地下へは、入り口から続く廊下の突き当りの階段から降りる事が出来るようだった。
その先に人の気配がある訳でもなく、2人はさして用心するわけでもなく降りて行ったが、結論から言えばそこには人ならざる『何か』がいた。
2人の名誉のために言っておくならば、それは用心したところでどうにかなった訳ではない。
地下は一階と同様天井の高いオフィス空間だったが、一見して更に広く見える。それもそのはずで、元々配置されていたデスクやコンピュータは全て遠く部屋の隅に追いやられ、中央に大きな空白の空間が確保されていた。
オフィスインテリアに加え、何に使うのか分からない精密機器や実験器具のようなものもその中には混じっていた。部屋の照明は消えていたが、階段の照明がおぼろげながら奥まで届き、全損を免れたPCモニタがいくつか間近を照らし出しているため、目さえ慣れてしまえばそれほど視界に不自由はないだろう。
だが重要なのはそこではなく、むしろ中央の空間である。空白であるとは何もないという意味ではなく、そこには黒い厚手のローブを纏った人間や魚人が折り重なるように倒れていた。そのどれもが1階のそれと同様、意識はないように見える。
中央には半径3メートルほど、赤い粘性の液体で描かれた円形の魔法陣。そしてその中央に、今まで見たこともない怪物が座していた。
一瞬、それが実在のものであるとは脳が認識してくれなかった。それほどまでに現実離れしていた。
全身を緑とも茶ともつかぬ汚らしい色で彩られたそれは、3メートルを超す天井に頭を擦るほどの巨体、頭は蛸を思わせるのっぺりとした造りで、ひげのような触手が1本1本独立して這い蠢いている。背中には水かきを思わせる膜の貼った無毛の翼があり、どす黒い血管が透けて見える。
頭部には瞳孔のない3対の眼、赤黒く濁った光を発するそれらは、明らかに2人を捕捉していた。
しゅるりと触手の数本がわずかな音とともに持ち上げられ、隙間から覗く真っ黒な口腔から、可聴領域ぎりぎりの低周波で悍ましい呻き声が洩れた。音圧で、衣服がびりびりと震えた。
今まで目にしたどの異形よりも悍ましいそれを前にして、小笠原も甲斐も身動きがとれない。
思考が停止していた。
瞳孔が開いていた。
それと意識せず、全身が竦んでいた。
まるで、天敵を目の当たりした小動物がそうであるように。
辛うじて動けるようになったのは、それがずるりと這い出す様に歩を進めてきたからだ。2本の腕と2本の脚、そして幾本もの触手を使って。
その1歩ごとに、部屋全体がひしめくほどの力が込められていた。
おいポンコツ、とだらしなく開いた小笠原の口から、抑揚を欠いた言葉が洩れた。
「あないな奴倒せっちゅうんか……」
『任務更新:ゾス人の撃破』
「無理ですよ、無理に決まってるじゃないですか……」
甲斐も開いた口が塞がらないといった風だ。
『シリンジの回収未達成。撤退は認められません』
認められなかろうが何だろうが、命あっての物種である。ここは三十六計、一時撤退と決め込んだところで誰に文句を言われる筋合いもない。
だが、少なくとも小笠原には、それが出来ない訳があった。
無慈悲に指令を繰り出すドローンへ、気に食わない女上司へ、そして目の前の怪物へ呪詛の言葉を吐き、それでも小笠原は蛮勇を振り絞ってその1歩を踏み出した。
やけくその様にシリンジを掴みだす。
『Harricane!』
「どいつもこいつもクソったれ……変身!!」
壁のように視界を塞ぐ暴風。それを突き破るように。ハリケーンの痩身が飛び出した。
だが相手はあの巨体、教会の牧師や魚人などとはモノが違う。徒手空拳で突っ込むのは愚かに過ぎる、と判断した。
ハリケーンは怪物から距離をとり、大きく右回りの軌跡を描く。
予想通り胴体の動きそのものは鈍いが、手数がとにかく多い。極太の鈎爪を備えた右腕の一閃を躱したかと思うと、その先には複数の触手が逃げ場所を削るように突き出されてくる。お蔭でハリケーンは高さ方向までを使っての立体的な軌道を余儀なくされた。デスクを足がかりにし、天井を蹴り、高速で移動しながら油断なく怪物の隙を探していく。
