孔がある。口を大きく開けるとそこに歯は無く、大量の触手が蠢くばかりだった。
その姿はまさしく異形の一言に尽きたが、変形した観客たちのような病理的なものではなく、進化の末確立した形態をもつ一個の生命体であるように見える。それが却って恐ろしさを掻き立てていた。
それらの姿を見て、逃げようとした聴衆はさらに悲鳴を上げた。
先頭の者は二の足を踏もうとするものの、殺到した後続の勢いを殺しきれない。結果として怪物の目の前に無防備に近寄る羽目となった。
怪物たちの仕事は、楽なものだったろう。すし詰めになり逃げようにも逃げられない哀れな人間たちを思う様蹂躙していった。太い腕でなぎ倒し、鍵爪で切り刻み、より近くにいた者は身体を掴んで生きたまま骨格ごと引き千切った。空間を引き裂くような恐怖の悲鳴は断末魔のそれに替わり、吹き出す血しぶきが当たりを染めた。
『任務更新:当該エリアからの脱出』
AIbotが無情なビープ音と共に指令を更新した。
「えらい気軽に言うやんけ。ズラかるのもひと苦労やぞ」
「ちょっと、それどころじゃないっすよ!」
甲斐の焦った様な声に振り返ると、根墨が地面にずり落ちた格好で、目を見開いて震えている。やけに大人しいぐらいに思っていたが、その視線を追うと原因はすぐに分かった。
根墨の右脛の辺りが、波打っていた。スラックスがその下から所々持ち上げられ、痙攣するように動いている。
「な……なん、なんでえ。怖い、怖いです……」
その視線は忙しなく動いている。意志に反して蠢く右脚と、全身が変形した客、そして甲斐の間を何度も行き来した。甲斐には、言いたい事が痛いほど分かった。
「大丈夫、大丈夫ですから……解毒剤があります。それを注射すれば、きっと……」
手を握り、目を合わせて励ましの言葉を掛ける甲斐だが、そう言っている間にもスラックスの波打つ部分は上に広がり、その面積を広げているように見えた。着実に、浸食は進んでいる。
「足が……嫌だ……かみさま……」
解毒剤とはいうが、あの講師の女、あいつから奪うしかないか……そう甲斐が考えを巡らせたところで、小笠原から鋭い叱責が飛んできた。
「気ぃ抜くな、来るぞ!」
顔を上げると、小笠原が既に戦闘態勢に入っていた。襲い掛かっているのは、あぶく状に変形した聴衆だった。大振りに振るわれる拳をダッキングで躱し、カウンター気味にボディに1発、反撃の気配を感じとるやステップバックで距離をとる。ふと、小笠原がこちらに視線を向けた。
「おい、後ろや!」
その言葉がなければ、あるいは死角である右側からの攻撃であればきっと躱せなかっただろう異形の拳は、甲斐の側頭部ギリギリのところを重い風切り音を纏って掠めた。
「こんにゃろ!」
姿勢を崩しながらも、異形の腿の辺りにローキックを見舞う。ぶよりとした肉の撓む感覚がおぞましい。
格闘技の心得などまるでない甲斐だが、その隆々たる体躯から繰り出される体重の乗った蹴りは、流石に効果があったようだ。痛みを感じた様子は見せないものの、肉の塊はわずかによろめき、後退した。
気付けば、根墨を中央として左右に小笠原、甲斐両名が構え、その外側から異形の肉塊たちが群がってきている。幸いなのは、異形たちの知能の低さと鈍さだ。固定座席の並ぶ講堂の造りのお蔭で、取りあえずは座席の列間を通ってやってくる肉塊どもを一体ずつ相手するだけで良かった。座席の列を乗り越えてくる奴は今のところいないが、それも何時までも続くとは言い切れない。
「おうおう、イケメン揃いやないか」
「そんな事言ってる場合かよ! 変身、変身しなきゃ」
しかし、こう距離を詰められてはその隙もない。かと言って後ろに下がる場所もない。力づくで、しかも生身でこいつらを後退させなければ……
小笠原がファイティングポーズを崩さぬまま横に唾を吐き、それが床に落ちるより先に鋭く踏み込んだ。大振りの拳を低く搔い潜り、山なりの軌道で右拳を顔面に叩き込む。運動量を殺さず続けざまに放った横蹴りは、ダメージを狙ったものではない。ぐい、と肉塊は大きく後ろによろめいた。何をするべきかは、小笠原も分かっている。
迷わず、シリンジを取り出した。
『Harricane!』
「イケメンども邪魔すなや……変身!」
嵐が、荒れ狂った。
シャツをはためかせる、屋内とはとても思えぬ暴風が、背後の状況を正確に甲斐に伝えた。
(くそ、小笠原さんみたいにスマートにはいかないな)
何せ、人を殴るのにはまだ慣れない。生身となれば尚更で、おまけに右目が見えないものだからまるで遠近感が掴めない。小笠原が隻眼ながらあれほど的確に動けるのは、ひとえに慣れと暴力への躊躇いの無さに尽きる。そしてそれは、どちらも甲斐には無いものだった。
(何か投げて時間の稼げるもの……は、ないか……)
加えて、変身まで躊躇う始末だった。
(痛いんだよなあ、筋肉注射より……)
しかし、今この状況で贅沢は言っていられない。頼れるものは己の手足しかないのだ。
仕方ないと腹を括って、掴みかかって来ようとする肉塊の、かつて頬桁だったあたりを思い切り殴りつけた。
その一撃で、肉塊は宙を舞うように吹き飛んだ。甲斐自身はあまり気付いていないが、フィジカル面では小笠原よりもよほど才がある。体重も筋力も、数割増しで甲斐に分があった。普段は生来の暢気さと平和主義精神がそれを覆い隠しているだけだ。
顔を顰めながらシリンジを取り出す。
『Combustion!』
「嫌だけどぉ……変身!」
炎が、渦を巻いた。