喫茶店は、警察署からも徒歩圏内にあった。
「入信希望の振りをするんだから、当然偽の警察服じゃなくて、このままの服装ですよね」
「当たり前やんけ」
甲斐が言いたかったのは、まさにその服装の事である。チノパンにオックスフォードシャツという無難な格好の甲斐はともかく、ストライプスーツに開襟シャツという小笠原コテコテののスタイルが、入信希望者と言って果たしてすんなり受け入れられるかどうか。
「とにかく人生に疲れたような顔をして行ったらええんやろ」
「……まあいいや。僕は、そうですね、大切な人を守りたくて来たる日に備える、みたいな感じで話しますよ」
「ええやん」
あ、そう言えば、と甲斐は手を打った。
「報告はしなくていいんですかね?」
「誰に?」
「上官に」
『ジャックのことですか? 繋ぎますので、お待ちください』
今ネットワークを介して呼び出しているのだろう、しばらくの沈黙の後、AIbotのスピーカを通して『私だ』という頼佳の声が聞こえた。
現在の状況と、これから体験入信という名の潜入に向かうと甲斐が告げるも、『ご苦労、行ってこい』という簡素極まりない返答が返ってくるのみだった。
「なあ、姐さん」
『作戦中はジャックと呼べ、何だ』
「今日のこれ終わったら、一緒にメシでもどうでっか?」
何も言わずに通信が切れた。小笠原はけっ、という顔をした。
「お高く止まってくさる」
「小笠原さん、よくあんな怖い人とご飯行こうと思いますね……」甲斐は呆れ顔だ。
いくら喫茶店とはいえ面接をしながら食事もなかろうと、道すがらにあった牛丼チェーン店で食事を済ませた。しかし14時にはまだ少し早い。まだちょっと時間あるやんとパチンコ店に吸い込まれそうになる小笠原を甲斐が懸命に引き止め、結局は駅前のゲームセンターで適宜時間を潰すという線で手を打った。
小笠原は一直線に麻雀ゲームのコーナーに向かい、甲斐はリズムゲームの筐体を冷やかして回る。なんだかんだと場を満喫する2人だった。結局、指定の店舗に足を運んだのは14時を少し回ったあたりだった。
甲斐が先頭となり、もう店を後にしていたらどうしようと内心ビビりながら正面ドアをくぐったが、それはすぐに杞憂だと知れた。
ゆったりとしたテンポのジャズが心地よい音量で流れる店内に客の姿はまばら、その中でひらひらした装飾の目立つ黒いゴシックファッションに身を包んだ明日香の姿は、入り口からでも一目でそれと分かった。
他に面接希望者が幾人も来ているだろうと身構えていたが、どうやらそういった来客は皆無だったようだ。明日香は1人きりでラップトップ型のパソコンに向かい、動画の編集か何かだろうか、作業に熱中している。
小笠原と甲斐は入り口でたまたま鉢合わせた他人同士、という線で予め打ち合わせは済ませてある。AIbotも店の外で待機させている。逸る気持ちを押さえてゆっくりテーブルに近づくと、顔を上げた明日香と目が合った。動画と同じように濃色のリップを塗り、右目に医療用の眼帯を付けている。
もの問いた気な明日香に、「どーも、入信希望ですー」といかにも悩みのなさそうな声で小笠原が告げると、彼女の顔に喜色が浮かんだ。
「久しぶりのお客さんね」と言ったが、もしかしたらそれは見栄で、実際は自分たちが初めての来客なんじゃないか、と甲斐は何となく直感した。
2人に椅子を勧めてから、改まった態度で明日香は切り出した。
「動画でも言った通り、私たちは本気で救われたい、本気で世界を変えたい、そんな人たちを求めているの。冷やかしや遊び半分の人はお断りしています」
きっと、そういった心無い反応も今までに沢山あったに違いない。
「悪く思わないで欲しいんだけど、そんな人たちには教会の場所は教えられないの。だから、貴方たちの熱意を聞かせて。入信の、その動機を」
「あ、こっち灰皿ね」
真剣さの欠片も感じられない能天気な態度で、小笠原は店員に手を振っている。睨みつける明日香の視線に気付いてようやく向き直るが、悪びれた態度を取る風でもない。
「あ、動機でっか? そやなあ、」
ほえー、といった感じで言葉を紡ぎ出す気配のない小笠原。
(何が『人生に疲れた顔』だよ……打ち合わせは何だったんだ……)
