いつの間にか自分でも分からぬままに、小笠原は自宅に戻ってきていた。時刻は夜半である。安アパートのどの部屋からも明かりは消えていた。
自室もその例には漏れなかった。鍵を開けて玄関をあがりダイニングの照明を点けると、ラップに包まれた夕食と手書きのメモが小笠原を出迎えた。
『兄ちゃんへ。お疲れ様です。病院はちゃんと行きましたか?』
薄いドアの向こう側、鈴太の寝室からは弟の寝息すら聞こえてくるようだ。
いや、違う。寝息ならばドア越しに聞こえてくる事は無い。聞こえるならば、それは息遣いなどではなく、有声音だ。
ううん、うう、と途切れ途切れに漏れ聞こえるそれは、鈴太のうめき声だった。気のせいかと思い息を殺して耳を澄ませるが、間違いなかった。そして、それは途切れることなく一定の間隔で聞こえてくる。
「スズ、おい、大丈夫か?」
思わずドアを開け部屋に乗り込む。
鈴太は、確かに寝ていた。寝ていたというより、意識を失っていると言う方がより正解に近いかもしれない。
蒲団から覗くその顔は瞼こそ閉じているものの、冷たい水を注いだグラスがその表面に結露を生むごとく大量に発汗し、顔を真っ赤に紅潮させてうなされていた。ダイニングから漏れる照明に汗を光らせながら身体を捩り、それでも顔を顰め目を覚ますことなく唸り声を上げている。
駆け寄る小笠原の目の前で、鈴太は突然目を見開いた。
「痛い。痛いいたいいたい……!」
「おい、どうした」
気遣う小笠原を無視し、蒲団から這うようににじり出てダイニングへ向かう鈴太。その間も「痛い、痛い」と絞り出すような強い苦痛の声を絶やす事は無い。呆然とする小笠原をまるで無視して通り過ぎキッチンへと脚を踏み入れる。見開いた目は血走っており、滂沱の涙を流していた。
「痛い、痛い……こんな頭、要らない……」
何度も何度も痛みを訴えながら、シンク下の扉を開け中をまさぐっている。普段料理などしない小笠原にも分かる。包丁を取り出そうとしているのだ。
「何しとるんや!?」
後ろからその手をはたき、抱き止めるように羽交い絞めにした。
「なんで止めるの……痛い、頭が……痛い……割れちゃう」
寝間着越しに分かるほど、鈴太の身体は異常に発熱していた。身悶えながら苦痛を訴えるその姿に、小笠原もただひたすら焦燥するしかない。
「落ち着け、スズ、兄ちゃんここにおるから」
救急車を呼ぼうにも、この状態では手が離せない。手を離してしまえば、自傷を躊躇わぬほどの苦痛に失神すらままならない鈴太がどういう行動に出るか、嫌でも察しが付いた。
駄々をこねる幼児のような、力任せに拘束を振りほどこうするような動きは、いつしか数拍おきのゆっくりとした痙攣に変わっていた。脱力の後全身の筋肉が収縮するたびに、あ、あ、と吐息のような声が小振りな口から漏れる。
いよいよどうすれば良いか、小笠原には分からない。
段々と吐息は大きくなり、ふと小笠原は鈴太の口から漏れるそれが吐息ではなく、一節の言葉であるという事に気付き始めた。
「頭の中に悪魔がいる」「頭の中に悪いやつがいる」そう繰り返しているのだ。何度も、何度も、何度も。
いたたまれなかった。ぐっと目を瞑り、腕に力を込める。
それが契機になったのか、また鈴太が腕の中で滅茶苦茶にもがき出した。後ろから抱えられながら、シンクの縁に何度も頭をぶつける。
慌ててシンクから引き離す小笠原。鈴太はぐるりと首を巡らせ兄の顔を斜め下から睨みあげた。その顔に、普段のおっとりした少年の面影はどこにもない、怒りとも憎しみともつかぬ激情に染まっていた。
限界まで見開いた目で小笠原を見上げ、「お前か」と喉奥からざらりとした声を吐き出す。
「お前か! お前が! お前が悪いんだ! お前が!」
喉も枯らさんばかりに憎しみの声を上げながら暴れる鈴太。
だが、それもそう長くは続かなかった。
「しせるくとぅるう るるいえのやかたにて ゆめみるままにまちいたり!」
小笠原には全く意味が分からなかったが、口角を醜く歪めて一息にそう叫んだきり、鈴太はがっくりと脱力し失神した。ただでさえすり減った体力を使い果たしたのだろう。
小笠原は大きく息を吐き、弟の身体を引き摺って蒲団の上に横たえた。鈴太は全身を汗で濡らしたまま、また低い声でうなされている。
