甲斐は、爽やかな朝を迎えた。
ベッドの上で上体を起こし、視界の欠けた目を擦って目ヤニを落とす。
カーテンの隙間から差し込む陽光が、シーツの上に光の帯を形作っている。
枕元の目覚まし時計は、アラーム設定時刻の3分前。目覚まし機能を切ってベッドから起き上がった。
寝室のドアから、ひょっこりと巻き毛を揺らす顔がのぞく。
「おはよう俊亮」
とその誰かは言った。甲斐の記憶のどこにもいないその女性が、親愛の情を滲ませて。
3月某日、その朝。
甲斐俊亮の世界は、
明確に、大きく欠落した。
「えと……誰?」
「誰って……」
人間は信じられないものを見聞きした時、まるで下手な冗談を言われたかのような反応を示す事がある。
藤塚ののも、今まさにそうだった。笑うに笑えない、そんな顔をしている。
「ののちゃんだよー」
務めて、おどけてみせた。だが、昨日まで自分に対する溢れんばかりの愛情を見せてくれたパートナーは、今はただ警戒も露わな視線を返すばかりだった。こんな顔、ののの記憶にある限りされた事は無い。少なくとも、それは、同棲中の恋人にとる態度ではない。
「……家、間違えてないですか。出て行ってください」
「ちょっと、変な冗談止めてよ……」
ドッキリにしては度が過ぎている。そう思うしかない。
ののは、既に泣きそうになっていた。
「冗談はそっちでしょう。ここは僕の家です」
甲斐の声はあくまで硬い。
「……俊亮の家で、私の家だよ」
「何を言ってるんですか。僕はずっと1人暮らしだ」
「どうしてそんな事言うの? 食器だって2人分あるよ? 服だって、写真だって……」
甲斐は警戒した態度のまま答えない。
ついに、ののは泣き出した。目じりに涙が溢れ、顔が歪む。嗚咽が漏れる。
それを見て、流石に甲斐は慌てだした。
「ご、ごめんね。泣かせるつもりはなかったんです」
だが、それはあくまで見知らぬ女性を泣かせてしまったから。ただそれだけの事であると、如実に態度が物語っている。それが尚更、ののには辛かった。
「君は……ええと」
「恋人だよ。貴方の……」
そう言われても、甲斐にはまるでその記憶がない。例えば、3日前はピーマンの肉詰めを2人で作ったのだが、甲斐の記憶ではそれは1人で作ったことになっている。一昨日の記憶を失った事は覚えているが、それとはまた質が違う。甲斐にとって地続きである過去の世界のどこにも、彼の恋人であると自称する目の前の女性はいないのだ。
冷静に考えれば奇妙な事だが、両親、友人、その誰も自分の人生には、少なくとも甲斐の記憶の中には登場していない。覚えていない。
はっきりと覚えているのはたった1人きり。
小笠原造一。
たった数日だが共に何度も死線を潜りぬけた、不遜で露悪的で、俗悪が服を着て歩いているような、自分の相棒。
「ごめん」
ののはもう限界だった。涙で崩れた化粧もそのままに、最低限の荷物だけ掴んで、家を走り出た。
甲斐は、ののの出て行った、閑散とした部屋に取り残された。
ダイニングには、トーストとコーヒーが2人分、白々しく湯気を上げていた。
『羽星ニュースの時間です。悪霊に取り憑かれたかのような行動をとる奇病、霊憑き病による死亡者が、市内で100人を超えました。わずか3日で、恐るべきペースで増加しています。眠ったまま目を覚まさなくなった患者は200人ほどおり、更なる被害拡大が見込まれます』
『一向に病気に関する調査は進んでおらず、市民からは動揺の声が上がっています』
『初期症状としては偏頭痛や神経痛を訴えている事が分かっていますが、有効な対処療法が見つかっていないのが現状です』
『続いてのニュースです。昨日、羽星タワー50階にて、ベアリルや未確認生命体による殺傷事件が発生しました。この日は営利企業によるセミナーが行われており、その最中に発生したとみられています。行方不明者16名。死亡者15名。重傷者20名。警察によれば生存者に事情を確認しているものの大多数の目撃者が未だパニックから覚めやらず、現場で何があったか、究明に時間が掛かるとのことです』
