外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
時刻は既に20時を回っている。春先とは言え、まだ夜は冷える。
室内との気温差に2人の身は自然と竦んだ。どこかで犬が遠吠えをしている。
「何か大変な事に巻き込まれたのう」と言いながら、小笠原の顔から深刻そうな様子は覗えない。鼻先にぶら下げられた札束と変身時の万能感、そして生来の楽天的気質により、殆ど何の危機感も抱いていなかった。
「ほんと、そうですよね……」
対して甲斐の方は、素直に困り顔だ。ののちゃんに何て言おうかな、とこぼしながら頭を掻いている。
「毎朝定時出勤て、サラリーマンみたいや。おれ生まれて初めてやわ」
「そう言えば……」小笠原さんの勤め先ってどこなんですか、と訊こうとして甲斐はすんでのところで思いとどまった。
(さっきヤクザだって言ってたじゃないか……)
聞いたところでとんだ藪蛇になりかねない。もの問いたげな小笠原に向かって、甲斐は慌てて「あ、いや、僕は街のジムで水泳のインストラクターをしてまして……」としどろもどろに言葉を濁した。
「へえ、どこの?」
「えっと……駅前のとこです。商店街とは反対側の」
「あぁ、あっこか。ずいぶん大手やないの」
見た目通りの堅気さんですな、今後ともよろしゅう、と特に興味もなさげな小笠原は、それきり返礼のように自分の事を話すことはせず、甲斐もすっかりビビってしまって詮索など出来ないでいる。
「あ、そや。ここで会ったのも何かの縁やな」と言って懐から名刺を取り出す。
光沢のある黒塗りに、白抜きで店名と簡単な地図が描かれていた。
「おれ、ここのバーに詰めとるんやけど、良かったら遊びに来てんか。おれの紹介やいうたら安うなるさかいに」
ありがとうございます、と口では言いながら甲斐は極めて曖昧な笑顔でそれを受け取った。
(絶対にぼったくりバーだ……きっと、会計を渋る客を殴って脅して生計を立ててるんだ……)
正解である。
「じゃ、僕はこれで」
甲斐はぺこりと頭を下げた。
「彼女が家で待ってるので。また、明日よろしくお願いします」
「おう、そいじゃの」
ひらひら、と小笠原は手を振る。
――もしもし?
「おう、おれや。今仕事終わったところや」
――お疲れ様、兄ちゃん。
「もう飯は食ったか?」
――ううん。兄ちゃんの分も作って待ってるんだけど……
「ほうかほうか。今日の飯はなんや?」
――今日はね、鮭焼いたのとお味噌汁とご飯だよ。あとお新香。
「よっしゃ、今から帰るさかいな。飯食ったら、どっか遊びに行こか?」
――え!? もう八時過ぎだよ……
「……まあ、ええか。それよか、酒買うといてくれ」
――うん。何飲みたい?
「せやな、アサヒスープァードゥルァーイ、やな。ようさん給料もろたし、偶にはちゃんとしたビール飲まないかんのう」
――分かった。買い置き無いから、今から買いに行ってくるね。入れ違いになっちゃったら、ごめんなさい。怒らないで……
「はっはっは。怒らへん怒らへん」
甲斐は気が重かった。自宅アパートのドアの前で溜息と共に立ち尽くすことしばしである。
小笠原と別れてからしばらく、恐る恐るスマートフォンを見てみると、ののからのメッセージが何件も届いていたのだ。
そのどれもが、急に姿を消した甲斐の身を案ずるそれだった。
正直なところ、今の今まで連絡をする暇もスマートフォンを確認する余裕も全くなかったのだが、心配を一方的にかけてしまった以上、非は自分にあると甲斐は感じている。
(きっと怒ってるだろうなあ……)
だが、帰らない訳にもいかない。意を決して鍵を開け、「ただいま……」と声に申し訳なさを滲ませながら玄関に忍び入った。
でんっでんっでんっ、と案の定怒りを足音に込めてののがリビングから続く廊下を歩いてくる。
「遅くなって、ごめんね」
「遅い!」と、甲斐の謝罪に被せる様にののが怒りをぶつけた。
「ごめんって!……た、ただいま」
腕を組みこちらを睨め上げるののの眼を、とてもではないが直視できなかった。甲斐の視線が一層下を向く。
