小笠原はバイクから降り、ポケットの上からその存在を確かめるようにシリンジを撫でた。
先ほど別れ際に甲斐から受け取ったシリンジだ。元々持っていたハリケーンシリンジだけではない。昨夜支援者の本拠地で探し出し、そのままそれぞれが身に着けていた2本のシリンジ、ハスターシリンジとクトゥグアシリンジも忍ばせている。
日が傾ききる前に辿り着いたのは、警察署だった。小笠原の考えが正しければ、この地下にはアレがある。
AIbotは、昨夜別れた時のままの場所で、所在なげに浮かんでいた。
『ハリケーン、何をしに来たのですか。任務はありません。指揮官は不在、指揮系統も崩壊しています』
心なしか、感情の籠らないその言葉にすら空虚さを感じる。
「おうポンコツ、あのジュラルミンケース、どこや?」
『それを必要とする理由が、理解できません』
「おれがアイツをやる」
『理解不能。貴方はなぜ、そうまでして戦うのか』
「……ええから言わんかい」
AIbotは最早、何も言わなかった。
舌打ちをひとつ、小笠原はその場を通り過ぎ地下駐車場へ向かった。
立ち入り禁止のテープがおざなりに張り巡らされていたが、辺りには誰もいない。構うことなく跨ぎ越えて、階段を下に降りていく。コンクリート張りの空間に、革靴の音がこだまする。照明は途中から消えており、地下駐車場の頼りない明かりだけが階段と踊り場を照らしている。
扉を蹴り開けると、その先は昨夜のままだった。あれは夢でも幻でもないと証明する死体の山、そして破壊の痕跡。他には何もない、音すらも過去へ置き去りにした、静寂の空間。小笠原の靴底が床を叩く音だけが正確に響き渡る。
そこに、ひとつの音が加わった。粘性のある液体を啜るような、ジュルジュルと嫌悪感を催す音だ。
いや、それはひとつではない。微弱なそれは部屋の方々から集い、徐々に大きくなってゆく。蒼黒いゼラチン状の何かが、デスクの下から、棚の隙間から這いずり出てはその進路上で合流、合体し、より大きくなった塊が更に部屋の中央へと身を震わせながら集ってゆく。
「おいおい……」
うなじの毛が、ちりちりと逆立つ。
最初はただ平らな粘菌状の膨らみでしかなかったそれは高さを増し、裾野を広げ、もう小笠原の背丈を優に超えている。更に釣鐘上に持ち上がり、身体の細部を形作っていく。
やがて現れたのは、見覚えのある形だった。
骨ばった腕と、その先に備わった太い鈎爪。蝙蝠のような翼膜。蛸のような頭部に、口元から伸びる数多の触手。真紅に光る灼眼は昨夜見たそれと何一つ変わらない。
再び、ゾス人が小笠原の前に立ちはだかった。
「嘘やろ……」
コンバスチョンにやられた箇所はまだ完全に修復されきっておらず、体表の所々は焼け爛れたように窪んでいるが、薄暗い地下室の中爛々と輝く眼に宿る敵意に何ら遜色は見られない。
小笠原がここと当たりを付けている頼佳のデスクは部屋の奥、丁度巨体に阻まれた向こう側にあった。素直に通してくれるようにはとても見えないが。
復活したゾス人が襲い掛かってくるまではそう間もないだろう。小笠原は、逡巡していた。この怪物の戦闘能力が昨夜と同等のものであれば、生身ではとても太刀打ちできない。だが、残された変身は、あと1回きり。
(背に腹は代えられへん。変身して秒でこのタコ助ボコってちゃちゃっと姐さんの机漁ってお目当てのモン見つけて……それしかあれへん)
クソったれ、と毒づいてシリンジを取り出したその時、耳を聾する銃声が2発、地下室に轟いた。ゾス人が着弾の衝撃に聞くに堪えない唸り声を上げ、僅かに後ろにずさる。
振り返ると、そこには黒髪を後ろに括ったライダースーツの女が、馬鹿でかいオートマチック拳銃を構えていた。そのまま残弾をすべて打ち尽くすと、拳銃を脇に放り投げ変身装置を取り出す。
「こいつは私がやる、早く行け!」
『ライドシステム、起動』「変身!」
一瞬で黒い装甲をその身に纏ったD‐4は、自身を大きく上回る巨体のゾス人に、躊躇いなく特攻した。文字通り地を蹴り、進行方向へほぼ真横に跳躍。速度をそのまま威力に替え、閃光のような飛び蹴りを放つ。予期せず、D‐4とゾス人の死闘が始まった。
本拠地の資料を読んだ後なら、流石に小笠原にも分かった。
ライドシステムの、その骨子となる設計思想。ハリケーンシリンジやコンバスチョンシリンジが神話の矮小化と再現であるとすれば、ライドシステムは科学と工学の粋を集めた神話の模倣と言える。もっと言ってしまえば、ライドシステムの根底にあるのは人類の力への憧れであり、神への挑戦であり、その真髄は『神殺し』に他ならない。今小笠原の前で繰り広げられているのは、神話的事象とそれに立ち向かう人類の叡智の、人類史上何度も繰り返されてきたもののうち最も新しい一戦だ。
