「聞こえる……か、誰か……助け……お願い……」
それは若い女性の声のように聞こえた。
今にも気を失いそうなのだろう、朦朧とした様子で言葉も途切れ途切れ。だが周りを見渡せど声の主は見当たらず、隣を歩くパートナーどころか、周りの人間にも聞こえている様子はない。
しかしその一方で、耳を向ける方向により声の明瞭さや大きさは明らかに変わる。それが幻聴ではなく空気振動を介した音であることを示していた。
「どうしたの兄ちゃん?」と訝る鈴太を、小笠原は睨みつけて黙らせた。豆腐を丸呑みしたような顔で鈴太は口を閉ざす。
「こっちやな……」おう行くぞ、と碌な説明もせずに小笠原は踵を返し大股で歩を進めた。
待ってよ、とも言い出せず、鈴太は買い物袋を両手で掻き抱いたまま、小走りで後に続いた。
念のために申し添えておくが、小笠原の行動は誰のものとも知れぬ助けを請う声に応えようという殊勝な気持ちによるものでは、決してない。
「揉め事の臭いがするのう」
「そうなの……? ぼく全然聞こえないけどなあ……」
この界隈の水商売や風俗産業は、殆どいっていいほど五十村組と密接な関係にある。小規模ながら昔気質、所謂地元密着型と呼ばれる五十村組の、その構成員の1人が小笠原だった。25歳と若輩ながらも持ち前の胆力と苛烈な性格により、借金の取り立て、酔客への仕置きなど強面や暴力が必要になる場面にはどこにでも現れ一部の向きからは重宝されているが、それ以外からは狂犬のごとき扱いをされていた。
早い話が、この辺りの『顔』を自認する自分に断りなく揉め事、暴力沙汰を起こすことは何事か、というのが第一の動機である。
動機のもうひとつは臨時収入への期待だ。本当に暴力沙汰であれば仲裁に入り、なんならひと暴れして小金をせしめようという肚である。体つきはひょろりとしているが、そこは狂犬の面目躍如、これでも腕っ節には自信がある。
声のする方へ、そして奥まった裏通りの方へ、血走った眼で大股に歩を進めていく。
「なんか、『助けて』って声が……ののちゃん聞こえない?」
「えぇ……聞こえないけどぉ……」
「何かすごく困っているみたいな……」ちょっと行ってみようか、と甲斐は促した。
天性と言って良いほどのお人好しである。人助けという行為を、無償で行うべき当たり前のものとして捉える心根の優しさがあった。
ちょっと嫌だけど、一発二発殴られるのを覚悟で間に割って入れば、揉め事の仲裁もきっと出来る。些か楽天的に過ぎるが、それはあながち自信過剰な判断とは言えない。腕っ節どころか殴り合いの喧嘩など幼少期以来経験はないのだが、身体の頑丈さには定評があった。
地元の体育大学を卒業するまで水球に青春を捧げ、今は現役の水泳インストラクターである。首から上はどう見ても気の弱い好青年、しかし服の下の肉体は筋肉の鎧と言って差し支えない。特に肩廻りなどは、水中競技を長く続けた者特有の大きく盛り上がったそれである。夏に水着になった時、彼を良く知らないものほど目を丸くして驚くのは最早風物詩と言っていい。
そんな甲斐が足早に声のする方向へと小走りで向かう。
ののは、慌てて食材をビニール袋に詰めて後を追った。
声が大きくなってきた。声の主に近づいている証拠だ。
不思議なことに、その声は自分にだけ聞こえているようだった。
そもそもが不自然である。消え入りそうな声でありながら、それは遠く視界に入らないほど離れた自分にだけ聞こえているのだ。
しかし現実として、歩を進めるごとに声は確かに近づいている。そして、それと反比例するように段々と声の調子は力を失ってゆく。
「もう、駄目……」
「せめて……だけは……渡せない」
「これ……だけは……この…………だけは……」
声に導かれ、路地裏の入口に辿り着く。
