『長くは保たない』というハリケーンの捨て台詞は、掛け値なしに真実だった。変身を経て耐久力が大きく向上しているとはいえ、この業火がもたらす高温と酸欠状態はハリケーンの体力を溶かす様に減らしていった。先ほどの戦闘の影響も尾を引いている。その限界は、ハリケーンが強がってみせる以上に間近まで迫っていた。
扉はどれも半ば延焼しているうえに閉ざされ施錠されており、破壊し先に進む度、面白いぐらいに消耗していく。
(あかん……ホンマにもうヤバい)
2階へ続く階段へ、ようやく辿り着いた。吹き抜けの天井は半ば崩れ落ち、梁が剥き出しになっている。今すぐ駆け抜ければ無事に済むかもしれないが、帰りは絶望的だろう。
それでも、ハリケーンは躊躇しなかった。例え復路が閉ざされようが、窓を突き破って外に飛び出せば、どうということはない。瞬く間に階段を駆け上がり、折り返しとなる踊り場の壁を蹴って進行方向を反転、殆ど蹴り脚の反動だけで一気に2階へ到達した。
2階に上がると、向かって左方向に建屋を横断する長い廊下があり、半ば程に3体の魚人がたむろしていた。一見したところではハリケーンを待ち構えているようにも、ただ逃げ遅れたようにも見える。
部屋に通じるドアは手前側に1つ、1つ。魚人の群れの向こう側にさらに廊下を挟んで1対。
ハリケーンは瞬時に決断した。
まずはアイツらを殺る。
どう考えても、悠長に身を隠してやりすごす暇は無かった。
ハリケーンには風を操る能力がある。それは知っている。だが、今この状況下において建屋内で風が巻くことは、取りも直さず空気の攪拌と火災燃焼の更なる活性化に繋がる。だから敢えて控えていたのだが、もう限界だった。
手足を動かす延長線上のような本能的な操作で局所的な気圧差を作り出し、自らの背を押す。
ただの1歩で長い廊下を半ばまで横断し、その動きが内包する膨大な運動量をそのまま拳に乗せて、先頭の魚人に叩き込んだ。
不幸にも標的となった魚人は、廊下の端から風が巻き起こった事にも気づかないうちに、胴体中央へ交通事故レベルの衝撃をまともに受けた。
これで1体。後の2体は左右のコンビネーションで1発ずつ、という皮算用だったが、右拳が深々と突き刺さった魚人は身体をくの字に曲げて後方にすっ飛び、後ろの2体を巻き込んでダウンした。3体とも、そのままピクリともせずに倒れ込んでいる。
(とっくに焼き魚になっとったか)
だが、ハリケーンには格好をつける暇も残されていなかった。今の一撃で、残った体力が底を付いてしまった。もうなりふり構ってはいられない。
「もう限界や! おれは逃げるぞ!」
業火に負けじと大声でがなり立てた。
意外にも、その声に対する反応は早かった。ドスドスと重量感のある足音を立ててコンバスチョンが廊下を駆け上がる音がした。廊下に出て、こちらに気付くや駆け寄ってくる。
その両腕の中には、くったりと体を預ける明日香の姿があった。どうやら意識は無いようだ。赤熱し、触れる物を皆炎熱せしめるはずのコンバスチョンの体表が、この時は赤黒く沈んだ色に変色していた。どうやら器用にも体表温度を操作して、明日香が火傷を負わない程度に調整しているとみえる。
「後は僕が! 代わりにこの人をお願いします!」
そう言うと、コンバスチョンは明日香の身体をハリケーンに押し付けた。その言葉に恩着せがましい響きは全くなかったのだが、ハリケーンは舌打ちをひとつ、
「上の部屋は全く調べとらん……これで貸しやと思うなよ!」
完全に捨て台詞である、廊下の端まで駆けると、明日香を抱きかかえたまま庇うような体勢で窓を突き破り、空中に飛び出した。
そのまま階下に着地したところで何ほどのダメージもなかっただろうが、残る力を振り絞って上昇気流を生み出し、降下の勢いを殺してからふわりと着地した。
(なんやねん……正義の味方ちゃうんやぞ、おれは)
