ファルムス王国、ニドル領郊外。
軍を率いてその地に陣を張っていた新王エドワルドは、予想外の事態に混乱した。
全ては順調に進んでいたはずだった。
魔国連邦との和睦協議で取り決められた、星金貨一万枚などという馬鹿げた額の賠償金を支払うのは現実的に不可能。ニドル領に匿われている兄エドマリスを捕らえ、処刑し、前王が勝手に取り付けた約束を守る義務はない、と主張するのがこの行軍の目的である。
更に、天はエドワルドに味方していた。報告のために聖教会本部へ戻っていた大司教レイヒムから、ファルムスへ援軍を送り出す用意ありとの連絡を受けたのだ。
教会としてはファルムスで暗躍する悪魔の討伐が目的との話だったが、齎された情報では聖人ヒナタも
ディアブロという名のその悪魔は、魔国連邦から派遣された正式な使者である。
そのため無下に扱うことも出来ず、エドワルドは平静を装いながらディアブロへ問い掛ける。
「これはこれは……魔国の使者殿。本日はこのような所まで、一体何用かな?」
「お久しぶりですエドワルド王。いえ、街で少々気になる噂を耳にしたものですから……何でも、我が国への賠償金支払いが滞っているのは、前王エドマリスが英雄ヨウムと共謀し賠償金を着服したことが原因だとか。その噂が真実であるかどうかの確認に参りました」
一見して敵意の感じられないディアブロの笑みに、エドワルドは安堵した。
"悪魔討伐計画"の標的が突如として現れたことで、まさか計画が露見したのでは……と不吉な予感が脳裏を過ぎりもしたが、思い過ごしだったようだと考え直す。
悪魔の語った内容は、現政権である自分達が国民へ向けて発表した虚偽の情報だ。その甲斐あって国内では前王への怒りの声が相次ぎ、新王への支持が高まっている。
実の兄に横領の罪を着せ処刑するのは心が痛まぬでもないが、ファルムス王国の存続のためにはエドマリスは前王としての責務に殉ずるべきである、というのがエドワルドの考えだった。
この場には各国の報道陣が集まっており、彼らの目の前で己の正当性を主張しておくのが得策と打算を働かせたエドワルドは、堂々と宣言する。
「もちろん真実だとも! 我が兄の愚かな行為を糾弾し、貴国への誠意を示すため、今こうして余自らが動いているのだ。兄エドマリスには、民を裏切った責任を取って貰わねばならん」
各地の貴族の多くから援軍の申し出があり、その数は今や一万を超える。聖教会からはレイヒムの他、ルベリオスの英雄と名高い
これだけの戦力が揃っていれば、いかに悪魔だろうと何も出来まい──そう高を括ったエドワルドの前に、一人の若い騎士が狼狽しながら現れる。
「ご、御報告申し上げます! 何者かが陣地に侵入した模様! 襲撃を受けたのはレイヒム大司教、発見時には、既に瀕死の重体で……!」
その場に居合わせた者達に衝撃が走った。
王をお守りせよ、と騎士団長が叫び、各々が慌ただしく動き出す。
その最中、口許に微かな笑みを湛えたままのディアブロの真意に気付く者はいなかった。
全てが読み通り。
ディアブロは思い描いた筋書きをなぞりながら、陣の様子を観察する。
下僕となったレイヒムを使い、ファルムス王国が助けを求めていると見せかけて聖教会に"悪魔討伐計画"を持ち掛けたのはディアブロだ。魔国に仇なす者達を誘い出し片付けるための囮だが、正確に言えば囮はディアブロだけではない。今はまだ"悪魔討伐計画"には、実行のための大義名分が不足していた。『人類を害した悪魔を討伐する』という正当性が。
その正当性を手に入れるため、聖教会は必ず行動を起こす──そうした確信の下、ディアブロの用意した囮がレイヒムである。