ハリケーンの頭にあったのは、昨日のセミナー会場で猛威を振るったあの飛び道具だ。幸い、デスクやらスチール棚やら、巻き上げて叩き付ける礫に使える物は周りにいくらでもある。
対峙を始めてから巨体の周りをぐるり3周回ったところで、ハリケーンが仕掛けた。風圧を身体の前方に発生させて慣性を殺し、ゾス人のほぼ正面で足を止めた。
右腕を前に翳す。人ならざる力を収束させ、それを身体の外側に込めるイメージ。
わざわざ足を止めたのは集中する為、そして兼、フェイントだ。
ゾス人を中心に、ハリケーンを6時として2時の方向に強烈な負圧を生み出す。オフィス机が持ち上がり、猛烈な勢いでゾス人の後頭部に迫った。
時速にして60キロ程まで加速した机。もちろんそれを黙って見ている手はない。それまでの衛星軌道のような挙動から一転、ゾス人に向かい突進する。
その後のゾス人の挙動は、ハリケーンの予想を上回った。
後頭部にぶち当たった机をものともせず、衝撃でひしゃげた足を触手で掴み、ハリケーンに叩き付けたのだ。
斜め上方から右肩の辺りへ強烈な一撃を浴びせられたハリケーンは、そのまま後方に吹き飛ぶ。
受け身もままならず数メートルほど転がって、ようやく止まる。顔を上げて、さすがにぞっとした。
甲斐が、まだ変身していない。それだけならまだ良いのだが、あろうことかシリンジを手からこぼし、床を転がる円筒をよたよたと追いかけている。触手が掴むデスクの分だけ延長された射程圏内、そのただ中に甲斐はいる。
そしてハリケーンには分かる。ゾス人は甲斐を捕捉している。
いくら筋肉の鎧に守られているとはいえ、生身の状態で直撃すれば重傷は免れないだろうし、当たり所が悪ければ死ぬ。今の一撃も、変身してなお一瞬気が遠くなるほどの打撃だった。
迷っている暇はない。ハリケーンは仰向けの状態から身体のバネで起き上がり、風圧を利用し瞬時に加速した。左の壁を蹴り、甲斐と触手の間に斜めに身体を割り込ませた。
ぶっ違いに掲げた両腕に、上から机が叩きつけられた。
今度は踏ん張って耐えたが、それだけに被害は更に甚大だった。硬質の肉が裂け、その奥で骨が軋んだ。
はよ取りに行かんかい、と甲斐に怒鳴り散らしたかったが、肺から空気が全て抜けてしまったかのようで、それすらままならない。
だが何かを察したのかそれともただ必死に逃げ出そうとしたのか、甲斐は竦んだ足を必死に奮い立たせ、尚も転がるシリンジを追い掛けてようやく拾い上げた。
その顔からは、躊躇いも絶望も消えていた。
『Combustion!』「変身!」
一瞬にして、その身が紅蓮に包まれる。
これで、ようやく役者が揃った。
だがハリケーンが払った代償もまた大きい。まともに受けた2発で、完全に足にきていた。この空間を縦横無尽に駆け回る事は、しばらく出来そうにもない。
それでも、希望はまだある。
大きく息を吸い込み、う、と呻いてハリケーンは触手の下から飛び出した。脚に力は入らないが、風圧を利用して押されるように動くことは出来る。近づけば手数は出せるし、両の拳で何とかできる範囲なら、乱打を捌くことも不可能ではないだろう。我が身を標的として晒し、ダメージだけは最小限に抑えながら。
案の定、安易に距離を詰めてきた小兵を、ゾス人の腕と触手が総出で歓迎した。両の腕どころではない。躱し、捌き、膝や肘まで使って致命傷だけは何とか避けながら、ダメージの通らぬと分かっている拳をそれでも雨あられと叩き込む。
その意図はたった1つ、陽動だった。
限界まで引付けた。溜めるための時間も稼いだ。
おれにできるんはここまでや。あとはどうか、相棒。
横薙ぎの触手を胴の真ん中に打ち込まれ、くの字に身体を折って吹き飛ぶハリケーンの視界の隅。極大の火球が、コンバスチョンの右手から放たれた。
変身の刹那、コンバスチョンは思い出していた。
(あ、ののちゃん……)
ののだけではない。頼佳やその傍に控える黒服達、両親や友人。失ったはずの記憶が、変身とともに戻っていた。
(酷い事言ってごめん、泣かせちゃってごめん)