そうだ、救急車を……と一瞬はスマートフォンに手を伸ばしはしたが、すぐに我に返って、止めた。同時に深い絶望と無力感が湧きあがる。
間違いない。霊憑き病だ。
本当は気付いていた。そうじゃないかと思っていたが、認めたくなかった。受け入れたくなかった。銭湯の帰り道、道端で頭痛に蹲った鈴太の姿に最悪の未来を重ね、それでもそれに気付かない振りをしていた。
その挙句がこのザマだ。霊憑き病に治療法は確立されていない。原因は不明、感染経路も不明。病理学的に疾病であるというエビデンスは存在せず、調査先で見つけた資料によればそれは病ですらない。重々分かってはいるのだが、思う事は止められない。過去類を見ないほどの自己嫌悪が、小笠原を襲っていた。
なんでや。なんでお前なんや。
糞みたいな親から逃げて。
糞みたいな施設から抜け出して。
お前の人生ようやくこれからやないか。本田ちゃんやったか? 可愛い彼女こさえて、嫁にもきてもろたらええ。それにお前は頭もええさかい、医者でも弁護士でも、何でも好きなもんになれる。
心配せんでも、おれみたいなヤクザもんはその頃にゃどこぞで野垂れ死んどるか、せやなかったら、どこへな消えたる。
おれにはお前以外なんにもない。だから死ぬならおれや。
せやのに、なんでお前なんや。
ぐ、と奥歯を噛み締めたまま鈴太の寝顔を見下ろす小笠原。
やがて、幽鬼のような足取りで部屋を後にした。
首から上だけを出し、蒲団ごとガムテープで簀巻きに仕立てた鈴太の枕元で、壁を背にして小笠原は座り込んだ。片膝を立て、ビールのパックを気だるげに開封する。時折うなされる鈴太の顔を見ながら、ぬるいビールをちびちび煽り出した。
何の味もしない。
何時まで経っても、酔いは訪れそうになかった。
「お帰り、なさい……」
甲斐が帰宅したのはもう日付も回った頃だったが、玄関の照明は点いており、ののもまだ起きていた。服装からすると入浴もまだのようだ。もしかしたら、夕食も摂らずに待っていたのかもしれない、と甲斐は思った。
「お疲れさま、です……」
「ただいま……」
「よかった、帰ってきてくれて」と言って、ののは泣きそうな顔になった。
「先に寝ちゃったら、帰ってきてくれないかもなんて考えちゃって」
そんな馬鹿な、とは言えなかった。
「あの、ごはん作ってあるから。そんなに美味しくはない、んだけど、食べてくれたら嬉しいなって……先にお風呂でも、いいよ?」
どう、しますか……と上目遣いに問われれば、いくら甲斐にとって見知らぬ他人とは言え、さすがに無碍に扱うことはできない。
「あ、じゃあ、ごはん、貰ってもいいですか」
心なしか、ののはぎくりとしたように見えた。
促されるままダイニングの席につき、ほどなくして電子レンジで温め直した料理が供された。やはり食事は摂っていないらしく、出てきたのは2人分だった。「えへへ、私も」とののは咎め立てられたわけでもないのに照れたように笑った。
メインはハンバーグだった。とりわけ甲斐の前に置かれた分は並みはずれて大きい。甲斐の握りこぶしほどもあろうかという堂々たるサイズで、成型と練りが甘いのか中ほどが大きく膨らみ、焼いた際に出来たのであろう裂け目の内側から、チーズが液状になってとろりと流れ出ている。表面もフライパンに接していた面が黒く固く焦げていた。付けあわせとして皿の端に盛られたポテトサラダから、薄くスライスしたキュウリとリンゴが覗いていた。
「ごめんね、ちょっと失敗しちゃったけど」
「いや、そんなことないですよ。いただきます」
相変わらず記憶は戻らないままだが、その衷心は痛いほどに伝わった。
遠慮がちに箸をつけ、沈黙の言い訳にするかのように黙々と口に運んだ。やや入れ過ぎのきらいのある胡椒が、舌を刺した。
ののもしばらく黙っていたが、食が進んでいたという訳でもない。箸でおかずを突くようにしている。ややあって、意を決したように訊いていた。
「あの、今日は、お仕事どうでした、か?」
何と説明したものか、と甲斐が考えあぐねているとののは「やっぱり、何も教えてくれないんだね」と一気にしょげかえり、それを見て甲斐も流石に慌てた。