そこはどの都市にでもある死角ともいうべき部分で、コンクリートのビルに挟まれ、道幅は狭く、日中であろうがどこか寂れた印象を見る人に与える。だからこその帰結というべきか、辺りに人通りは全くなかった。
細く奥に続く道の手前に、白いワゴン車が横転し、煙を吐いていた。
その光景を前に、視線が交差する。
大きく息を乱し、膝に手を付く小笠原造一と、額に汗を滲ませる甲斐俊亮の。
狂犬と恐れられる悪漢と、誰彼なく愛される好青年の。
決して交わらぬ日常を送っているはずの2人の。
これが、邂逅だった。
白煙を上げ横転するワゴンを前に、小笠原と甲斐は鉢合わせた。
(なんや、優男が邪魔すなや)と小笠原は思った。
(うわ、怖そうな人だな)と甲斐は思った。
それがお互いの第一印象である。いずれも好印象とは言い難い。
程なくして、鈴太とののも息を弾ませながら現場に到着した。鈴太もののも青色吐息、今にもへたり込みそうだったが、横転する車を見て驚きに口をあんぐり開けている。
「おっと、一番乗りはおれやぞ」
トンビに油揚げを攫われてはかなわん、と小笠原は我先にとワゴン車に向かった。
車のフロントは滅茶苦茶に壊れており、フロントガラスは蜘蛛の巣を張ったようにひび割れている。
急に爆発されてはたまったものではないとワゴンをぐるりと回るが、ガソリンの臭いもなければ爆発の気配もない。
尻込みしている甲斐を尻目にスモークガラスを間近に覗き込むと、思いがけず中の男と目が合った。
「うおっ」
流石に腰が引けた。輝きを失った瞳が、虚空を見つめていた。
若い男だった。前方座席にはこの男しかいない事から、運転手だったのだろうと思われた。少なくとも数分前までは。事故の衝撃か、手や首が出鱈目な方向に曲がっている。シートベルトは着けていなかったのだろうか。きっと即死だったに違いない。
その他の事は……よく分からない。スモークガラスは半ば外の風景を反射し、小笠原は自分の顔の虚像越しに中の様子を覗う格好となった。じれったいほどに視界は悪く、小笠原の隻眼では尚更だ。
ふと気付いた。
もう、あの声が聞こえない。
もしかして、この車ではないのだろうか。
「スズ、さっきの声は聞こえるか?」
「声も何も……さっきから……なんにも聞こえないよ……」
ぜいぜいと呼吸を整えきれないながらも、何とか鈴太は声を振り絞る。
ちっ、と舌打ちひとつ、「あっちか?」と更に奥に続く道に駆けだそうとする小笠原。 鈴太はその舌打ちにびくりと身を竦ませた。ややあって、暴力が自身の身に降りかからない事に安堵し胸をなで下ろす。
甲斐は、まだ戸惑ったままだ。というより、この現場を見て捨て置く神経が既に信じられない。
こんな時は……そうだ、警察に電話を。
慌ててスマートフォンを取り出し、ダイヤルをプッシュする。まずは110番。それに119番も……
「何しとんねん、早よ来んかい!」と小笠原は後ろを振り返ることさえなく弟に怒鳴りつける。
いつもは分際を弁えた室内犬のように兄に対しては従順な鈴太が、しかしこの時ばかりは反応が芳しくなかった。
「兄ちゃん、そっちに血が……」
小笠原が振り返り指さす先を見ると、なるほど確かに小さいながらも血痕が路地の奥の方に続いている。
ふむ、と小笠原は踵を返し、一転落ち着いた様子でツカツカと鈴太に歩み寄る。
ばちん、と右手の平で弟の横面を引っ叩いた。
声も上げずに俯く鈴太。ややあって面を上げるが、眼は伏せたままだ。唇の端が切れて血が一筋細く流れている。
「ええから来い!」と怒鳴りつけると鈴太は再び竦んだが、今度は流石に口答えすることはなかった。
それを見て甲斐は思い切り引いている。
(やっぱりこの人、関わったらいけない人種だ……!)