呆れている場合ではない。役立たずはこの際放っておくしかない、と甲斐は慌てて話の接ぎ穂を手繰った。
「あの、僕には付き合ってる彼女がいまして……その、動画を観て、とても不安になったんです。人類がどうとか大それた事じゃないんですけど、自分の大切な人だけは守りたいっていうか……その為なら何だってします」
つっかえつっかえの不器用なスピーチだった。アドリブ力の無さで言えば小笠原といい勝負と言えたが、半ば本心から出たたどたどしい言葉が、却って明日香の心には響いたようだった。頬を紅潮させてうんうんと頷いている。
「貴方の熱意、十分伝わったわ」
今にも甲斐の手を握らんばかりである。これが面接と言うなら及第間違いなしの反応に、甲斐はほっと胸をなで下ろした。
お次は問題児である。
「あ、おれ?」
早くも2本目の煙草に火を点けている。甲斐は頭を抱えたくなった。咥えた煙草をぴこぴこ上下させ、不遜極まりない態度で小笠原は切り出した。
「見ての通り、おれは煙草もそれに酒も大好きで、よう止めれませんねん。弱ぁい弱ぁいこの心をね、救ってもらいたくて入信させて貰おかなと。あ、神さん? 神さんがいはるの? あー信じます信じますぅ!」
特殊詐欺師でももうちょっとマシな演技をするだろう、説得力皆無のお芝居を甲斐と明日香は呆れ顔で聞いている。
「あなた、本当に神様を信じるつもり、あるの?」
そんな事を言われても、そもそも話すのは甲斐に任せっきりにするつもりだったのだ。その時点で「入り口でばったり出会った他人」という設定は破綻しているのだが、本人はそれに気付いていない。
取りあえず、てめえやる気あんのかという質問にはにっこり笑って「イエス!」と答え、しかる後煙草をひと吸い、上を向いて盛大に煙を吐き出す。
空腹で死にそうな時にとても不味い食べ物を供されると人はこういう顔をするのだろう、という表情を明日香は浮かべている。
「……まあ、不安はあるけれども、ある意味素質はあるのかもしれないし、推薦はしておくわ」
(こんなんでいいんだ……)
頑張って演技をした自分が馬鹿みたいで、少しショックを覚える甲斐。
「おおきに。迷える子羊を導いておくんなはれ」
「そうね。そうね。それも私たちの仕事ですもの」
半分ぐらいは自分に無理やり言い聞かせるような口ぶりである。
「貴方みたいな適当に生きてきたって人たちにも、私たちの神は救いの手を差し伸べて下さるわ」
「よろしゅう頼んまっさ」
「今日はこれから、時間はあるかしら? 是非教会に案内させてほしいの。シャイン牧師にも紹介したいから」
「ぜひお願いします」と甲斐。
「話が早うて助かりまんなあ」
どうやら1人とも面接には合格できたようだった。甲斐はともかく、小笠原も合格と言う事は、余程人材が不足しているのは間違いないのだろう。甲斐は自分の仮説がどんどん補強されていくのを感じた。
さて、喫茶店を出て向かったのは徒歩で駅とは反対方向に10分ほど歩いた住宅街。その片隅にある公民館のようなこぢんまりとした施設である。2階建てで、外観はレンガ調のシックな造り、動画でモザイク越しに映っていたのはこの場所だろう。
「着いたわ。ここが教会よ」
明日香が鍵を取り出しているのか背をこちらに向けている隙に、AIbotが空中に頼佳からのテキストメッセージを投影した。緑を基調としたゴシック体が真昼間の路上に浮かぶ。
『そちらの状況は捕捉している。ビンゴだ。ここが我々の探していたアジトの一つだ。本拠地ではないが、この勢力に関する資料が二階のどこかにあるはずだ。上手く潜入し、何としても資料を持ち帰れ。以上』
「何としてでも、ですって。しくじったら八つ裂きにされそうだな」小声で甲斐がこぼす。
「姐さん強面やからのう。おれはあんな性根のきつい女はゴメンや」
「よく食事に誘いましたね……」
ようやく明日香が鞄の中から見つけ出したカードキーで正面玄関の扉が開き、2人は中に招き入れられた。
応接間に通され、ソファに並んで腰かける。合成革の安っぽい造りだが、季節の割に妙に湿ったような感触があった。
待ったのはほんの数分程、上品なノックの後、柔和な笑みを湛えた細身の初老男性がゆるりと入室してきた。動画でも紹介された、シャイン牧師その人だ。
