「俊亮くん。いっぺん家帰るんか?」
「そう……ですね。ここにいる気分にはなれないので」
エレベータ中での会話である。
「あの、僕には恋人、がいたらしいんですけど、でも、何も思い出せなくて……」
「そうか……ああ、あっこの幼稚園の先生やったっけ」
何となく、そんな話をしたような覚えがある。
「そうでしたっけ……あは、それも覚えてないや」
ベルを模した音と主に、エレベータが止まりドアが開いた。
「なあ、辛いかもしらんけど、気ぃしっかり持ちや」
「ありがとうございます」
それだけを言って、甲斐は殊更足早に扉を潜り出た。
警察署は出たものの、小笠原に行く当てがある訳ではなかった。頼佳の顔をこれ以上拝む気にはなれないし、かといってこんな補聴器のお化けじみた不格好なものをつけた姿で鈴太の前に姿を出すのも気が引けた。
『今日は晩飯はいらん』
一方的にメッセージを鈴太に送り付け、煙草に火を点ける。
一度唾した場所におめおめ戻るのも格好の付かないこと甚だしいが、さりとてパチンコ屋や雀荘へ行く気も起きない。
(ま、えっか)
煙草1本分だけ考えた末、踵を返して再び署内のエレベータに乗り込んだ。
仮眠室でも貸してもらおう。
甲斐は、スマートフォンを片手にだらだらと歩いていた。
一旦帰途に着いたものの、家に帰る気は起きなかった。2人分の食器、寝具、それにフォトスタンドの写真。自分が覚えていない相手と過ごした時間の蓄積だけが明確に感じられる空間に居ても、ひたすら落ち着かない気分になるだけだ。自分がいるべき居場所がどこにもないような錯覚をすら覚え、甲斐の気分は暗く沈んだ。
何より気にかかっているのは、あの女性を泣かせてしまった事だった。
自分を親し気に下の名前で呼び恋人を名乗る、巻き毛の可愛らしい女の子。伏し目に溢れた涙と紅潮した頬が頭から離れない。彼女にとって、自分の言葉はとても心無いものに聞こえたに違いない。
罪悪感が、胸の内を凶暴に蝕んだ。
気が付くと、甲斐の脚は名城幼稚園に向かっていた。何とはなしに、場所は身体が覚えている。警察署からは徒歩で20分ほど、地図の上で見ると大きな国道と並走する線路から等距離を隔てて挟まれた所に位置し、立地の都合か車通りは意外なほど少ない。
道路に面した園門はアコーディオン型の門扉で閉ざされていたが、フェンス越しに園庭を眺めることの出来る、開かれた造りだった。
陽光差す小春日和の今日も、園児たちが園庭やパステルカラーに彩られた遊具で嬌声を上げてめいめい遊んでいる。
その傍に、彼女がいた。
園児たちに囲まれ腰を屈めて子供たちに話しかけている。楽し気に目を細めて微笑むその女性は、先ほど甲斐が心ならずも深く傷つけた、藤塚ののに他ならない。
フェンス越しに向けられる視線に気付いたのか、ののが顔を甲斐の方に向けた。はっと硬くなるその表情は改めて甲斐の胸を抉り、それと自覚できる程の罪悪感と後悔の念を心中に生んだ。
(来るんじゃなかった……)
だがもう遅い。ののは、ある種の覚悟を決めたような表情で周りの園児たちに何かを話しかけ、緊張した面持ちでフェンスの方にやってくる。
囁き声が聞こえるにはやや遠い距離を挟んで2人は向かい合った。園児たちは相変わらずきゃっきゃと遊んでいるが、何人かは遠巻きにして、興味深げにこちらを覗っている。
しばしの沈黙の後、口火を切ったのはののだった。
「俊亮、思い出した……?」
おずおずと尋ねるが、甲斐は力なく首を振る。
「そっか……」
「藤塚さん、だよね」
「うん……そう、です」
ののは一瞬傷ついたような顔を見せたが、「なんか、そんな風に呼ばれるの、久しぶりだな」と気丈に笑って見せた。
「そう、なんだ」と甲斐。
「いっつも、ののちゃんって呼んでくれてたんだよ」
「僕、誰の事も思い出せなくて……職場の人も、両親の事も」
「そっか……病院には行った?」
「いや……」
病院に行ったところで、きっと状況は好転しないだろうと甲斐は直感していた。変身がもたらす人知を超えた力、それと引き換えに甘受せねばならぬ副作用は、そんな生易しいものではないはずだ。いくら、自分たちが適合者であるとはいえ。
「なんか、ずっと最近様子がおかしかったし……警察に協力してるって言ってたけど、何か、あったの?」
「何と言うか……いろいろ巻き込まれているというか……」
でも、そんなことより、と甲斐は思い切って切り出した。
「今朝、君を泣かせてしまったことが気になってて、謝りに来たんだ……ごめん」