――手足の沢山ある化け物と、ベアリルが出たんだ。爆発した人間もいる。もうおしまいだと思ったよ。みんなベアリルに殺されるんだ、って。
甲斐は、苛立たしげにテレビの電源を切った。自分の事で手一杯なのに、身に覚えのない自らの悪評に耳を傾けてどうなるというのか。
大きなため息を一つ。
時計は、もう出勤の時刻であることを示している。
朝食には手を付けぬまま、よろめくような足取りでダイニングを出て、着替え始めた。
小笠原は、誰かに遠慮がちに身体を揺すられる感覚で目を覚ました。
誰か。
鈴太に決まっている。
まだ目覚ましのアラーム音は鳴っていないというのに、一体どうしたのか。目を擦り、枕元の時計を見るともう9時になろうとしている。目覚ましの設定は八時に掛けた筈だ。
(寝過ごしてしもたか。ちょい酒が過ぎたかな)
アラーム音が鳴らなかったのは何かの故障か、と重い頭を擦りながら身体を起こしたところで、妙な事に気付いた。
目の前には不安げな顔の鈴太がいる。きっとそれは寝起きの機嫌が悪い小笠原を起こしたことによる折檻を恐れての表情だろう。
妙なのは、口をパクパクと開け閉めしている事だ。声は聞こえない。
おい、どうした、と声を発しようとした所で、更に気付いた。
周りが静かすぎる事。完全に無音である事。
自分の両耳を叩くが、何の音も聞こえない。
周囲の音どころか、骨を伝わり聞こえる筈の自分の声すらも。
おいどうした。その声は空気を震わせ鈴太の耳に届いているはずだ。鈴太の反応を覗ってみても、自分の声はどうやら届いているようだった。だがそれに対する返答の言葉が、自分には聞こえない。
何を言うとるか分からんのや。小笠原はそう言ったはずだ。声を発した筈なのに、鈴太の反応以外、それを確認する術が何もない。
いよいよ、強い不安が小笠原の心に不穏な影を落とし始めた。『副作用かもしれん』と頼佳は言った。『早く終わらせなければ、お前たちの身体にも害が出かねん』。
(おれの身体、一体どないなってまうんや)
パニックが鈴太にも伝染したのか、慌てた様子で鈴太はスマートフォンを操作している。覗き込むと、119番通報をしようとしているようだった。
咄嗟に、小笠原はその手を払いのけた。スマートフォンが床に転がり、鈴太がびくりと身を震わせる。完全に気が動転しているようだ。
小笠原はスマートフォンを拾い上げ、メモアプリを開いて文章を入力し、鈴太に見せた。
『耳がきこえん。病院に行くからタクシー呼んでくれ』
鈴太が、ガクガクと頷いた。
『付き添い行かなくて大丈夫?』
『いらん。学校あるやろ』
『わかりました。気を付けてね』
『わかった』
以上は、メッセージアプリを介しての会話である。落ち着いてみると、段々コツというか、やりようが分かってきた。
玄関のチャイムが鳴ったのか、鈴太がドアの方を振り向く。
『タクシーきたみたい。行先はぼくが運転手さんに伝えるから』
『わかった』
『また連絡ください』
『わかった』
『無理しないでね』
『スズ』
『はい』
『ちょっとうるさい』
鈴太がはっとして画面から顔を上げると、小笠原は唇を歪めて笑った。弟が先んじてこれ以上なく動転してくれたおかげか、却って心に余裕が出来ている
鈴太はどこか困ったように微笑んで、口を動かした。
流石に、小笠原にも分かった。
行ってらっしゃい。そう言ったのだ。
連日の集合時間にやや遅れて警察署に着いた甲斐の目で、1台のタクシーがとまった。通りすがりに何とはなしに見ていると、中で乗客と運転手が何やらやりとりをしている様子が覗える。小銭でも切らしてるのかな、と思いながら横目で眺めていたところ、後部座席に見知った狂相があった。
言わずもがな、小笠原である。甲斐に気付くと、ややバツの悪そうな顔をした。