そんな事を考えている暇はない筈なのに、情念が、想いが溢れてしまう。
(これを終わらせて、全部終わらせて……きっと、君を幸せにするから)
目の前ではハリケーンが戦っている。明らかに戦力で上回る怪物を相手に、一歩も退くことなく。
いつかやったコンビネーションの再現。
やるべきことは、分かっていた。
腕に、掌と五指の先に力を込め、熱を集める。周りの空間から、自身の身体からエネルギーを取り出す。それは燃え盛る火球の形となり、今にも放たれんとするそれを無理やり押しとどめる僅かな間にも、みるみる大きさと光度を増していく。
雷石を投じ死に至らしめよ、と頭の中で誰かが言った。
ハリケーンの身体が吹き飛ばされ、ゾス人がこちらに注意を向けた。
もう遅い。
コンバスチョンは開いた掌から、火球を解き放った。
巨大質量が超速で発射される反動に、流石のコンバスチョンも後ろへ弾き飛ばされた。
避けるのが間に合わないと悟ったのかそれとも避けるまでも無いと判断したのか、ゾス人は複数の触手と右の腕を火球の軌道上に集合させ、即席の壁を築いた。
だが、質量も熱量も、かの巨体が耐えうる限界を大きく超えていた。
火球の形をした破壊の塊は、触手も腕も炭化させながら押し潰し、ゾス人の胴体へと着弾。
彼にとっての不幸は、巨体とその性質として持つ生半可でない強度による。そうでなければ、もっと楽に死ねたに違いない。
半ば溶解・炭化した火球は胴体を貫通することなく、体内に抱え込まれるようにして内側から身体を燃やし続けた。体液は沸騰し全身の穴から溢れ、それを覆い隠す様に炎が全身を包んだ。
炎の照り返しが辺りを照らし、吐き気を催す臭気が室内に充満する。
悍ましい断末魔の叫び声は、いつまでも続いた。
先に我に返ったのはハリケーンだった。吹き飛ばされた姿勢のまま壁を背にして蹲っていたが、目の前の地獄のような光景がその意識を現実に連れ戻した。
痛みはないが、身体に力が入らない。よろめきながら立ち上がった。
それを見て、同じく壁を背に自分が振るった力がもたらした破壊の有様を呆然と見つめていたコンバスチョンも、慌てて立ち上がる。このままでは延焼に巻き込まれかねない。その前に、探し出さなければならないものがあるはずだ。
お前はそっちを探せ、というハリケーンのジェスチャーに、勢い良く頷いた。
探し物は、あっけなく見つかった。
なぜならそれらは、2人に見覚えのある形をしていた。
言わずもがな、2本のシリンジである。部屋の隅に追いやられていた机の上の樹脂製容器の中に、丁寧に並べて置かれていた。
無骨な金属製で、中央には全体の造りにそぐわぬ抽象的な意匠が彫刻されている。意匠はそれぞれハリケーンシリンジ、コンバスチョンシリンジのそれと似てはいるのだが微妙に違う。紋様は、より複雑で込み入った形状をしていた。
だが、それらが何を意味しているのか考察する時間はない。
2人は変身も解かぬままそれぞれシリンジを1本ずつ引っ掴んで地上へ繋がる階段を駆け上がった。
地下室の中央では、怪物の巨体が直立不動の姿勢のまま炎を纏い、その細部をボロボロと崩れ落としていた。
『ハスターシリンジ、クトゥグアシリンジ、回収完了』
任務完了、お疲れ様でした、ベースへ帰投しましょう、といつもの如くAIbotはしゃあしゃあと任務の終わりを告げる。
雑居ビルの外、サイドスタンドを降ろした2台のバイクのすぐそばである。
変身はすでに解かれていた。2人の服、イヤホンやヘッドホンも、変身前のまま傷一つない。
「あのトドメは痺れたなあ」と興奮冷めやらず甲斐の肩を叩く小笠原だが、甲斐の様子が振るわないことに気付いた。
「どうした」
「また、思い出せないんです」
「は?」
「記憶、さっきの変身中には確かに覚えてた筈なのに」
甲斐は、再び記憶を失っていた。何かを思い出した事、それにまつわる何か重大な決心をした事は覚えている。しかしそれだけだった。それが確かにあったという残滓だけを残して、手の中に捕まえたはずのそれは、またどこかに消えてしまった。ずっと思い出せないよりも、なお酷い。無力感と虚しさが、甲斐の胸中を支配していた。