「いや、ほんとにどう言えば分からなくて……言っちゃ駄目な事も沢山あるし」
「いいよ。俊亮が私の為を思って言わないってことも、分かってるつもり、だから」
大丈夫、というその声は、自分自身に言い聞かせてるようにも思えた。
それに何と声を掛けていいかも分からず、それきり箸を使う音だけが虚しく卓上を満たした。
『羽星ニュースの時間です』
沈黙に耐えきれなくなり、どちらともなく付けたテレビからはお馴染みのローカルニュースが流れだした。今朝の不快感を思い出し、甲斐は思い切り眉根を寄せる。案の定、キャスターは『本日も市内を賑わせているベアリルについて……』と切り出した。
チャンネル替えるか、と甲斐がリモコンに手を伸ばした時、不意に画面が揺らぎ、ノイズ音が一瞬スピーカーから流れた。
おや、と手を止めて、2人揃って画面に注意を向ける。
画面の乱れは、尋常な様子ではなかった。キャスターが口を開いたままの状態で静止し、色調だけが不気味に変遷する。翡翠を思わせる緑一色に染まった画面の中で、キャスターが一節だけ声を発した。
それは「み」と聞こえた。
二人の目の前で、勝手にチャンネルが目まぐるしく切り替わる。
翡翠色に輝く画面の中で、ドラマの中年俳優が、バラエティー番組の司会者が、海外ドキュメンタリー番組の吹き替えが、それぞれ1音ずつバラバラの音量、口調で声を発した。
「み」
「ツ」
「ケ」
「た」
「ぞ」
継ぎはぎの音声は、そう画面越しに語り掛けてきた。
あまりの事に思考が停止ししていたが、その言葉の意味が沁みるように脳内に辿り着き、同時に甲斐は総身の毛が逆立つのを感じた。
ピンポーン、と玄関チャイムの音が鳴り響いた。
あまりのタイミングの良さにビクリと背を縮こまらせるのの。こんな夜更けに誰だろうか。
チャイムは、一度では終わらなかった。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン……何度も立て続けに鳴らされる。それと同時に、ドンドンドン、と無遠慮なノックの音が響いた。ダイニングまで聞こえるということは、相当の強さで叩いているということだ。
深夜の不作法に怒るよりもむしろ、恐怖と不気味さが先に立った。
「な、何ですかねこんな夜中に。私スコープで見てきますから、怪しい人だったらすぐに通報しましょう」
恐怖を誤魔化すようにむしろへらへらと笑いながらののが立ち上がり、玄関の方へ向かう。
「いや、ちょっと待っ」
半ば腰をあげ、手を伸ばした。伸ばそうとした。
ののはダイニングの扉をくぐり、玄関へと向かっていた。
甲斐の位置からは、肩越しに玄関の扉が見える。
ノックの音が突然に途絶え、カチャリ、と。
玄関の鍵の音。扉が、引き千切られるように開かれ。
折り敷くように重装備の闖入者たちが。
それぞれの手に持つ小銃の銃口は全てこちらに向けられ。
だというのにののの動きはじれったいほど鈍く。
ああ、もう引き金に指が掛かっている。
絶対に、間に合わない。
人間なら。
「変身」
清閑な深夜のマンションに、凄まじい銃撃音が響き渡る。
いくつもの銃口から斉射された弾丸が、瞬く間に玄関を穴だらけにしてゆく。
だが無数のそれらが標的を貫く事は無かった。
ののの前に立ちはだかるコンバスチョンの背が、全ての弾丸を受け止める端から、溶かしていた。
「あ、え……俊、亮……?」
呆然と、ののは目の前の異形を見上げている。
その真っ赤に赤熱した全身を。黒目のない、裂け目のような4対の眼を。
民衆の敵たるベアリルの片割れ、コンバスチョンを。
言葉もないのは、コンバスチョンもそうだった。
思い出していた。自分が失った記憶を。その間、彼女に施していた仕打ちを。何よりも大切に思い、幸せにすると心ながら誓った筈の女性に。
間に合った。生きていて良かった。
心からそう思うと同時に、胸の張り裂けるような後悔と罪悪感を覚えた。
闖入者たちは懲りずに続けざま、虚しい銃撃を続けている。いっそ、それら全てがこの身を引き裂いてくれとすら思う。