聖教会側から見て、ファルムスとの結託が為された今、連絡役を務めたレイヒムは用済みとなる。利用価値があるとすれば、その"死"を"聖戦"の足掛かりとすることだ。捕虜として魔国の内情を知ってしまった大司教が口封じに殺されたとでもしておけば、大衆は信じるだろう。
そして、ディアブロの思惑通りに事は起こった。
軍用テントの立ち並ぶ中心部へと運ばれてきたレイヒムの法衣は鮮血に染まり、その出血は一目で致死量と判断出来るほどのものだった。回復魔法にも効果は見られず、やがて治療に当たっていた従軍魔術師達が肩を落として首を振る。
これまでディアブロは『思念伝達』を用いて頻繁にレイヒムと連絡を取り、聖教会やファルムスとの間で交わされたやり取りを全て報告させていたが──聖教会から命を狙われているであろう可能性を、レイヒム本人には伝えていなかった。必要性を感じなかったからだ。
リムルが危惧していたのは、謂れのない罪で魔国が貶められること。
つまり、防ぐべきはレイヒム暗殺の濡れ衣を着せられる事態であって、暗殺そのものではない。
ディアブロはそう結論付けていた。
「そこを動くな、悪魔!」
怒号が響き、数名の男達がディアブロを取り囲む。
見慣れぬ異国の装いに身を包んだ彼らは、東の帝国の
「何か?」
「悪魔め……これは貴様の仕業だな!」
「心外ですね。私がやったという証拠がどこに?」
「とぼけるな、貴様以外に誰がいる!? 密かに陣に侵入して大司教を襲った後、何食わぬ顔でエドワルド王に謁見を願い出たのだろう……!」
リーダーの指示により、
周囲ではファルムスやルベリオスの騎士達が悪魔を逃がさぬようにと守りを固め、更に外側では記者達が固唾を呑んでその光景を見守っていた。
(やれやれ。少しは楽しめるかと期待していたのですが)
聖なる力を持つ鎖に絡め取られ、魔素を遮断する結界では防げない自然の電撃を受けながら、ディアブロは平然と立っていた。並の悪魔が相手であれば多大な効果が期待出来たはずの攻撃も、ディアブロに備わる『聖魔攻撃耐性』や『自然影響無効』の前には、涼風同然の刺激である。
「思い知ったか悪魔! もう貴様には何も出来まい」
「"東"では、貴様らを滅ぼす研究が日々行われているのだからな……!」
(この程度の実力で"悪魔討伐"とは、片腹痛い……まあ、過度な期待をする方が間違っていましたね。せめて、リムル様の計画に支障が出なかったことを良しとしましょう)
勝ち誇る
身動きしないディアブロを動けぬものだと勘違いし、素晴らしいと
「魔物の国の主は、ヨウムなる詐欺師に肩入れしたそうだな? つまりは貴様らも、賠償金着服の共犯者であったというわけだ。我が国から二重に賠償金をせしめようと企んだのだろうが……所詮は魔物の浅知恵よ。魔王と名乗ったところで、リムルとやらも底が知れておるようだな!」
(──殺す)
瞬間、ディアブロはエドワルドを生かして帰さぬことを決意した。
崇拝する主に関して猛烈に低い沸点を持つディアブロの前で、リムルへの侮辱を口するのは自殺行為でしかないのだ。
「クフ、フフフ……そちらが実力行使に出ると言うのなら、少々相手をして差し上げましょう。ですが、まずは貴方々にその資格があるかどうか、選別させて頂きます──」
おぞましい笑みと共に拘束を引き千切り、ディアブロは周囲へ向けて『魔王覇気』を放つ。
強力な
『魔王覇気』が収まった後、立っていたのは三名のみ。
ディアブロの異質さに警戒態勢を取る
「ふーん、なかなかやるね。とても単なる
「そうそう、私は
「……
「何やってんだいサーレ! さっさとその色っぽい悪魔を始末するよ!」
訝しげなサーレを尻目に、ナイフを手にしたグレンダが風のように疾駆する。
それが彼らの、絶望的な戦いの幕開けだった。
リーダーに遅れること数分、サーレもまた、目の前の悪魔の正体に気付いてしまったのだ。
"
(こんなもの、勝てるわけがないだろう……!)