とはいえ、いきなり眼前で繰り広げられる暴力劇に積極的に割って入る度胸もない。
しかし、そこで思いがけず行動に出たのがののだった。鈴太の肘の辺りを掴むと、きっと小笠原を睨んで鋭い声で咎めた。
「あなた、保護者でしょう? この子、怖がってるじゃないですか!」
やりすぎだ、と言いたいのだろう。
「ちょっと、ののちゃん!?」
甲斐の心拍数が一段跳ねあがった。何もこんな時に正義感を発揮しなくても……
案の定、小笠原の目の色が変わった。
「ほーう?」
たっぷり頭ひとつ分以上低いののに対し、小笠原は背を曲げゆっくりと顔を覗き込んで睨めつける。
「そういうお宅さんは、どこのどなたでいらっしゃるんかいな?」
一語いちご区切るような喋り方は、勿論威嚇だ。
「……藤塚ののといいます」
並の男であれば震えあがってもおかしくはないところを、ののは気丈にも眼を合わせたまま凛と言葉を返した。
「ほうほう、藤塚さんね。ええお名前してらっしゃいますのう」
ツラも名前も覚えたぞ、とばかりにねっとりとした口調で嬲るように続ける小笠原。
しかし、ののはまるで蛙の面に小便と受け流す。
「あなたがここに戻ってくるまで、ちゃんとこの子の面倒は見てますから、どうしても行きたいなら1人で行かれてはどうですか?」
このクソあま、頭おかしいんとちゃうか、と小笠原は怒り心頭である。だが威嚇が通じないとなれば仕方がない。
屈めた背を元に戻しののを見下ろしたまま、小笠原はほんの少し頭を左に傾けた。左手は既にポケットから出されている。
それを見て鈴太が息を飲んだ。
(兄ちゃん、殴るつもりだ)
小笠原はかつての怪我の後遺症で左目の視力を殆ど失っている。隻眼の人間を身近にもつ者なら知っているように、彼らが目標に相対して行うそれは、目測を得るときの仕草だ。勿論、鈴太も知っている。自分が殴られるときに、嫌というほど見ている仕草。それがこれだ。
剣呑な雰囲気を察したのか、流石に甲斐が割り込んできた。揉め事は怖いが、そうも言ってはいられなかった。
「す、すみません! け、警察を呼んでいるので、説明する人が欲しいんですけど……僕が代わりに行くので、それでいいですか……?」
これは甲斐のファインプレイである。実際の通報はまだだったが、小笠原は警察という単語に敏感に反応した。何せ職業柄、警察は鬼門である。
「スズ、警察が来たら上手い事言うとけよ!」と言い捨てて、路地の奥へと駆け出した。
(行くって言っちゃったしな……)来いとは言われなかったが、お人好しの甲斐は、律儀にその後に続いた。
奥に行くにつれ路地はさらに狭まり、灰色のビルが両側に迫ってくるような錯覚を覚えた。昼間ではあったが春あってまだ陽は低く、また清掃の行き届いていないコンクリート壁は湿気と汚れで澱んだような色合いをしていた。ビルに挟まれた隘路は驚くほど暗い。
程なくして、やや開けた場所に出た。開けたとは言ってもまだそこはビルの谷間の中、ビルの背に挟まれた中庭のような空間であった。アスファルト舗装も途切れており、土がむき出しだった。
まず目についたのは、2人の人影。
白衣を着た人物が倒れており、もう1人がそれを足蹴にしている。
白衣の方は、遠目にも分かるほど傷だらけだった。髪は長く、血で汚れている。何か鈎状のもので付けられたのか、背のあたりは大きく裂かれ、肉が抉れて大量に出血している。車から続く血痕はきっとあの傷から流れ出たものだと、容易に察することが出来た。急所を守るようにうつ伏せに蹲っているが、2人からは生きているかどうか分からない。
足蹴にして、痛めつけている方は……異相であった。目が不気味なほど離れた、眉間の広い男だ。顔色は悪く、頬骨が大きく飛び出している。元の色が分からないくらいに薄汚れた、裾長のローブを身に着けていた。
見れば他にも数名、倒れ伏している人影があった。白衣姿の者とローブ姿の者が数名ずつ、どれも血塗れで、ピクリとも動かない。
甲斐は震えあがった。これは喧嘩などという生易しいものではない。この現代日本、この近代都市でこのような陰惨な殺し合いが自分のすぐそばで行われていた事実に、全く現実味が感じられない。一瞬、足元がぐらつくような気がした。
一方、小笠原は平気の平左である。淀みのない歩調で、しかし油断なく近づいていく。ポケットの中では、常に持ち歩いているメリケンサックが既に右拳に填められている。
「おうおう、お楽しみやないか」
男は気付いた様子もなく、夢中で白衣の人物を蹴り上げている。痛みに呻く事もないその人物にまだ息はあるのだろうかと、甲斐は不安になった。