そしてそこで、ハリケーンは目を疑う光景を見た。
一方のコンバスチョンは悠悠自適である。明日香を抱きかかえる為に意識して抑え込んでいた体表温度も元通り、今や教会家屋全体を包み込んでいる炎すら、そよ風のように心地良い。体力は底が見える程の微々たる量しか残っていないが、それも却って意識の集中を促した。
勘が冴えたのかあるいは偶然か、四つある部屋の一つ、廊下の奥側の部屋がいきなり当たりだった。
いかにもそれらしい、この御時世には珍しいほど巨大なタワー型のコンピュータが机上に鎮座し、その周りには何に使うのか見当もつかない、配線類の剥き出しになった怪しげな機器類がいくつも並んでいる。紙ファイルや書類が戸棚に詰め込まれ、机の空きスペースに積み上げられていた。幸いにも、炎はまだこれらの資料類を舐めるには至っていない。
この業火の中、律儀に付き従っていたAIbotがビープ音を鳴らして反応した。音もなく前に出てコンピュータに接近し、胴体下部からケーブルと端子を伸ばすとアームを操作して接続した。
『データ収集中……データ収集しました。最重要機密情報の収集完了。脱出しましょう、ここは用済みです』
「……何かちゃっかりしてるよな、君」
『意味不明、かつ意図不明の発言』
なんだか緊張感の削がれてしまったコンバスチョンは溜息をひとつ、部屋を後にした。
ハリケーンが飛び出した窓から顔を突き出すと、意外なことに階下に飛び降りたままの格好のハリケーンが見えた。どうも様子がおかしい。訝りながらも、コンバスチョンは幾分不器用に窓枠を飛び越えた。
下に降りて、違和感の正体が分かった。
それは、野次馬の存在だ。
思い返せばここは住宅街の一角で、しかも時刻は夕刻、仕事帰りのビジネスマンや買い物帰りの主婦が絶えず往来する時間帯である。その中で突如全焼する家屋があれば、野次馬が集うのは当然と言えた。
そして何だ何だと遠巻きに見る民衆のど真ん中に、炎の照り返しを受けた異形の存在が降り立ったのだ。どこか現実味に掛ける光景と、張り詰めた空気。辺りは異様な雰囲気に包まれていた。
皮肉なことに、コンバスチョンの登場が駄目押しとなった。
集っていた野次馬たちが一斉に騒ぎ出し、その場を逃げ出した。逃げながら叫ぶのは、たった今現れた2体の怪人に対する恐怖であり、罵倒だった。
化け物。
悪魔。
死にたくない。
助けて。
誰か警察を。
民衆の中には聖書に造詣のある者もいたのだろう、2人をベリアル――邪悪で無価値な者――と決めつけた。
正真正銘のパニックの波が人足と共に去ると、蛮勇か足が竦んだか、まだ半数ほどの者が残っていた。しかしそれらも、「見せもんちゃうぞ! 早よ散らんかい!」というハリケーンの一喝に慌てて逃げ去っていく。たった数分で、先ほどまでの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
夕焼けと火事に照らされる二人の人影。炎が爆ぜ、家屋の崩れる音だけが断続的に響く。
遠くから、消防車のサイレンが聞こえた。
2人とも致命傷こそなかったが、命がけの戦闘と強行探索を経て、疲労とダメージの蓄積はピークに達しつつある。
野次馬も消え、2人だけが残されたところで、緊張の糸がついに切れた。
どちらからともなく変身を解き、二人揃って大きく溜息をつく。
小笠原の腕の中で、明日香が身じろぎをする気配があった。
瞼が痙攣し、薄っすらと目を開ける。しばらく呆然とし、それから眼球があちこち忙しなく動く様を、小笠原は黙って見ていた。
漸く自分の置かれている状況が掴めてきたのだろう、「え、あの」とひたすら言葉にならない声を発し、狼狽える明日香。喉が痛むのか、声は掠れており、何度も空咳を繰り返した。
「私、生きてる……?」
「もう、大丈夫ですよ」
なるべく安心感を誘うような優しい声色で話しかけようとした甲斐だったが、自身の意図に反して、喉から出たその声はドロドロに疲弊した者のそれだった。