ののが涙を堪えるように顔をぐっと歪めた。その謝罪と誠実さに、他人としての距離感があったことが、辛かった。
「今日、わたし……帰らない方が良い……ですか?」
精一杯に紡ぐ言葉は、殆ど涙声だ。
「いや、あの部屋は君の家でもある……ありますし、それに今日は帰れないかもしれないから……」
「帰ってこないの? そんな状態なのに……?」
「何時になるか分からなくて……とにかく、藤塚さんは家に帰ってくれればいいので……」
「ずっと……起きて待ってるから……」
だから、帰ってきて。掠れた声で絞り出した。
「ありがとう……でも、仕事もあると思うし、藤塚さんはちゃんと寝て下さい」
「そう、だね……えっと、俊亮は、これからどこに行くの?」
「行かなきゃいけないのは夜なんだけど……」
甲斐も言葉を濁さざるを得ない。今からどこか行く当てがある訳でもなく、夜に向かう目的地が何処なのかも真実知らないのだ。それに知っていたところで、言える訳もない。
「本当に、私に言えない事ばっかりなんだ」
「ごめんなさい……」
「あの、気を付けて行ってきてね」
「ありがとうございます……あの、仕事中にお邪魔してごめんなさい」
じゃあ、と言って、甲斐は返事も待たず踵を返した。これ以上の言葉にも、沈黙にも、耐えられそうになかった。
ののはしばらくその背を見つめていた。
しばししてから「ののせんせー」と園児の1人が呼ばう声に振り向き、小走りに掛けていくその姿を、甲斐は目の端で捉えた。
集合時間の20分ほど前、仮眠室のドアがノックされた。小笠原は寝転んでスナック菓子をつまみながら漫画を読んでいるところだった。ちなみにこれらは、職員の1人を捕まえて無理やりコンビニに買いに走らせたものだ。
「開いとるで」
遠慮がちに入ってきたのは甲斐だった。
「お邪魔してすみません。ここに小笠原さんがいるって聞いたもので」
「かまへんで。ぼちぼち時間かいな」
ぺろりとスナックの油分で汚れた指先を舐める。ヘッドホンを装着しながらのその振る舞いは、音楽と漫画とジャンクフードを怠惰に貪る姿のよう。とても世界を救う重大任務を直後に控えている人間が取るべき態度ではないように見える。あるいは、切り替えが早いと褒めるべきかもしれないが。
「そっちは大丈夫やったか?」
はあ、まあ……と言葉を濁してから、「心配かけてすみません。ありがとうございます」と甲斐は頭を下げた。
小笠原が彼らしからぬ気遣いを見せたのは、休養を取ったはずの甲斐が朝別れた時よりも疲弊して見えたからだ。
甲斐は幼稚園を去ってから、街中あちこちを歩いていた。職場のジムを外から眺め、商店街を何度も行き来した。自分の記憶の足がかりになるようなものは無いかという、藁にも縋るような思いだった。
そして淡い期待は、全て空振りに終わった。午後からは、今まで一度も入ったことのない喫茶店を選んで、ぼうっと時間を潰していた。知り合いかもしれない誰かと顔を合わせるのは御免だった。
「大丈夫ですよ。やっぱり、誰の事も分からなかったけど」
詳細は省いて、それだけ言うに止めた。
「そうか。まあ、気ぃ落とすなや」
「ありがとうございます。今やらなきゃいけない事は、分かってますから」
「せやな。今日で全部終わりや」
さて、と小笠原は両手をはたいて立ち上がった。
場所の詳細は、AIbotから伝えられた。
いよいよ敵の本拠地襲撃である。相手側の組織だった反撃を予想しての事か、AIbotも強化セラミック製と思しき角ばった装甲を全面に纏っている。
指示されたポイントは町の外れ。たこ公園のさらに西、隣接する市との境界近くである。
「場所は分かったけど、どないして行くねん」
現在地は地下駐車場である。人気もなく、照明にその一部を切り取られた闇が寒々しい。
『指笛を吹いてください』
「なんやそれ」と小笠原。
「指笛って言われてもなあ。僕吹けないんだけど」と甲斐。
「口笛じゃあかんのか?」
一昨日の記憶をまるで失った2人と特にそれを指摘することもない1機は、バイクの登場から出発に至るまで同じやり取りを繰り返すのだった。
「うう、寒ぶ寒ぶ……」
バイクから降り立った甲斐は、冷え切った自分の身体を抱えるように両腕で擦っている。4月の夜は、薄着でのツーリングにはまだまだ早い。至急された防弾スーツに、防寒性能など期待するべくもなかった。
そこは、地図で見たとおりの町はずれ。街灯こそあるものの、歓楽街が近くにある訳でもなく、夜ともなれば人通りもとんと絶える雑居ビル群の一角である。