「エージェント・ミステリアス。どうされました?」
「お呼びだてしてすみません、リヴァレンド・シャイニー。紹介したい人たちがいるんです」
どうやら教団内では、お互いをニックネームで呼びあっているようだ。してみると、シャイニーと言うのも本名ではないのかもしれない。牧師の彫りと皺の深い顔立ちや生白い肌の色からは、人種も定かには読み取れないのだが。
牧師は明日香に軽く紹介された2人を見て一層笑みを深めた。しかし、それは口角が上げられただけのもので、元より糸の様に細められた眼からはどういった感情も読み取れない。
「初めまして、協会ではシャイニーと呼ばれています」
よろしくお願いします、と言いながら右手を差し出す牧師。
「甲斐です」
こちらこそよろしくお願いします。立ち上がり、頭を下げて握手に応じる甲斐。ふと、その表情がやや怪訝な色合いを帯びた。
「ども」
小笠原の方は左手をポケットに突っこんだまま、不遜そのものの態度でおざなりに手を差し出す。手指の先だけを相手に握らせるような、やる気の感じられない対応だ。
握手の刹那、小笠原も牧師の掌が伝える感覚に違和感を抱いた。妙に冷たく、湿っている。幼少期に魚市場で見たトロ箱の中で蠢く生きた蛸、あれを好奇心混じりに突いた時の感触を思い出す。
それについて深く考える前に、牧師の手に力が籠った。
「なるほど。なるほど」
老人の口角が更に上がった。不自然なほどに。それを眼前にした小笠原の背筋が粟立つ。人間の表情筋が可能とする動きを、明らかに逸脱している。
お手柄ですよ、エージェント・ミステリアス。そう嘯く声すらも、奇妙に歪み、震えるように響く。
「当たりだ。害虫です」
本能がけたたましく発する危険信号に、小笠原は咄嗟に手を振り払い飛び退った。浅く手を握られただけの格好であったのが幸いした。
握手を求めたままの姿勢で、牧師の身体の各部がみるみる崩壊していく。
それは正確な表現ではないだろう。崩壊しているのは人としての輪郭で、実際の所は変形だった。それも牧師が身に纏うガウンを巻き込んで。いや、より正確に言えば、彼の身に纏う衣服すらも彼の肉体を構成する一部であり、今それが元の姿に戻ろうとしてる。
組織が剥がれるように崩れたその奥からは黒いゼラチン質の表皮が覗き、室内照明をぬらぬらと照り返す。
崩壊はあくまで一時的なもので、すぐさまそれは膨張に転じた。今や黒い粘液を纏うゼラチンは牧師の身体のラインから歪に突き出し、泡を吹くようにそれ自体の体積を増している。何よりおぞましいのは、ゼラチン質の表面に無数の眼球が生成されていくことだ。鋭い切れ込みを思わせる牧師の眼とは対照的な、瞼をむしり取った様な真円の目玉が幾つも作り出され、大小さまざまな目玉は皆一様に小笠原と甲斐を凝視している。
「これは……」
「なんやこれ……」
昨日のローブの男たちが、まだ可愛く見える。いっそ2人の変身後の姿だってこれに比べれば随分まっとうな姿と言えるだろう。正真正銘の異形、先鋭的なシュールレアリスム絵画からそのまま飛び出してきたような悪夢の体現は、小笠原にも甲斐にも、強烈な精神的打撃を与えた。有体に言えば、一種の発狂状態である。
「貴方たちだって、私を騙そうとした……お互い様よ!」
そうでしょ、と明日香は誰にともなく言い訳をするように喚いている。だが、当然2人はそれに応えるどころではない。
牧師の右肩のあたりが大きく泡だつように膨れ上がった。あぶくの半ばあたりが横にするりと裂け、剥き出しのエナメル質の歯と紅い舌がその中から覗いた。泡は更に膨張速度を増し、牧師の身体は動かぬまま、巨大な口腔が小笠原の身体を食い千切らんと迫った。
理性的な思考が停止した小笠原がそれを避け得たのは、殆ど偶然であると言っていい。死角である左方向から迫りくる凶刃を、それと認識するより先にステップバックで辛うじて躱した。
「おや、さすがに反応が早いですね」
牧師が、嘲笑った。その声は右肩に発生した巨大な口腔と元々の口両方から同時に発せられていた。口腔内や声帯の構造も変質しているのだろう、それらは人の声というよりは、金属的な不協和音に近い。
「リヴァレンド・シャイニー、約束は果たしたわ。これで私の妹は……」