運転手もその視線を追ったのか、甲斐の存在に気付くと窓を開け、助け舟が来たとばかりに話しかけてきた。豊かな白髪をした初老の男性で、口調こそ気安いが眉の下がった顔には困惑と懇願の心情が滲んでいる。
「兄ちゃん、このお客さんの知り合い?」
「ええ、まあ……」
「兄ちゃんからも説得してくんねえかな。このお客さん、中々降りてくんなくってよ」
「はあ……」
頼むよ、私ぁ上からここまで送れって言われてるだけなんだよな、とほとほと困り顔の運転手である。どうやら、小笠原の目的地は警察署でなく別の場所だったようだ。
それにしても奇妙なのは、小笠原が何の言葉も発さない事だった。口さがないこの男の事、この短いやりとりの間にも悪態や嫌味がいくらもその口から漏れ出てきておかしくはない。
「小笠原さん?」
苦り切った顔で、それでも小笠原は黙ったままだ。いよいよ様子が変である。
渋々といった態度で小笠原が開けられたままの後部座席から降り立つと、これ幸いと料金も受け取らぬままタクシーは発車した。
それを呆然と見送ってから、甲斐は改めて相棒に向き直った。
「あの、小笠原さん、一体どうしたんです?」
「耳がきこえん、今朝からや」
「え……まじすか?」
とは言ったものの小笠原からは反応がなく、どうやら本当に耳が聞こえないらしい。対面しながらその場でメッセージアプリを使用してやりとりをしたところでは、どうも朝病院にタクシーで乗り付けようとしたところ、運転手はこちらの注文を聞かず警察署に送り届けられたということだった。
(そういや、上に言われたって言ってたな)
そこに、AIbotがふよふよと飛んできて2人に声を掛けた。
『おはようございます。ジャックから、緊急指令が下ります。至急地下ベースに集合してください』
上、と言われて思い浮かべるのはこの組織ぐらいしかない。とすると異常な手回しの良さだが、有り得ない話ではないだろうと甲斐は考えた。
『地下ベースに集合、らしいです。緊急らしいので取りあえず行きませんか? 病院はその後ででも』
そう小笠原にメッセージを送りながら――小笠原はそれに渋々といった感じで頷きながらも『クソ』とだけ返信を寄越した――甲斐は気付いた事がある。
AIbotの事は覚えている。自分たちがこの数日間奉仕してきたこの組織の事も。だが、その組織に働く人員や、自分が誰の下に付いていたかは全く思い出せない。小笠原を除いて。
自分が失ったのは、「人間」に関する記憶だ。
地下に降りると、頼佳がいつも以上に眉根を寄せた険しい顔で2人を出迎えた。とは言え、今の甲斐にとっては見覚えのない顔でしかない。
「来たか」とだけ言って、頼佳は単刀直入に要件を切り出した。
「今まで得た情報を解析した結果、奴らの本拠地をついに割り出せた。ここを叩けば、奴らの支援活動は完全に停止する」
「はあ……」
「何だその返事は」
どなたでしょうか、とは流石に聞けず、実は今朝から記憶が一部完全に抜けている、という話を甲斐はつっかえつっかえ話した。身を乗り出す頼佳のシャツの襟ぐりから覗く谷間には、極力意識をやらないようにして。
話を聞き終えると、頼佳はどかっと背もたれに体重をかけ、片手で頭を抱えた。
「全く……一昨日の記憶だけでは飽き足らず、ということか」
「はあ」
「糞……小笠原、お前はどうなんだ。お前も記憶がないのか」
その視線で話を振られた事だけは理解した小笠原は、「すまんが姐さん、おれ耳がきかんねん」とだけ言った。
「なに、全く聞こえんのか!?」と頼佳。
小笠原は答えない。
「……みたいです」と甲斐。
「ああもう、揃いも揃って何なんだ!」
「それは僕が聞きたいですよ! 起きたら周りが知らない人ばっかりになってるし……」
ヒステリーにヒステリーを返すような甲斐の反応を頼佳は「もういい」と乱暴に遮り、傍に控えているスーツ姿の部下に何事かを合図した。