年季の入ったコンクリート肌が、街灯に斜に照らされその荒れた表面の凹凸を露わにしている。この裏口から突入する手はずだった。
甲斐の装着したイヤフォン、小笠原のヘッドフォンから頼佳の声が作戦開始の号令を厳かに下した。
「3、2、1……突入しろ」
最大限の注意を払い、出来る限り足音を殺して踏み入った2人を出迎えたのは、意外なことに無人の静寂だった。
事があればすぐにでも変身する用意は出来ていたのだが、何一つ反撃がないどころか、誰か人がいる気配もない。
そこは、外側から見える廃れた雑居ビルとは背反する印象の最先端の研究室のような様相だった。床は清潔なリノリウムで壁紙も真新しく、四つ一組の島になったデスクと書類棚が整然と並べられている。デスク上のPCモニタも新しい型と思われた。
異常なのはそこではない。入り口は開いており、廊下からこの部屋に至るまで照明も付きっぱなし。それだというのに人が誰もいない。
少なくとも、意識のある人間は。
動く者は見当たらないが、床に転がっている者、書棚にもたれかかるようにうつ伏せに垂れ伏している者がいた。
甲斐は、入り口近くの床に横たわる白衣姿の方に駆け寄った。
部屋の入口から顔は見えなかったが、近寄って覗き込んでみると、何かに驚いたような顔で息絶えている年若い男性だった。もしかしたら、甲斐よりも年下かもしれない。
思わず甲斐は口元を押さえ、小笠原の方を見て首を横に振った。
他の人間も一応調べてみると、他の者は息こそあったが、意識のある者はいなかった。皆一様に呼吸も浅く速い。年齢は様々だったが、非武装という点では一致していた。
「おい俊亮くん。こっちはあの鱗野郎やぞ」
そういう小笠原の方に寄ってみると、確かに教会で牧師と共に一戦交えたようなあの魚人が瞳を濁らせ、息絶えていた。
「何やねん、ここ……何かおかしないか?」
小笠原の戸惑いも尤もだった。任務は本拠地の襲撃と敵対勢力の殲滅である。だというのに、入ってみればまるで静かに滅びた真新しい廃墟のような有様なのだ。
ふと、甲斐はあることに思い至った。
「これ、もしかして霊憑き病じゃないですか?」
小笠原ははっとした。悪夢にうなされるような昏睡状態に陥り、そのまま目覚めることなくゆるやかに息を引き取きとっていく奇病。確かに、この場にいるのはその病状の末期にある者たちのようにも見える。
小笠原は試しに息のある者たちを突いたり蹴ったりしてみたが、どれも反応はない。
「おれらが手を下すまでも無かったっちゅうことか。まあ……こうなったら、情報だけでも持ち帰るか」
「ですね」と甲斐。
おーいポンコツ、書類読むさかいにお前記録しとけ、と重装備のAIbotに言い捨てて小笠原は早速めぼしいものはないかと書類をひっくり返し始めた。
まず目に入ったのは、机の上の紙束で、これは印刷された業務日誌のようだった。目を引いたのは、その日付。極めて最近のそれは4日前、2人が初めて変身した日である。
3月16日
大いなる神の宣託を受け、指定された座標に向かう。対抗組織のバンが報告通り通過したため、追尾の上襲撃。
運送中だった筒状のものを2本奪取した。注射器のように見えるが用途を含め詳細は不明、解析班に回す。
遺憾ながら、全ての物資が入手できた訳ではない。
3月17日
対抗組織の評価を改める必要があると思われる。彼らの技術力は決して取るに足らないものではなく、むしろ我々を大きく上回っていると考えざるを得ない。
入手した注射器を解析した結果分かったことは、そこに込められている常軌を逸した質量とエネルギーである。大いなる神に勝ることは決してないが、劣るともまた言い切れない。悪魔の力と呼ぶべきだろう。
これ単体で使用することは出来ないようだ。恐らく、また他の装置を介して使用するものと思われる。
私見ながら、人間あるいは他の種族でこの膨大な力に耐えうる個体が存在するかは極めて疑問である。もしいたとして、それは悪魔になることだけが出来、元の姿には戻れない、不可逆的な変化であることは間違いないだろう。
3月18日
予想外の解析結果だ。予測の域は出ないが、この2本の注射器は合体を前提に作られている。
2の触媒がそれぞれを使用し後に合体、1個の巨大生命体となる。生まれるであろうそれは最早生命体であるというよりは、悪魔だ。
設計を見直したが間違いはないだろう。1人でこれを行う事も不可能ではないだろうが、高リスクとパワーダウンは免れないと推察する。