「ああ、そう言えばそんな話でしたね」
では、彼女を返しましょう。そう言えば何処だったかな。かつて牧師の姿であったそれは、愉悦に歪んだ声で空とぼける
「ああ、ここだ」
わざとらしくガウンを捲ったそこに現れたのは、人の顔だった。眼孔や口から黒いゼラチン質が溢れているそれは、間違いなく女性の顔、それも断末魔の苦痛に歪んでいる。ああ、うう、と声にならないうめき声をあげている。
「咲良……」
明日香は顔から血の気が引いている。察するに、捕らえられた妹を助けるために要求された人身御供を差し出すつもりだったのだろう。だが今や、それも最悪の形で裏切られた。
状況として最悪なのは、まんまと陥れられた二人もだった。特に甲斐は、牧師の服の下から現れた女性の顔に、どういった思考回路を経てか、ののを重ねていた。
「の、ののちゃん……!?」
完全なる恐慌状態である。だが、それを咎めんとする小笠原の精神状態も完全に常軌を逸していた。
「何を言っとるんや、しっかりせい。殺すぞ!」
あろうことか、全力の右ストレートを甲斐の頬げたに見舞った。
「うご!」と呻いて、甲斐は大きく体勢を崩した。
しかし完全な不意打ちであったとはいえ、鍛え込んだ身体は流石に頑強であった。辛うじて踏みとどまる。
「何すんですか!?」
「じゃかましい、何を眠い事言うとるんや眼えおっぴろげんかい。殺すぞ!」
「ちょっとちょっと!?」
状況を見失った小笠原はなおも相棒に殴り掛かり、甲斐はそれをほうほうの体で躱す。今ここにいる筈のない恋人の顔を幻視するという発狂状態からは脱したものの、今度は予期せぬフレンドリーファイアを躱すのに精いっぱいである。
牧師は嗤っている。滑稽に動き回る男達、そして言葉を失い青ざめる女を見下して。
おやおや、と牧師は芝居がかった口調で嘲笑する。
「妹さんは、貴方の元に帰りたくないそうですよ。そんなに落ち込まないでください、後で会わせてあげますから」
大小2つの口で失笑すると、「おい、こいつを連れて行け」と今までの慇懃な口調をかなぐり捨てて誰かに鋭く命じる。
現れたのは、魚と人の合いの子のような姿をした異形だった。人とさほど変わらぬ大きさながら、青緑色の体躯に光る鱗を敷き詰め、背中と二の腕に棘の付いたヒレを屹立させている。魚人は命じられた通り、絶望に崩れ落ちる明日香を羽交い絞めにして奥の部屋へと手際よく抱え去った。
今や、牧師と牧師の帰属する組織は、人面の奥に隠していた本音を全く隠そうとしていない。『後で妹に会わせてあげる』。事ここに至って、それは婉曲表現ですらなかった。
さて、とかつて牧師の仮面を被っていた怪物は、未だ狂気の残滓を瞳に残す2人に向き直った。
「罠とも知らず、釣り糸に見事に引っ掛かってくれましたねえ」
どう贔屓目に観てもうさん臭い新興宗教、そして更に輪をかけて怪しい怪情報に引っ掛かるのはそれが嘘でなく真実と知っている者だけ。いきなり当たりを引いた、と甲斐は言ったが、その言でいえば当たりを引いたのは取りも直さず教団側であるとも言える。
「では、駆逐といきましょうか」
「神が助けてくれるんじゃないんですか!?」と甲斐。
こいつ何を寝言を言うとるんじゃ、と小笠原は目を剥いたが、これは甲斐の粘り腰ともいえる足掻きである。正気は既に取り戻している。状況も把握している。その上で、数瞬だけでも時間を稼ぎたかった。
それは甲斐にとっては安全圏まで逃げる時間、小笠原にとっては反撃の体勢に移るまでの間隙、どちらにせよ2人にとって喉から手が出る程欲しいものだ。
だが、メリケンサックを素早く填める小笠原を尻目に、最早半身を黒い粘膜で覆った怪物はせせら笑う。
「貴方は後でじっくりと……ほら君、遊んであげなさい」
どこから現れたのか、魚人が小笠原の目の前に立ちはだかった。今しがた明日香を連れ去ったのと同じ個体のようにも見えるが、定かではない。
『任務更新:未確認生命体の撃破。直ちに変身してください』それまで存在感を消していたAIbotが唐突に指令を出した。
これ痛いから嫌なのに……とこぼしながらも、甲斐はポケットからシリンジを取り出した。この歳になって注射も苦手だというのに、このシリンジの意匠は余りに注射器に酷似しているし、飛び出る針の太さといい数といい、ビジュアルの凶悪さは実際の注射器など足元にも及ばない。