殆ど苛立ちまぎれに、背後に向けて火球を放った。手加減はしたし、直撃でも死に至る事はないはずだ。だが彼らにしては堪ったものではなかったのだろう。悲鳴と、何かを引き摺りながら遠ざかっていく足音が聞こえた。構う事はない。
ののは、それらの成り行きを唖然とした顔で見ている。わななく声で言葉を絞り出した。
「なんで、黙ってたの……俊亮が、ベアリルだったなんて……こんな危ない事、してたなんて……」
「ごめんね、ののちゃん……」
コンバスチョンの表情は変わらない。だが、鋭い牙の生えた口蓋から発せられる声は、確かにののの記憶にある甲斐のそれ、困ったような謝り方もその口調も、全てに泣き出したいほど聞き馴染みがあった。
「私の事、覚えてなかったのもそれのせいなの……?」
「そう、なのかな。なんだか、この姿になる度に、どんどん身体がおかしくなっちゃって……」
「何で、そんなになるまで黙ってたの!? 1人で頑張ってたの!? ちゃんと何かあったら言ってって言ったじゃん!」
謝るぐらいなら最初からしないでよぉ、とついにののは泣き出した。コンバスチョンに、返す言葉は何もなかった。
何も言い返さず項垂れるように見下ろすコンバスチョンにののは、馬鹿、と泣きながら言い重ね、遂には幼児のような大きな声で泣き出した。
小笠原は、自身の脳髄を揺さぶる不快感に、たまらず目を覚ました。
壁を背にしたまま意識を手放していたようだった。あれからさほど時間は経っていないのだろう、外はまだ暗く、鈴太も変わらず意識を失ったままだ。
長い、余りにも長い1日だった。疲れの余り眠りこけてしまっても不思議はない。それはいい。
だが、今小笠原を襲う悪心、吐き気、眩暈はただごとではない。心臓が早鐘のように打ち、その度に頭蓋が破裂しそうになる。正常な呼吸すら、出来ているかどうかは怪しい。
脂汗を滲ませ目を見開きながら、不意に悟った。
あと1回。
変身できるのは、それが最後になる。
せめて胃の中の物をぶちまけようとトイレに立ち上がろうとはしたが、身体を横に倒す以上の事は出来なかった。
クソったれ。
掠れるような声で毒づいて、再び意識を手放した。
ほぼ同時刻、市内のビジネスホテルの一室で、甲斐はベッドの上でのたうち回っていた。
彼自身知る由は無いが、小笠原を襲ったのと同じ症状である。
「ちょっと、俊亮!? どうしたの!?」
隣で見知らぬ女性が騒いでいる。ひゅうひゅうと喉を鳴らす自分の顔を心配そうに覗き込む彼女。焦点の合わない眼でその顔を見返しながら、これで何度目になるのだろう、心の中で謝った。
ごめん。
ごめんなさい。
こんなに僕の事を心配してくれているのに、僕の事を想ってくれているのに、僕はまた君の事を思い出せないよ。
襲撃でメチャメチャにされた部屋で夜を明かすわけにも行かず、何かから逃げ出す様に手近なホテルの空き部屋に飛び込んだ2人だった。
当然その前段で変身は解いたのだが、そこで甲斐はまた記憶を失っている自分に気付いた。
気が狂いそうだった。いや、狂うことが出来ればいっそ楽になれただろう。
迷子の子犬のような顔で背を丸める甲斐を見て、ののは彼の身に何が起きたかを察した。涙を溢れさせたまま甲斐の頬を両手で包み、怒鳴るように言い聞かせた。
「のの! 藤塚のの! 貴方の恋人で……貴方が、命がけで守ってくれた女だよ……」
「うん……うん……ごめんなさい。僕は、また」
「謝らないでよ……」
何回忘れてもいいよ、その度に教えてあげるから、とののは涙を拭った。
その後の事は、あまり記憶にない。何せ滅茶苦茶な1日だったし、気が抜けてしまえば立ち上がれないほどに疲弊していた。ホテルの部屋に落ち着いた後は明日の行動も決めぬまま、どちらからともなく倒れるように眠りに就いた。そのはずだった。
「ねえ、聞こえる!? 今救急車呼ぶから!」
肩を揺さぶるその手を、全身の力を振り絞って必死に押し止めた。
呼んだところで時間の無駄だ。これは、そういった何かではない。
これは兆しだ。僕の身体が、脳が、崩壊と共にそれと教えてくれているのだ。あと残された変身は1回きり。
その後で、僕は、終わる。
彼女の事も何も思い出せないのに、それだけははっきりと分かった。
ああ、また泣かせちゃってるや。ごめん……
その思いを最後に、甲斐の視界は暗転した。