手の届く距離まで来たが、まだ男は気付かない。仲間がやられた意趣返しに夢中なのかもしれないが、それにしても異様である。骨に張り付いたような皮膚に艶は無く、だらしなく弛んだローブの首元から覗くのは萎びた首筋で、どこか鰓のようにも見えた。
「け、警察呼ばなきゃ……」とあたふたしながらポケットからスマートフォンを取り出す甲斐に、小笠原は振り返って怒鳴りつけた。
「いらんことはせんでええ!」
「は、はい! 分かりました!」
それでも、ローブの男はこちらを振り向くことすらしない。
このガキ、なめくさって。躊躇うことなく小笠原は拳を繰り出した。不意を打つことに対する良心の呵責は欠片もない。
手加減なしの右フックが繰り出された。しっかと地を蹴る右脚から強靭な体幹の捻りを経て拳の先まで勁路を通した、会心の当たりである。それは男の無防備なこめかみにぶち当たり、小笠原はメリケンサック越しに骨を砕く確かな感触を得た。ぐえ、と奇妙な声を上げて男は斜めに崩れ落ちた。
「しもた。殺ってもた……」慌てる小笠原。
罪の意識による後悔では、まさかない。強請って脅して、有り金を巻き上げるつもりだったのだ。
「おい、何か見たか?」
「ななな、何も見てないです! 見てないので、帰ってもいいですか!」まさか殺してしまったとは露とも思わっていない。
「あかん」
大きな図体を震わせて、甲斐は最早泣きそうな顔をしている。
せめて財布の一つでも、と男のローブをまさぐる小笠原。
「何ぼさっと突っ立っとんねん。そっちの姉ちゃんの方見たれや」
「は、はい!」
姉ちゃん、と言うからには、倒れている白衣の人物は女性である。小笠原からは背を丸めて蹲る彼女の、血に濡れてなお端正な横顔が見えていた。生きているかどうかまでは分からない。見たれや、は小笠原にすれば生きていようがいまいがどうでもいいから金目の物を物色せよ、という指示に他ならないのだが、甲斐は当然そうとは受け取らなかった。
大丈夫ですか、と肩をゆする。反応はない。
首筋に、手指を添える。脈がない。
……思い切って、身体を開かせ、顔を仰向ける。目は見開かれ、呼吸もない。
甲斐がもう少し医療に詳しく、冷静であれば気付くことができたかもしれない。肉が大きく抉れた背中の傷からの出血が既に止まっており、それは心臓が拍動を停止した結果に他ならない事に。まだ肌は温もりを残しているが、それもいずれ消える。
「死んでる……」
「ほうか」そんなことは聞いてへん、と小笠原はにべもない。
動揺の余り目に入らなかったが、数秒の後甲斐は気付いた。女性の身体を起こしたことで、その下から、銀色の何かがまろび出ていた。
それは、ビジネスバッグ程の大きさのジュラルミンケースだった。元は鍵が掛かっていたのかもしれないが、今は口を開けている。
「お、何やそれ」気付けば、後ろから小笠原が覗き込んでいた。手ぶらである。ローブの男は財布の一つも身に着けていなかったのだ。
2人の視線の先には、ジュラルミンケースの中身が露出している。中には、金属製の機械部品のような物が幾つか収められていた。
手持ちサイズの円筒がふたつ。同サイズの円筒が更に2つ収まるよう、ウレタンは切り抜かれていたが、今は無い。既に持ち去られたのか、或いは元から入っていなかったのかもしれない。
部品らしきものはもうふたつあった。それらは円筒よりもふた回りほど大きく、しかし厚みの薄い板状の形をしていた。板とは言っても、いくつかの部品を組み合わせ、可動部を設けたような複雑な形状をしている。それが円筒と同様、ふたつひと組で収められていた。
「何でしょう……?」
何かの試作機材のように見えなくもないが、機械分野に疎い甲斐にはさっぱり分からない。
「おれに聞くなや」さっぱり分からないのは小笠原も同様である。
「しかし、カネの臭いはするのう……」
小悪党丸出しの顔で笑う小笠原から甲斐は思わず目を背け、「ほ、他の人を見てきます」と言って立ち上がった。
だが、そこから歩を進めることは適わなかった。
向こう側の通路から足音がしたかと思うと、男が3人広場に走り込んできたのだ。
一様に薄汚い裾長のローブを身に着け、それぞれ細かな違いはあれど妙に眉間の広い顔立ちをしている。ただ、身体の厚みは先ほど斃れた男よりも目に見えて分厚い。
男たちは皺がれた唸り声で何事かを囁き合ったがその密やかな会話はすぐに終わり、こちらに詰め寄ってきた。間隔を広げ、こちらを壁際に追い詰めるような陣形だ。同じ人間とは思えない奇妙な面構えながら、そこに浮かぶのは明確な怒りと敵意だった。
通路口までは遠く、おまけに壁を背にしている。逃げることは難しそうだった。