いや、よそ見をしている暇は無い。今は目の前の目標に集中しなければ。2人がかりであれほど手こずった怪物である。いくら現代兵装の権化であるD‐4とはいえ、勝利が確実なものであるとは言い切れない。時間稼ぎと割り切って、小笠原は小笠原で捜索を進める必要がある。
くんずほぐれつの肉弾戦の脇を素早く抜け、頼佳のデスクに辿り着く。部屋の最奥にあるそれは原形をこそ留めていたが、大量の血に塗れていた。天板には血まみれのナイフがどかりと突き立てられており、前面の引き出しには生々しくも血の手形が印章のように施されている。
引き出しを一通り開けてみたが、目的のケースはどこにも見当たらない。だが、小笠原はふと気付いた。机の天板はただ血で汚れているのではない、それは血文字による一連の文章だった。恐らくは頼佳の手によるものだろう。ただ、無造作に書き殴られたそれは周囲の暗がりと相まって、中々読み下すことが出来ない。
これが頼佳の書き残したメッセージであれば、絶対に解読しなければならない。あの鉄を叩いて出来上がったような女が、この状況下で無駄な事をするはずがないのだ。
(クソ達筆の年増め、全然読めんやないか……!)
必死に目で血文字ののたくりを追うが、焦りもあってか中々解読は進まない。日本語で書いてある事は確かなのだが……
背後での戦闘は、白熱していた。
触手を縦横に振り回し襲い掛かるゾス人。D‐4がすかさず自らの両腕を掲げて手首を内側に捻ると、前腕装甲からチェンソーが飛び出した。瞬く間に高速回転を始めるそれを頭上で交差させ上から叩きつけられる触手を両断。そのまま前方に踏み込み手当たり次第に肉を断ち切っていく。怒りとも苦痛ともつかぬゾス人の咆哮が、部屋を震わせた。
だが1撃の威力こそD‐4の後塵を拝するものの、こと物量に関してゾス人は圧倒的優位にいる。総身が燃え尽きてなお一夜で復活するタフさは驚異の一言に尽きる。多少触手を切り取ったぐらいで戦力のダウンは望めないだろう。事実、怯んだ素振りもなく次から次へと触手を再生させてはD‐4に打ち込んでいく。持久戦に持ち込まれれば、不利なのはD‐4だった。1本1本が人間の胴体ほどもある触手に四方から襲い掛かられ、徐々に被弾が増えている。
それが分かっているからこそ、尚更小笠原も焦らざるを得ない。
やっとの思いで読み下した文章は、酷く簡潔なものだった。
『わたしはだれだ?』
落胆の余り、天板を拳で叩いた。
(ついにイカれたか、姐さん)
その間も、死闘の形勢は逆転しようとしていた。触手に翻弄され続けたD‐4が、本体の突進をまともに貰っていたのだ。小枝のように軽々と転がり飛ぶD‐4の体躯。胴体を辛うじて庇った片腕は肘が逆方向に曲がっていた。頭部装甲もその表層が大きく欠損し、顔が露出している。顔面の左半分は血に塗れていたが、まだ両の眼から光は消えていない。
下腿部の側面装甲が、堅い音を立てて口を開けた。
「人類を、舐めるなよ、化け物」
ミサイルポッドから30センチ長ほどの超小型ミサイルが2本、甲高い音を立て怪物の巨体目掛けて殺到した。
ミサイルは全て胴体に命中、爆発し、その上半身をいくつもの肉片に変じた。体表と同色の体液とともにあたりに肉塊が飛び散る。
だが、これで倒せるようなら苦労はない。案の定、肉片はべちゃりと床に落ちる端からその身を震わせ、元の場所へと這いずり戻っていく。復活は時間の問題だろう。
そして、D‐4も最早立ち上がるのがやっとの有様だった。腕と頭部は言わずもがな、その装甲はそこかしこでひび割れめくれ上がり、無傷な個所は何処にも見当たらない。両腕のチェンソーも捥げ、恐らく今のミサイルが虎の子だったのだろう。もう一度ゾス人の回復が終わってしまえば、戦う力すら残っているかは怪しい。
「姉ちゃん、弾丸無くなったんやったらおとなしゅう去ねや!」
「……やかましい。お前はお前の仕事をしろ。私もそうする」
癪だが、D‐4の言う通りだった。それに、こういった手合いに何を言っても無駄だと小笠原はよくよく知っている。
顔を見れば分かる、全ての武装を失いボロ雑巾のようになってなお、気迫に陰りの見えぬ面魂。任務の遂行に当たって自身の身の保全を一切前提としない、自身をそれと自覚した鉄砲玉達を、小笠原はこれまでに何人も見てきた。
かつての小笠原なら下らないと一笑に付しただろうが、今なら分かる。だから、「好きにせえ」とだけ言い捨て、目の前の、自身の任務に集中した。
何が何でも、今のうちに何とかしなければならない。
『わたしはだれだ』。必ずそれに意味はある。小笠原の知る限り発狂と錯乱から最も遠い、あの女司令が残したものなのだから。
考えろ。考えろ造一。わたしはいったい誰だ?