「変な奴らに連れて行かれて……周りで皆死んでて……火事になって……嫌だ、何も覚えてない」
どうやら都合の良いことに、変身を解除する瞬間は見られていないらしい。あるいは、気付かないふりをしているだけかもしれないが。
「おれと、この兄ちゃんが必死こいて助けたんやぞ」
「あ、そうなの……ありがとう」
でも、自分で立てるから降ろしてもらってもいいかしら、と夕陽のもとでもはっきり分かるほど赤面しながら、明日香は懇願した。
勝手にせえ、と言葉だけは乱暴に、小笠原はそっと明日香を下に降ろした。
「ありがとう、本当に……でも、どうして助けてくれたの? 私は、貴方たちを騙してたのに……」
「ほーう、殊勝なやっちゃのう」
片頬で笑いながら小笠原が混ぜっ返す。
「妹さんを助けようとしてたんですよね。仕方ないと思います」
妹さんの事は残念でした……と甲斐は沈痛な面持ちだが、すかさず小笠原に小突かれた。妙に圧の籠った小声で窘められる。
(いらん事言うなや! ここで恩を売ってやな、きっちり情報を引き出さなあかんのやぞ)
(そんな事言ったって、聞けば知ってることぐらい話してくれるでしょ!?)
(ほう……ほな尋問開始といきまっか?)
(尋問ってあんた……)
「あの、私の知ってることなら何でも話すわ……」
小声のやり取りのつもりが、完全に筒抜けだったようだ。
「知ってることなんて、何もないけれど。私はただ利用されていただけ。でも全てを失ってしまった……」
そして、遂に感情を爆発させた。乾いた筈の涙の痕に沿って、再び涙が筋を造る。
「どうして私を助けたの!? あそこで死なせてくれれば良かったのに!」
「そんな事、言わないでください……」
激情につられたように、甲斐は泣きそうな顔をして言った。
「生きてれば良い事があるなんて、言えないかも、しれないですけど……でも、死んじゃったらそこで終わりじゃないですか。辛いのは分かります、でも駄目ですよ……そんな事言っちゃ」
一方、小笠原は素知らぬ顔で鼻をほじっている。何を眠い事抜かしとるんじゃ、とその顔に書いてある。
「まあ、死ぬって言うなら止めはせんけど。喋る事喋ってからお好きにしはったらええんちゃう?」
ただ、こっちの兄ちゃんは許さんやろなあ、と親指で傍らの甲斐を指す。
明日香の、感情の噴出は止まらない。
「貴方たちに、大切な人はいるの? もし私と同じ目に遭っても、同じことが言えるの!?」
いきなり小笠原が「何やこの女」とキレた。身内の、弟に関するネガティブな話題は、彼にとって最大の禁句だった。恐らく明日香がそうであったように、小笠原にとって弟の存在は、自らの半身以上を占める琴線だ。
長身の小笠原が、今にも殴り掛からんと距離を詰めた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
突然剣呑な空気を発した小笠原を、慌てて宥める甲斐。感情の昂ぶっていた明日香も、流石に息を呑んで後退った。
「この人は妹さんを亡くして、気が動転してるんですよ!」
明日香の方に向き直って、
「あの、知ってること、何でも良いんで、話して貰えませんか?」
「知ってることなんて……私が協力したのは、妹が攫われたから。本当は体験入信の動画もその後の動画も、私の意志で上げたモノじゃない。ああやって何も知らない人を釣り出して、貴方たちみたいな……」
言葉を切り、上目遣いにチラリと二人を覗う。
「……貴方たちみたいな、命を差し出してもいい人間を入信させてきたわ。その後どうなるかも薄々は気付いてたけど、全部、咲良を助ける為にって思ってやってきた……」
それなのに……と続けたかったのだろうが、もう言葉にはならなかった。拭っても拭っても涙が溢れて止まらない。
小笠原が舌打ちした。さめざめと泣く女を前に、気が削がれてしまった。