"三武仙"の一人である"荒海"のグレンダは、野性的な勘で悪魔の危険性を察知したのか、とうの昔にサーレを置いて逃亡していた。あの女……! と悪態を吐いても後の祭りだ。
(クソッ……
非常時には、一帯を対魔結界で封鎖する。
魔物に対する聖教会の基本戦術であり、今回の作戦にも採用されている。
この陣地に集められた騎士達は、悪魔の
だが、サーレは知らなかった。
作戦の全てを把握するディアブロが事前に各所を回り、神殿騎士全員を『魔王覇気』にて念入りに失神させていたことを。最低でも、明日まで彼らが目覚めることはない。
(いいや、まだだ、グレゴリーが戻るまで持ち堪えれば……!)
"三武仙"の最後の一人、"巨岩"のグレゴリーはサーレの片腕である。悪魔を誘き出す目的でヨウムの居る街を攻めている彼は今──魔国からの援軍として現れたランガに、壊れにくいオモチャとして遊び相手にされている最中なのだが、やはりサーレには知る由もないことだった。
ディアブロは、その場に残ったサーレとの戦闘を楽しんでいた。
軽くあしらうだけで済むほどの実力差はあるにせよ、サーレの年若い見掛けには似合わない熟練の技量は、ディアブロの興味を引くものだったのだ。
「クフフフ、良いですね。もっと頑張って面白い技を見せて下さい」
「舐めやがって……やはりお前は、人間の命を何とも思っていない危険な悪魔だ。レイヒム大司教のことも、そうやって殺害したんだろう?」
「まさか。それはリムル様とレトラ様の御望みではありません。従って、御二方の忠実な執事である私が大司教を手に掛けるなど、有り得ませんよ」
ディアブロの言葉に偽りはない。
人間の命を何とも思っていないのは事実だが、主のためなら話は変わる。
もし主人達の期待を裏切り、失望を買おうものならどうなるか……その先に待ち受ける絶望を、ディアブロは充分過ぎるほどに思い知っていた。
──仕えてくれなくとも構わないぞ?
──ディアブロとはもう口利かないからな!
あの悪夢のような経験を思い返す度、身が凍り付く。
いつかまたリムルに「帰っていいよ」などと告げられた日には、今度こそ自分はこの世に存在する意味を失くすだろうとディアブロは身震いしたが、いや、とその恐怖を振り払う。
魔国で開かれた幹部会議にて二人の主がディアブロに向けたのは、無理はするな、応援している、という寛大な言葉。レトラに至っては、その後わざわざ「口を利かない」という発言について謝罪にやって来たほどであり、その慈愛はこれ以上ないほどディアブロを感動させた。
それ故に、ディアブロは主達のためだけに行動するのだ。
『──さて、レイヒム。まだ生きていますね?』
『……ぐ、ぁ……ディアブロ、様…………』
ディアブロの『思念伝達』に応えたのは、今にも事切れそうな弱々しい思念。
それは、地面に伏せる血塗れのレイヒムが発したものだった。
この場は初めから、ディアブロのユニークスキル『
しかしディアブロには、そう簡単にレイヒムを救ってやるつもりはなかった。
ディアブロに言わせれば、レイヒムは"大罪人"なのだから。
『……ど、どうか……、助、け…………』
『おや、私に助けを求めるのですか? それが聞き入れられるとでも? どうやらお前は忘れているようですね。レトラ様に対して、お前が許されざる不敬を働いたことを』
あろうことかレトラの前で失言を犯し、ディアブロの敬愛する主の心を踏み躙った──本来ならば命を以て償われるべき重罪だが、レトラがそれを望まないのであれば致し方ない。
その代わりディアブロは、瀕死の状態を保ったままレイヒムを放置し、施される回復魔法も掻き消して、死の恐怖と苦痛が延々と続く生き地獄へと誘ったのだ。
『お前を殺さないというレトラ様の御言葉がなければ、私の手で処刑するところでした。いいですか? お前は今、レトラ様の慈悲によってのみ生を許されているのです』