程なくして部下が恭しく持ってきたのは、一見してヘッドホンにも似た機械装置だった。ネックバンド型のワイヤレスヘッドホンのような形だが、随所で謎の機械部品が剥き出しになっており、洗練されたデザインとはお世辞にも言えない、試作試験機という表現がしっくりくる代物だった。
「着けてやれ」
嫌そうな顔をしながらなすがままにヘッドホンを装着させられる小笠原。部下が何かを調整すると、ヘッドホンのグリルにあたる部分に備えられたLEDが三つ、緑色に点灯した。
「小笠原、聞こえるか?」
「うお、聞こえる」驚いた顔の小笠原。
「てか聞こえすぎて気持ちわりいわ」
「……調整してやれ」
しばしの部下の悪戦苦闘と小笠原の小うるさい注文を経て、満足いく調整に仕上がったようだ。
「これでええわ。おおきに」
さんざん調整に付き合わされた部下が、些か憮然とした表情で後ろに下がる。舌打ちの一つもしないだけ大したものだと、甲斐は妙なところで感心した。
「えと、小笠原さんは……この方の、その……記憶はあるんですか?」
「ん?」と小笠原。
たった今聴力を(機械の力を借りて一時的に)取り戻した小笠原にとって、甲斐が記憶を無くしたというくだりは文字通り初耳なのだ。
手間を掛けさせおってこいつら、と言わんばかりに、頼佳は聞こえよがしに大きなため息をついた。
「その話は後にしろ、と言いたいところだが、このままでは任務に支障が出かねん。場合によってはこちらからのフォローも随時必要になるだろう。今の内に不調があれば共有しておけ」
「一昨日の記憶がないっちゅうのは話したし、ご覧の通り朝から耳が聞こえん。後は、せやな……3日前から痛みを感じんようになった」と小笠原。
「僕は、右目が見えないのと一昨日の記憶がないのと……それから……周りの人たちの事が、全く記憶にありません」と甲斐。
小笠原の顔にさして悲壮感はないが、甲斐の表情は暗く沈んでいる。
「私の顔も覚えておらんようだが、小笠原の事は覚えているのか?」
「小笠原さんは分かります。でも……他の人たちの事は全然……誰の事も」
頼佳が、苛立たし気に舌打ちをした。
「揃いも揃って……いかに適合者とはいえ、無傷では済まんということか」
小笠原の方を顎でしゃくり、こいつの例もある、何かあれば出来る限りのバックアップはするから連絡しろ、と頼佳。2人が返事をする前に、そのまま話を続ける。
「話を戻すぞ。本日、最終作戦を発令する」
作戦はこうだ――と頼佳は頭の後ろで腕を組んで滔々と語り出した。
突き止めた支援者の本拠地周辺を支援部隊で封鎖し、その上で本拠地に2人で潜入する事。
本拠地内の敵勢力を2人でもって掃討する事。
その他の部隊は同時に、市内の支援者前線基地を襲撃する事。
頼佳本人及び指揮系統に関わる最低限の人員のみがこのベースに残る事。
「お前らにはシリンジがあるとはいえ、防弾スーツや武器などは一通り支給する。以上だ」
何か質問は? と睨めあげるような視線に宿るのは、まぎれもない不退転の決意だ。
「……それが終われば、僕の記憶は元に戻るんですか?」
頼佳は答えない。その視線も揺るがない。
「クソやな」
小笠原が吐き捨て、大きなため息を漏らす。
「せやけど、言うたかてしゃあない。今更イモ引く道もあらへんしな」
「そうだ、お前たちの替わりはいない、これが最後だ。今日決着を着けるしかない。分かるな」
「分かるな、って……そんなの分かりませんよ! なんで僕がこんな……」
「分からなくてもやるしかないんだ、お前も私も。世界の為、自分の為に戦え!」
もう、甲斐もそれ以上は何も言えなかった。
「やるしかないで、相棒」
小笠原は、甲斐の肩を叩いた。
本日20:00(フタマルマルマル)より作戦開始だ、それまで身体を休めておけ。そういう頼佳の言葉を最後に、その場は一時解散となった。
小笠原は管制室の床に唾を吐き、踵を返した。「これ」と言いながらヘッドホン型の装置を指さす。
「貸しといてや」