小笠原もそれを聞いて、気まずそうな顔をしている。掛ける言葉が見つからなかった。
が、そこである事に気付いた。
ベースの頼佳と回線を繋げているはずのヘッドホンの向こうから、何も聞こえない。
『ジャック、応答せよ。シリンジの回収完了、ベースへ帰投する』
『ジャック、応答せよ、ジャック』
やはり返答はなく、AIbotの呼びかけだけが虚しく響く。
「ポンコツ、どないなっとんねん」
『応答がありません。緊急事態と判断します。至急ベースへ帰投しましょう』
「おいおい、穏やかやないな」
姐さんに何があったか知らんが、あのおっぱいと脚は惜しいからな、と軽口を叩きながらも小笠原は真剣そのものの表情と機敏な動作でバイクに跨り、サイドスタンドを起こす。
のたのたと後に続く甲斐とプロペラユニットを収納し後部バーにしがみ付くAIbotに「はよせえ」と叱咤を飛ばしながら、セルボタンを押しエンジンに火を入れた。
嫌な予感がしていた。
途切れることのなく凶を兆す虫の報せを胸に市街地まで戻ったが、当たり前ながら町はいつも通りだった。
パチンコ店は煌々と明かりを照らし、いくつかの飲食店は暖簾を仕舞い始めている。
駅から少し離れた所にある警察署も、とっくに営業時間は過ぎているものの、窓越しに見えるフロアには明かりが灯っていた。
小笠原も甲斐も、辺りを騒がせないよう、遠慮がちなアクセルワークで地下駐車場へと進入していく。
人通りは絶え、しかし平穏な日常風景のひとコマ。
そんな印象は、地下に降りたところで木っ端微塵に霧散した。
最初に目に入ったのは、血の痕だった。
エレベータホールから地下駐車場に掛けて、何人分もの足跡が残されていた。それは赤黒い血で印されており、エレベータホールから駐車場側に向かうにつれて薄く掠れていた。エレベータボックスは中を盛大に血で汚したまま、扉を開けて静止している。
それが意味するところは明確極まりない、地下を血の海にしてここを歩き去ったという事で、しかもその誰かは、自身の靴が血に塗れている事を欠片も気にしていないのだ。
詳細な状況は分からないが、容易に想像はついた。小笠原の嫌な予感は、これ以上ない最悪の形で的中したと言っていい。
小 笠原は一瞬だけ甲斐とAIbotの方に目くばせをしてから、脇の地下へと続く階段へ向かった。
降りた先の空間、2人がこの数日間幾度となく通った管制室は目も当てられぬ惨状、酸鼻を極めたと言ってもいい有様だった。
甲斐の記憶からは消えていたが、小笠原には見覚えのあるスタッフ達が、その身体に風穴や切り裂き傷を数知れず穿ち、目を見開いたままこと切れていた。どれもこれもデスクは血に塗れ椅子は倒され、モニタは破損し書類はあたりにばら撒かれていた。確かめるまでも無く分かる。これは終わった後だ。
息をしている者はどこにもいない。幾つもの書類から、火の手が上がっていた。じきスプリンクラーが作動し、辺りには水滴の撒かれる音だけが無情に満ちるのだろう。
『本拠地、壊滅……』
AIbotのその声すら、どこか呆然としているように聞こえた。
炎が、そこかしこでゆらゆらと揺らいでいる。
どちらが合図した訳でもなく1歩、2歩と後退り、やがて後ろを向いて全速力で階段を駆け上がった。
地下駐車場を抜け、地上に駆けあがり……
それからの、2人の記憶は曖昧だ。いつの間にか近づいていた消防車のサイレンも、消防隊に抱き留められ誰何されたことも、後から記憶を辿ろうとしても、抜け落ちてしまったかのようにとんと思い出すことができなかった。
ただひとつ記憶に残っているのは、AIbotがただひたすらに繰り返していた一節だけだ。
『命令を入力してください』
『命令を入力してください』
『命令を』
いつその場を離れ、相棒と別れたのかも定かではない。
自分たちを縛っていたもの、自分たちを脅迫めいた命令でしがらみに括りつけていたものから自由になった夜であるというのに、何がしかの感慨を持つ余裕は、何処にもなかった。