『か、感謝……致します……! レトラ様に感謝を……!』
もしこの場にレトラが居合わせたなら顔面蒼白で割り込みに行く事態だが、残念ながら件の砂はここにはいない。止める者など誰もいない空間で、ディアブロは優しく声を和らげる。
『ところで──我が王リムル様は、愛する弟君レトラ様が、人間を害した恐ろしい魔物だと心無い中傷を受けることを、非常に心配していらっしゃいます』
『…………っ?』
『レトラ様が人間達を殺害したのは、全てお前達の愚かしい侵略が引き金だと言うのに……人間との友好を望み交流に努め、お前のような者にまで情けをお掛けになったレトラ様がそのような憂き目に遭うなど、あってはならないことだと思いませんか?』
『ま、まったく……もって、その通り……かと…………』
『では、お前の為すべきことは理解出来ますね?』
穏やかに、柔らかに、ディアブロは問い掛ける。
その裏には、少しでも答えを間違えた瞬間に命の灯を吹き消す──という意味合いの脅しが含まれており、それを察したレイヒムは死に物狂いで頭を捻った。
『……わ、我が大司教の立場において……レトラ様、が、決して……人類の敵ではない、と……世に広めるお手伝いをさせて……頂きたく…………!』
『よろしい。リムル様にも御満足頂けることでしょう』
契約は成立した。
加速させた思考の中での会話を終わらせ、ディアブロはサーレへと呼び掛ける。
「提案があります。真実を詳らかにするため、レイヒム大司教の治療を行うというのは?」
「……!? バカな、大司教はとっくに……!」
「私の見立てでは、まだ息がありますね。回復魔法も受け付けないほどの重体のようですが、我が国の回復薬ならば効果があるでしょう」
戸惑うサーレが攻撃の手を止めたのを見計らい、ディアブロは倒れたレイヒムに素早く
「レイヒム大司教、ご無事で何よりでした」
「こ……これはディアブロ殿。危うい所を救って頂き、感謝致しますぞ……」
「何者かに襲撃されたとのことですが、貴方を襲った犯人は一体誰なのですか?」
白々しいディアブロの笑顔。
引き攣った表情で返答しながら、レイヒムはディアブロに促されるまま振り返る。
「あ、あの者が突然、私に剣を向けて……!」
それはディアブロの『魔王覇気』によって昏睡状態となっていたはずの、
逃走を図ろうと身を翻した騎士の進路を塞ぐ、黒い影。
「先程から狸寝入りをしている者がいると思っていましたが……そろそろ正体を見せては如何ですか?」
ディアブロの片手の禍々しい巨大な爪が、近衛騎士を引き裂き──変化が解ける。
騎士の姿は、身を覆い隠すローブを纏った老人へと変わっていた。
「貴方は……"七曜"!?」
サーレの驚愕が響く。
それはルベリオスの古き英雄、"七曜の老師"。
『今頃気付いたところでもう遅い』
『貴様らは、知ってはならぬことを知ってしまったのだ!』
その場へと、更に二名の老人が空間を割って現れた。
彼らの放った巨大な火炎球は報道陣を襲い、ディアブロの『結界』によって容易く阻まれる。
未だ半信半疑であった記者達は、嫌でも理解した。歴史にも残る偉大な賢人達──"七曜の老師"こそがレイヒム大司教を襲った真犯人であり、彼らはそれを知った自分達を始末するためにやって来たのだ、と。
『リムル様。我が国を罠に掛けようとしていた者が"七曜の老師"であると判明しました。今目の前に三匹ほどいるのですが、生かしておくのは害悪であるかと』
『証拠は用意出来るのか?』
『実際に命を狙われたレイヒムの証言と、記者の中にも証人が多数おります』
『──許す。駆逐しろ』
『御意』
ディアブロは歓喜し、邪悪に嗤う。
レイヒム暗殺を企てた犯人の正体は暴かれた。
後は主の命令に従い、速やかにこの者達を始末するのみ──
※寝ているうちに何かが少し変わりました
※レトラ<スヤァ……