同じ技術者として、これを作った人間は(ほんとうにそれが人間だとして)間違いなく狂人であると断言できる。
この2本を奪われてはならない。これは対抗手段として十分なものである。
恐ろしい技術であると同時に、当局に転用できれば大きな力、抑制力になると考える。
解析は以降も行う。破壊及び破棄は後回しにし、地下に保管する。
最後のセンテンスは最終結論、の見出しと共に強調体で書かれていた。
『任務更新:2本のシリンジの回収』とAIbot。
「こっちは手書きのメモとスクラップブックですが」と甲斐がB5サイズのノートを持ってきた。
新聞や雑誌の切り抜きが糊で貼りつけられゴワゴワと厚みを増したそれは、霊憑き病に関する記事を集めたもののようだった。様々なメディアから情報を抽出するインスタントな手段として、こういったアナログな手法はまだまだ現役なのだろう。
最後のページには、結論のようなメモが手書きされていた。
以上から、世間を騒がせている霊憑き病とは、大いなる神が自身の復活の為に高度な知的生命体の精神を餌とする際に出る症状である、と結論付けられる。
精神を摂取されるとき、対象の生命体には頭痛などの神経痛、悪夢、幻覚、幻聴が症状として現れる。それらは大いなる神がおわす限り治癒する事は無い。霊憑き病とはただの俗称に過ぎず、それは病ではないのだ。
罹患数から、復活までのおよその時間が計算できる。報道されているその数が事実であると仮定して、復活は明
途中から紙片は破れており、読むことは出来なかった。
「大いなるカミっちゅうのが、そろそろ復活するってか」と小笠原。
「それよりこれって……僕たち、人間に戻れないってことですか……?」と甲斐。
「シリンジってこれのことやろ?」
小笠原はポケットの上からハリケーンシリンジを叩く。
「いや、これは1本で使う物でしょ? こっちに書いてあるのは2本ペア……そういや、最初シリンジを見つけた時、ケースの中に他にも何か入ってそうな感じじゃありませんでしたっけ?」
小笠原は、無い頭を絞るように数日前の出来事を思い出す。死んだ研究員の身体の下から、ジュラルミンケースを見つけた時の事を。
言われてみれば確かに、他に同形状のシリンジが収められていたと思しき空隙があったような気がする。
「なるほど、もう1組筒っぽがあるっちゅう事か」
「向こうの棚もざっと調べてみます?」
「せやな」と小笠原はAIbotに向かって顎をしゃくった。
『指示は具体的にお願いします』「やかましアホ。向こうのでっかい棚に決まっとるがな」
部屋の長辺を一面に使った巨大な書棚である、片端から当たっていては夜が明けてしまう。
そこで2人は片端から書籍書類を取り出し、目ぼしいものはまずAIbotに画像として保存させたうえで、更に今の状況に合致するものをピックアップさせていった。
結果、引っ掛かったのは1枚の書類だった。首題には「通達書」とある。
我々の悲願である「大いなる神」の復活に必要なのは同志たちの精神力である。
急務は次の3つが挙げられる。
① 同志の数を増やす
現状の数でも可能ではあるが日数が掛かる。
反抗組織の妨害も苛烈を極めており、復活の義を急ぎ完遂する必要がある。
② 反抗組織の壊滅
既に看過できないレベルに達しており、本拠地が襲撃されるのも時間の問題であると思われる。
先手を打ち、彼らの活動を沈黙させる必要がある。
③ RIDEシステムの捜索
真の復活には本装置が必要である。
仮の復活も、元を辿れば装置を手に入れる為のものに過ぎない。
我々が動き出せば、必ず奴らも動き出す。「大いなる神」に暴れてもらい奴らを誘き出すことも重要だが、最終目標は装置の入手である事を忘れてはならない。
仮復活なしで装置を手に入れられるのであれば、それに越した事は無い。
書面は「全ては大いなる神の為に」と締められており、その末尾に「星の知恵派」という署名があった。
「RIDEシステムって、D‐4の事ですよね……」と甲斐。人の記憶はないが、それは覚えていた。
「そういやそんな事言っとったな」と小笠原。
と言う事は、あの女は支援者側の人間ではなく、むしろ敵対組織に属する何者かであるという事になる。
(敵の敵か……おれらと強いてやりあう理由はないっちゅう事か?)
「さっきの資料に、何かを地下に保管するって書いてましたよね。行ってみましょう」
「せやな」
資料や現物があるのであれば、それも回収しておかねばならない。