『Combustion!!』
しかし背に腹は代えられない。身体を蹂躙する苦痛を先んじて味わったかのように、のけ反りながら二の腕に突き刺して叫ぶ。
「変身!」
瞬間、地獄のような炎と熱風が甲斐の姿を覆い隠した。
小笠原も、腹を括ってシリンジを取り出しそうとした。が、確かに懐に仕舞ったはずの金属の筒が、どこにも見当たららない。
「お探しはこちらかな?」
ねっとりと粘着質に嗤いながら、牧師の身体から伸びた触手の1本がシリンジを見せびらかす様に振った。
「これを使われると、面倒ですからねえ」
「……クソったれ」と小笠原は顔を顰めて悪態をつく。
「馬鹿! もう馬鹿!」何簡単に命綱手放してんすか、と甲斐が紅蓮の炎の向こうから小笠原を罵倒した。
「やかましい! 殺すぞ!」
『任務更新:シリンジの奪還を追加』
「まずはコイツを刺身にしてからや。ぶっ殺す!」
メリケンサックを填め、両の拳を構える。脚は肩幅に開き、軽く膝を曲げて身体を上下に揺する。小笠原のいつものファイティングポーズだ。
ここに期せずして、コンバスチョン対異形の牧師、生身の小笠原対魚人という図式が出来あがった。
間合いを維持し鈎爪を突き出したまま攻めあぐねるように対峙する魚人。それを隙と見て、最も先に動いたのは小笠原だった。ステップで自身の射程距離に踏み込むや、現役時代さながらの鋭いワンツーを放った。
距離を測るジャブに、本命の腰の乗った右ストレート、そのどちらもが魚人の鼻面にクリーンヒットした。
みっちり詰まった肉を叩く感触と、鈍い音。
手応えあり、と思ったのも束の間、よろめきながらも魚人が鈎爪を横に薙いだ。
爪をかい潜り、再び間合いギリギリまでステップバックする。
魚人の頭部、メリケンサックの当たった個所は鱗が剥げて赤い血が滲んでいたが、その表情や仕草からダメージの程は窺い知れない。
再度牽制を兼ねてしなるジャブを数発。
しかし、魚人も黙って打たれてはいなかった。突進しては滅多矢鱈に両腕の鈎爪を振り回す。
単調な攻撃であるが、1本1本がナイフのような鋭さの爪である、まともに当たれば致命傷になりかねないし、かすり傷で済んだとしても爪に毒がある事だって考えられる。どうしても距離を取らねばならず、牽制以上の効果を期待できる程腰の入った打撃を打つチャンスが、中々ない。
(効いとるんかどうかもよう分からん)
クソが、と再度心中で吐き捨てる。
このまま長期戦になれば小笠原の不利となるのは間違いない。
その大きな原因は、彼の隻眼にある。
現役を退く直接の原因となった左目の視力喪失は、小笠原の最大の武器であった距離感を奪った。パンチ力にも打たれ強さにも決して恵まれず、しかし希代のカウンターパンチャーとして幾多の難敵を下し将来を期待された青年は、風切り羽根を捥がれた渡り鳥の如くあっさりリングを去った。
距離感が無ければ、当然被弾も増える。引退後も数知れず殴り合いの機会はあったが、自分でも情けなくなるぐらいに相手のパンチが避けられなくなった。現役時代の小笠原を知る者がその姿を見ていれば、全盛期の面影のまるでない無様に目を覆った事だろう。
(それでも、おれにはこれしかあれへん)
肩でフェイントを1つ。
単純だが、警戒を過剰にした魚人がそれに反応し、右の鈎爪を空振った。
小笠原はその隙を縫って懐深く踏み込んだ。革靴の堅い踵で、魚人の素足を踏み砕く。効果の程など確認はしない。そのまま左のショートフックをこめかみにぶち込み、泳いだ身体を追うように放った右のアッパーが強かに顎を打ち上げた。
床へ大の字に倒れゆく魚人。その身体に素早く馬乗りになる。小笠原は左手で魚人の肩を押さえ、右拳で何度も何度も執拗に頭部を殴りつけた。
流石に息の切れた頃になって、身体を放す。見下ろした先にあるのは、頭部の輪郭がぐちゃぐちゃに崩れた魚人の姿だ。断続的に足が痙攣している。どう見ても死んでいた。
ようやくといった心持ちで、息をついた。
(そういや、あっちはどうなった?)
振り返るとそこにあったのは、半ば牧師に飲み込まれ、もがく甲斐の姿だった。