わたしは頼佳、藤原頼佳。鉄の女。どこから見てもカタギには見えない公務員。怪しげな情報組織の司令。コードネームはジャック。
ジャック。
ピンときた。急いでデスクの引き出しそれぞれに張られているラベルを確認する。上から順に「Case」「Arm」「Key」「Jewel」。それぞれの引き出しは同じサイズ、入れ替える事はできそうだ。そしてそれらの頭文字を入れ替えれば……「JACK」。
イチかバチか、引き出しを入れ替えてみると、サーボモータのような振動と駆動音が発せられ、ゴトンという音と共に止まった。発生源は「Case」の段だ。今入れ替える際に見た時は空っぽだった筈だが……
開けてみると、果たしてそこには小振りのジュラルミンケースがひとつ収められていた。冷静に見てみると引き出しの高さからは不自然なほど中の空間は狭い。セキュリティ代わりのギミックが施された2重底といったところだろう。
ジュラルミンケースの上面には小型の液晶ディスプレイが埋め込まれている。画面の真ん中あたりに円形の輝線が緑色に表示されていた。そしてケースには鍵が掛かっているのか開くことはなく、鍵穴も見当たらない。
直感的に察した。生体認証だ。
そしてそれが何を認識するものなのか、小笠原は気付いていた。このデスクが血に塗れていた理由、ナイフが天板に刺さっていた訳。
引き出しを入れ替える際に見たアレだ。気のせいかもと思ってはいたが……
「Key」の引き出しを、再度開ける。その引き出しは4つの中でひとつだけ、把手が血でべっとり汚れていた。
その中に入っていたのは……
やはり見間違いなどではなかった。先ほどは血に塗れた何かとしか認識できていなかったが、パズルのピースがすべて揃った今なら分かる。
血と体液にまみれぬらりと光るそれは、間違いない、抉り出された人間の眼球だった。乱暴に切り取られ中途半端に残された視神経の束が尻からのたくり、瞳は虚空を見つめている。
頼佳は錯乱していた訳でも何でもない。このケースを守り抜くこと、生き延びること、そしてここを探索するであろう小笠原たちにこれを託すこと、すべてを成立させる為の冷徹な判断の帰結が、この自傷行為だった。むしろ頼佳は極めて冷静に、強靭な意志の力でもって我が目を抉り、あまつさえ部下が謎を解く為のメッセージを残したのだ。超人的と言う他ないその意志力と決断力に、背筋が震えた。
だが感傷に浸っている暇は無い。意を決して体温を失った眼球を指先で掴みディスプレイの前に翳すと、ピっという短い電子音と共に、ロックの解除される音が聞こえた。
開けると中には、過日同じようなケースの中に見た機械部品が2つ。それらは小笠原が持ち歩くシリンジよりもふた回りほど大きく、しかし厚みの薄い板状の形で、いくつかの部品を組み合わせ可動部を設けたような複雑な形状をしている。
その中央付近には、シリンジの側面形状にピタリと沿うような窪みがあった。いつか警察署の写真資料で見たものだ。間違いない、こいつだ。
更に、その傍らには「注意」と見出しの掛かれた紙が添えられていた。
『1..本装置をひとつずつ下腹部に当てる』
『2.装置が固定された後、ハスターシリンジもしくはクトゥグアシリンジをアクティブ状態にし差し込む』
『3.変身を宣言する』
『注:本装置を1人で扱う場合、連結させ1つのドライバとした上で使用する』
「……やったろやないか」
自身を奮い立たせる小笠原に、鋭い声が飛んだ。
「危ない、避けろ!」
迂闊にも、目の前の事だけに集中し過ぎていた。
気付いた時には、すぐ傍にゾス人の太い触手が恐ろしい速度をもって迫っていた。
避けるには近すぎる、速すぎる。
その時、予想される衝撃に身を硬くした小笠原の前に割り込む影があった。
それは両手で捧げ持てるほどの大きさで、金属製で、中空を飛んできた。