「そんな事言うてもなあ……敵はおれらが討ったわけやし、それでも死にたいなら、おれらの目の届かんとこで頼むわ」
「だから、何でそんな事言うんですか!?」
「あーもう、分かった分かった……ほな、ウチの店で働くか?」
唐突過ぎる上に、それは恐らく何の解決にもなっていない。
「丁度な、キャストが足りとらんとこやってん」
「店って……そんなとこ紹介するぐらいなら、僕が別のとこ紹介しますよ」
「そんなとことは失礼な。言うとくけど、労働に貴賤はあれへんのやで?」
「……一応言っておくけど、仕事に困っている訳じゃないから……動画の収益だってあるし」
おずおずと明日香が口を挟んだ。
「まだ、配信を続けるんですか?」
明日香が今回の事件に巻き込まれた大きな原因のひとつが動画配信である。妹を亡くし、自身も大変な目に遭ったその直後だというのに、それでもまだ続けるのか、と甲斐は訊いている。
「そうね……チャンネルがあんな状態になっちゃって、心配してくれてる人もいるし」
それに……と何かを決心したかのように明日香は続ける。
「そうしていれば、咲良の事を忘れないと思うから」
何もかもをかなり捨てて逃げるのではなく、ずっと覚えている事が亡くなった人間への一番の手向けであり、残された者の責務だと、そう明日香は言った。
「だから……うん、私は大丈夫」
服は破れて煤け、その顔も涙でぐちゃぐちゃだったが、大きく洟をすすりあげて、明日香はそれでもようやっと微笑んだ。
「何だか、ご迷惑掛けてしまって、ごめんなさい……ありがとう」
住宅街を出る所まで見送り、そこで明日香とは別れた。
結局、送っていくという申し出は固辞された。きっと、帰途につきながらも妹の事を思ってまた泣くのだろう、と甲斐は思った。
(きっと、時間が経てばもっと辛くなる、挫けそうになる事だってかもしれない。それでも……)
大丈夫、と微笑む明日香の強さを、甲斐は信じた。
ともあれ、今回の任務はこれで全うできた。気分を切り替える為に、甲斐は思い切り両腕を天に向かって突き上げて伸びをする。
『任務完了。お疲れ様でした。ベースへ帰投しましょう』
「ああ、そうだ。報告しなきゃな」
「うわ、だるー」
最早歩く事すら億劫なほど疲れていたが、それでもやらない訳にはいかないだろう。AIbotを通して通信で済ますことも出来なくはないだろうが、こんな所でおっぱじめる訳にも行くまい。
疲れているなら明日でいいよ、と笑顔で免除してくれる頼佳を想像しようとして、
(いや、ないな)
と甲斐は諦めた。
「ご苦労。報告を」
案の定、頼佳の第一声はそれだった。
「まあ、上々やで」
後はこのポンコツに聞いてくれや、と小笠原はAIbotを顎でしゃくる。両手はポケットに突っこんだまま、相変わらず不遜そのものの態度だ。
こいつは馬鹿か、という顔で頼佳は小笠原を見た。
慌てて甲斐が取りなす。
「あのっ! 例の動画配信者と会って、『金色の彩雲』に体験入信してきました。その、教会で牧師と出会って、えっと、人間ではなかったんですけど、その牧師が……」
「その牧師が支援者だったか」
「というか、支援者って人間ではないんですか?」
「それは興味深い質問だな。変身しているときのお前たちは、人間なのか?」
「いや、でも……今は人間じゃないですか……もしかして、あの人たちも元は人間だったとか?」
「そんな事は知らん」
「それじゃ結局、何の情報もないじゃないですか……」
頼佳は参ったと言うように溜息をついた。
「分からんもんは分からん。そもそもお前たちが知る必要はない」
人類の敵を殲滅して報酬を受け取る、それで十分だろう、とあくまで頼佳はドライだ。
それ以上は、甲斐も踏み込めない。今度は甲斐が溜息をつく番だった。
「……牧師と、その手下の魚みたいな奴らを倒しました。二階にあった資料は、AIbotが回収してくれたみたいです」