普段なら小笠原はこういった局面で逃げることなど絶対に考えない。「この稼業でイモ引いたら終いや」が口癖の、バリバリの武闘派である。人数も2対3なら不利の内には入らない。しかしそれは少なくとも喧嘩慣れした相方がいて初めて成り立つ勘定であり、今は肝心の相棒である甲斐の腰が引けに引けている。顔を覗っても、そこに浮かぶのは戸惑いと怯えのみ。これでは頭数に入れることは出来ないし、しがみ付かれでもしたら1対3どころの話では無くなる。
「話せば分かってもらえますかね……」
「ええからあんちゃん、後ろ下がっとれ」
小笠原は一歩前に出ると左前の半身に構え、再びメリケンサックを填めた右拳を顎に引きつけた。左腕は半ば下げ、腰のあたりで緩く拳を握る。小笠原が現役時代から最も多用してきた、所謂デトロイトスタイルと呼ばれる攻防一体の構えだ。逃げるつもりも詫びを入れるつもりも、さらさらなかった。
甲斐はおろおろと辺りを見回すばかり、助けを呼ぼうにもこの無頼漢たちが自分に襲い掛かる方が明らかに早い。そもそもこんな場所で大声を上げたところで、誰かに届くのだろうか。
その時、視界の隅に映る物があった。路地から一機のドローンが音もなく飛び出してきたのだ。
大きさは小型犬ほど、この御時世、ドローンが街中で飛んでいる光景自体は珍しいものではないが、一体どのような機構で浮遊しているのか、プロペラが見当たらない。機体前方に取り付けられた2つのカメラは明らかに甲斐らを捕捉しており、その証拠にこちらに向かって飛んできている。その飛行速度は存外に早く、あれよという間に一団の頭上に到達し中空で静止した。暢気にも、甲斐はトンボの飛翔を連想した。
どこかにスピーカーがあるのか、ドローンから合成された機械音声が発せられた。
『状況、確認中』ピッ、と短いビープ音。『確認、完了』
「何や、けったいな……」警戒こそ解かないものの、小笠原も面食らっている。
『変身、してください。変身、してください。ケース内にある筒、シリンジを一本ずつ取ってください。急いで』
「シリンジって、これ?」
藁にも縋らんばかりに切迫している甲斐は、云われた通りに足元のジュラルミンケースから筒を2本取り出す。
「これ持てって言ってるみたいですよ」
『変身しないと、貴方がたは死にます。変身してください。筒を選んでください』
「じゃかましいのう……」渋々1本を受け取る小笠原。大きさは片手で握り込める程度で、金属製ともあり重さもそこそこだ。まあ投げ付ければそれなりの牽制には使えるかもしれない。
この時小笠原は気付かなかったが、シリンジの中央には奇妙な紋章があしらわれていた。異国の象形文字の様な抽象性の高い意匠で、シリンジそのものの無骨で工学的なデザインとは乖離しているようにも見える。2本のシリンジにはそれぞれ微妙に違った紋章が描かれていた。小笠原がじっくりとそれを見ていれば、「トライバルタトゥーみたいやな」とでも評したかもしれない。
『天辺のボタンを押してください』
言われてみれば確かに、筒の一端には押し込み式のボタンがあった。ボールペンのように、握り込んで親指で押すように想定されて作られたのだろう。
甲斐は、迷わずガチンとボタンを押し込んだ。
『Combustion!』シリンジが音声を発した。
「ドリルマッチョ? 何やそれ?」好奇心に負け、小笠原も手元のボタンを押す。英語のリスニング能力は無に等しい。
『Hurricane!』甲斐のシリンジとはまた違う音声である。
燃焼と颱風、それぞれのシリンジから発せられた単語は違ったが、どちらも発声と同時にボタンと反対の端から針が飛び出した。爪楊枝程の長さの針が真ん中から1本、小指の先ほどの短い針が淵に沿って4本ある。
『そして、針を身体のどこかに、思い切り、突き立ててください。刺したら、“変身”と宣言してください』
「はぁ!?」何と恐ろしい事を言うのだ、と甲斐。
針は非常に鋭利で、長い方の針の根元はタバコくらいの太さがある。刺せば痛いでは済まされない。
「何言うとんねんコイツ……頭おかしいんとちゃうか?」これであいつら刺した方がまだマシやろ、と小笠原。
『今躊躇えば、貴方がたは死亡します。至急、刺してください。“変身”と、宣言してください』
「まあ死ぬよりはマシだけど……せめて痛くないとこに……」
甲斐の思考は、完全に追い詰められた者のそれである。撲殺という最悪の結末を突き付けられ、結果に対して何の保証もない自傷行為を拒みきれないでいる。
程度差はあれど、それは小笠原も似たり寄ったりだった。
「何を躊躇っとるんじゃ! 男やろ!」甲斐が握るシリンジをその手ごと握り、腕に刺せと無体を迫る。
『“変身”と、宣言してください』
「おら言わんかい! 男見せてみい!」
ひい、と半ば恐慌状態で、半ば無理強いされながら、甲斐は自らの腕に針を刺した。
「へ、へんしん!」