「おかえり、兄ちゃん。お寿司、ちょうど今届いたとこだよ」
小笠原家の食卓に、漆塗りの寿司桶が鎮座していた。
臨時収入に気を良くした小笠原が、特上寿司の出前を取るよう帰宅前に連絡していたのだ。
どこか恐る恐るといった態度の鈴太の意識は、明らかに寿司桶の方に向いていた。決して裕福とは言えない普段の暮らしぶりである。先日兄から札束を受け取った時も目玉が飛び出るかと思ったが、たったの一食に惜しみなく金額をかけた高級食の代名詞を目前にして、改めてその非日常性に圧倒されている。
「おう、ただいま。今日はなー、楽しかったぞ」
馬鹿笑いしながら、小笠原の声は完全に浮ついている。
「なんか、最近兄ちゃん毎日楽しそうだね。朝は元気ないけど」
「ん、せやったかな」
鈴太にしてみれば、昨日今日と身体の異変にショックを受けている朝の兄の姿と、そのストレスを大いに発散して上機嫌で帰ってくる夜の姿に大きなギャップを感じざるを得ない。
「まあ、仕事を楽しんでこそプロよ」
どの口が言うか、という感じであるが、鈴太はほえーと素直に目を輝かせ兄を尊敬の眼差しで見つめている。
「そのうち、何のお仕事してるか教えてね」
「そのうちな」
冷蔵庫の方をあごでしゃくると、心得たとばかりに鈴太が缶ビールを取り出す。
せや、と小笠原は顔を上げた。
「寿司食ったら、風呂でも入りに行くか」
「ほんとに!? 行く行く」
鈴太は小躍りせんばかりだ。
肌寒い筈の春先の夜気が、火照った頬を心地よく撫でていく。銭湯の帰り道である。
「はー、良いお湯でした。お寿司も美味しかったし、今日は何だかお祭りみたいだねえ」
「ん」
古びたどてらに身を包み、鈴太は上機嫌で速足にジャージ姿の兄の後を付いていく。歩幅が違うので、一緒に歩くときは常に小走りのようになってしまう。
背中のリュックサックは大きく膨れていたが、急ぎ足という以上に鈴太の足取りは軽い。
「そういや、お前、リンスなんぞ使とるんやな」
「いや、使った方がいいよって、本田さんが」
「本田さん?」
「おんなじ委員会の子。枝毛があるって言ったら、お勧めのリンス教えてくれて」
「一昨日言うとった、例の彼女か」
「ち、違うよ!? そんなんじゃないよ!?」
「隠さんでもええ、兄ちゃん分かっとるさかい」
「分かってるのかな……」
「明日は赤飯炊いといてくれや」
「分かってないよな……」
「おれがスズぐらいの歳にゃ、何しとったかなあ」
ふと、小笠原は遠い目をする。
「ボクシングは、もう始めてたの?」
「確かそうやったと思う。あとはやんちゃばっかりしとったな」
「やんちゃはしないけど、僕も兄ちゃんみたいに強くなりたいなあ」
鈴太は小笠原に対して、憧れのような感情をずっと持ち続けている。いくら殴られようが、施設でも虐めから守ってくれて、自分をあの場所から救い出してくれた兄は、鈴太にとって唯一無二の家族であると同時に、掛け値なしのヒーローだった。
「アホ、喧嘩ばっかし強くなったてしゃあない。お前はちゃんと勉強せえ」
鈴太には自分に出来なかった進学や真っ当な労働をさせてやりたい。それが小笠原の最も強い動機である。鈴太が学業で優秀な成績を治めている事は知っている。その気になれば、医者にでも弁護士にでもなりたいものになれる。少なくとも、そう小笠原は信じている。
「うん……」
「でもまあ、やりたいっちゅうなら、乱馬ジムにでも通うたらええ」
「うん!」
「寝墨っていうヒョロい兄ちゃんがおるさかい、虐めて遊んだらええわ」
「虐めないよ!?」
はっはっは、と笑う小笠原の横で、不意に鈴太がしゃがみ込んだ。振り返る小笠原の視線の先で、俯き側頭部を押さえている。
「どうした」
足を止めて問いかける。
「……うん、何か、昨日から急に頭が痛くなる時があって」
偏頭痛っていうのかな、という鈴太の声色には、今まさに襲い掛かっているのであろう苦痛が滲んでいた。
「大丈夫か?」
「……うん、もう収まった」
ふうと息をついて、鈴太が膝を伸ばして立ち上がる。
「ドラッグストア寄って、痛み止めでも買うか」
「うん」
兄弟は、再びそれぞれの歩幅で歩き始めた。
夜は更けていく。
崩壊の日は、近い。