「もー……今暖めるからぁ」
ののお手製のハンバーグの事だろう。してみると、怒りはそれほど深くは無いようだった。つられて甲斐の口調もやや軽くなる。
「ありがとう。ハンバーグ、楽しみにしてたんだ」
思い切って視線を上げると、同い年の恋人の、怒り顔が目に入った。眉を寄せ、頬を膨らませている。だがそこは長年の付き合い、甲斐にはその怒りの程度が読み取れた。
(良かった。そんなに怒ってない……)
「まあ、俊亮よりは上手に出来てないんだけどぉ」
そう言うと、ふいっと踵を返してリビングに戻る。どうやら料理が思ったようにいかなかった気まずさもあっての態度らしい。
「そんな事ないって」と言いながら、慌てて靴を脱ぎ、後を追う。
「もう、食べてから言ってよね、そういうのはさ」
「美味しそうにできてんじゃん」
ダイニングのペンダントライトが、暖色でテーブルとその上のプレートを照らしていた。
温め直されたハンバーグは綺麗な小判型で、焼き色も綺麗に付いていた。付け合わせのポテトサラダは少し水気が多い気がするものの、一緒に和えられたキュウリとリンゴが所々覗き食感の妙を期待させる。
あのね、美味しそうな面を表にしただけ……とののは口の中でごにょごにょ言ってから、
「いいから、早く食べて食べて」と急かした。
「ののちゃんが作ってくれたものなら何でも美味いって」
ダイニングテーブルの上には、同じものがもう一皿あった。そちらはやや小ぶりなハンバーグが載っている。ポテトサラダの嵩も一回り小さい。
「ごめんね、待っててくれたんだね」
「まあね、一緒に食べた方が美味しいじゃん」
「ありがと……じゃあ、いただきます!」
「いただきまぁす」
ののの言う通り、ハンバーグは下の面が焦げていて、ざらっとした舌触りと苦味があった。そして濃いソースの味でそれを誤魔化そうという涙ぐましい努力の跡が感じられた。
(味が濃い……)
「……美味しい?」
先ほどまでの気炎は何処へやら、ののがこちらを覗い見る。
「美味しい美味しい」
本心だった。慣れない料理で疲れた上に、連絡もなく帰りの遅くなった自分を夕食に手を付けることなく待っていてくれた恋人の手料理がもたらす幸福感が、甲斐を満たしていた。
「……ちょっと、味が濃いかもしれないけど」と軽口を叩く余裕さえ生まれる。
「だよねぇ……別のにする?」
「ううん。美味しいよ」
「なんか、ありがと」
蓋を開けてみれば、いつも通り笑顔に満ちた穏やかな食卓だった。
「あぁ、でも私も俊亮みたいに料理が上手だったらなあ」
「じゃあ、今度一緒に練習しようよ」
「えっ、ほんとに?」
「うん、付き合う付き合う」
「じゃあ、その時は何練習しようかなあ……」
「何作りたい?」
「俊亮は何食べたい?」
「うーん、そうだなあ」と腕を組んでしばらく考えてから、
「肉じゃが食べたいなあ」
「私もおんなじこと考えてた!」
と弾ける様にののが笑った。つられて甲斐も口元を綻ばせる。
「じゃあ、次は肉じゃがだね」
「うん!」
「でも、しばらく忙しくなるかもしれない」
「そうなの? ジムって今繁忙期だっけ?」
「いや、そっちじゃなくて」
何と説明したものか、結局何も考えてはいなかった。仕方なく口から出るままに真実をぼんやりぼかしたまま告げる。
「今呼ばれてたとこ、でさ。警察なんだけど。ちょっと事件があったらしくて、捜査に協力するようにって言われちゃって……」
少なくとも、嘘は付いていない。
「何それ何それ、大丈夫?」
「うーん、大丈夫だとは思うんだけど」
「じゃあ、その仕事が落ち着いたら、一緒に肉じゃが作ろ?」
「うん」
尽きぬ語りが、食卓に花を添えた。
小笠原にとっても甲斐にとっても、密度の濃い一日がようやく終わりを告げようとしていた。
極力普段通りの生活を送れ、と頼佳は言った。そして、両者ともに今こうして日常への帰還を謳歌している。
しかし、普段通りの生活を送る事が、そのまま日常生活への帰着をは必ずしも意味しない事に、二人はまだ気付いていない。
その変化が、残酷なほど不可逆なものであることにも。