「の、ようだな」
手元の書類に目を落とす。どうやら、AIbotが回収した資料を紙に印刷したもののようだった。
「これを見てみろ」
頼佳がA4サイズの書類を束にしてバサリと投げて寄越した。テキスト形式のファイルをそのまま印刷したような飾り気のない文章の羅列の中、「大いなる神の復活」という見出しにマーカーが引いてあった。
甲斐は手に取り黙読し、小笠原が横から首を伸ばして覗き込んだ。さほど長い文章ではない、すぐに読み終えることが出来た。
“我らの神の復活の条件に必要なのは、多くの生命体の「精神力」と呼ぶべきものだ。これが一定量集まった時、大いなる我らが神は顕現する。収集の対象は誰でも良いが、大いなる神を信奉する者、神に関係する種族からのものがより純度が高く望ましい。神にすべての精神力を献上した者は永遠の安寧を得、安らかに眠る。”
「つまりどういうこっちゃ?」首を捻る小笠原。
「分からんのか。『邪神復活の条件は精神力の奪取と蓄積』、これは霊憑き病の病状に他ならない。幻覚、幻聴に苦しみ、やがて全ての精神力を吸い尽くされた時には目を覚まさなくなる」
これで合点がいったな、と頼佳は言うが、その顔はまるで晴れない。
「他にも有用な情報は出てくるだろう、内容の精査はこちらでしておく。本日は解散だ。また明日、ここに来い」
「なあ姐さん、見ての通り俺らボロボロなんやけど」
小笠原の言葉は自虐でも謙遜でもない。服は煤に塗れあちこちが解れている上に、露出している箇所も打身生傷だらけだった。特に甲斐が酷い。左の頬っぺたにでかでかと青タンがある。
「せめて相棒の方だけでも手当したってや」
「それは構わんが」
小笠原をしげしげと見る頼佳。
「そんなに大切な相棒なら、殴るのは止めておけ」
AIbot越しに見ていたらしい。
甲斐の傷を手当てしてもらってから外に出ると、もう辺りは暗かった。
「何だかんだと、がっつり働いでしもたな」と小笠原。
「そうですね」
甲斐は生返事だ。手元でスマートフォンを操作しながら見入っている。頬に当てたガーゼがディスプレイの明かりを受けて白く夜の闇に浮かび上がっている。
「何見とるん?」
「つぶやきったーです。ベアリル、ですって」
「あん?」
「僕らの事ですよ。教会の火事のこと、ネットでも盛り上がってて。僕らの事も書いてます。悪魔のペア、ベリアルのペアだからベアリルだって」
ぽつぽつと甲斐が言う。ショックを受けているのだ。夕方、あの場でも野次馬に散々な言われようだったが、SNS上でも似たようなものだった。ある意味では文章として形に残る分、より性質が悪いとも言える。
他人の悪意に曝され罵倒されることに甲斐は慣れておらず、それだけに敏感に傷ついていた。どこか滑稽な響きのあだ名でさえ、鼻で笑う事ができないでいる。
「しょうもな。そんなん、気にすることあらへん」
小笠原は当然、そんな事は歯牙にも掛けない。陰口など、今までの人生で投げ付けられた悪意の発露の中では最も優しい部類のものだった。言いたい奴には言わせておけばいいし、目の前で言う度胸のあるやつは怒鳴るか殴るかして黙らせればいいのだ。何なら慰謝料とでも称して、金品を巻き上げてもいい。
「丸っきりヤクザすね、それ」
どこか乾いた笑いを漏らす甲斐。
「そらヤクザやもん」
小笠原メソッドや、使てええで、とおどける小笠原。この男なりに、不器用ながらも甲斐を励まそうとしていた。
「不景気な面すなや。ほしたら、パーッと気晴らしに遊びに行くか?」
軍資金はどっさりあるでえ、と胸ポケットの上から札束を愛おしげに撫でる。ベースを後にする際、しっかりと頼佳から現金をせしめてきた。勿論甲斐のポケットにも同額が入っている。
「いや、大丈夫ですよ」
ありがとうございます、と辛うじて甲斐は微笑んだ。
「さよか。ほな、また明日」
「お疲れ様です。また明日」