AIbotだった。
小笠原の代わりに触手の直撃したその機体は、破壊的な音と共に大きくその胴体をひしゃげさせ、壁に打ち付けられた。そのままの勢いで壁打ちのようにバウンドし、小笠原の足元に転がってくる。
「くそ、お前の相手はこっちだ!」
D‐4が無事な方の手で殴り掛かり、ゾス人の注意は再びそちらに向けられた。
「ポンコツ……お前」
小笠原は呆然と、半壊したAIbotに声を掛ける。そんなことをしている場合でない事は百も承知だが、目を向けずにはいられない。身を挺して誰かを庇う、そんな自律的な行為とは無縁だったはずの無機質のドローンに。
機体の外装は半分以上が無残に割れ、中身が覗いている。その隙間から、いくつものLEDが出鱈目に点滅しているのが見えた。エラーが頻発しているのか、ひっきりなしにビープ音が鳴っている。
『動力部に致命的損傷。自己修復不可能。出力80%低下』
『メモリバックアップを開始します……データ転送、エラー。送受信シーケンスが中断されました。内部データに致命的な破損が多数存在します。セーブモードに移行します』
小笠原はその言葉の半分も分からなかったが、これだけは分かる。
もうすぐ、AIbotはその機能を停止する。
言葉もなく見下ろす小笠原の視線を一種の問い掛けと捉えたのだろう、ノイズ交じりの機械音声が、途切れ途切れに発せられた。
『本機は、本機に、命令を与える事にしました。貴方と共に、戦う、と』
『2つ、伝達事項があります』
『1つ目。国は、邪神に対する最終防衛ライン、ポイントシータを設定しました。このラインを超えた段階で、戦術核クラスの弾頭を搭載した、巡航ミサイルが発射されます。その場合、邪神への効果の如何に関わらず、羽星市一帯は、地図から消えるでしょう』
徐々に、音声が途切れがちになってきた。ツピ……ツピ……と一節いっせつを区切りながら、それでも最後まで何かを伝えようとしている。
『2つ目。本機が、ハリケーン、貴方に、最後の任務を与えます。必ず、生きて、帰る事。そ、れが、最後の』
最後まで言葉を継ぐことなく、AIbotは停止した。もう何も喋る事は無い。
つい今しがたまで忙しなく点滅していた内部のLEDが、全て消えていた。
「……どポンコツが」
小笠原は奥歯を噛み締め、ようやくそれだけを呟いた。
全てのアイテムは、小笠原の手中に揃った。
何も迷う事はない。後はただ、なすべきことをするだけだ。
左右対称の形状をしたドライバを2つ重ねジャケットの上から下腹部に当てがうと、それらはしっくりと固定された。手を離し、ポケットから二本のシリンジを取り出して、ボタンを押した。
『Hustur……』『Cthugha……』
「……変身」
宣言し、それぞれのシリンジを、窪みに填め込む。
『Fusion.Hustur=Cthugha……』
シリンジ内に畳み込まれていた極小の神域が、ドライバを媒介として光の速度で展開されていく。
これは神話の矮小化などではなく、神話そのものの再現だ。ハリケーンやコンバスチョンなど、その力の前では塵芥に等しい。
小笠原の姿が光そのものの不定形へと変異する。
原子が数度振動するばかりの僅かな時間、小笠原は何者でもなく、同時に存在しうる全ての何かだった。
それは翼持つ人の形をしていた。
それは一輪の花を捧げ持つ蛇の姿をとっていた。
それは群れなす灰鼠であり、双頭の猟犬であり、塔であり、歯車であり、名状しがたい何かだった。
2つのシリンジを中心に発生した眩い光が螺旋状に絡み合い、壁や床を通り抜け上昇していく間にも小笠原には意識があった。
地下室を去り際、ボロボロになったD‐4と目が合った気がした。その視線に込められた万の思いを、小笠原は確かに託されたと感じた。「後は頼んだ」と。
言葉は要らない、それだけで十分だった。
光は尚も、上昇を続ける。