その夜の出来事は、泉の価値観を大きく変える転機となった。
母親から逃げ出し、たった一人で呼吸を落ち着けて。
泉は踏み躙られたばかりの心を抱え、ぼんやりと夜の町を彷徨った。
通りすがった高校生グループに誤って衝突し、強い口調で絡まれても泉の感情は動かなかった。どこの奴だ、来いよ、と胸倉を掴まれ引き摺られながら思ったことは、例え何があったとしても今より酷い気分になることはないだろう、という程度のものだった──が。
「何だよお前、中坊なの?」
「家出すんのに県いくつ越えてんだよ……」
「俺、修学旅行でしか地元出たことねぇー……」
彼らは、泉が家出中──事情は濁した──の中学生と知ると、態度を一変させた。
良い度胸だ、気に入った、でも家には帰った方がいいぞ、と常識的な注意を受けて、泉は彼らに教わった駅までの道のりを、餞別として奢られたジュースを片手に歩く。
足元がふわふわとして、未だに現実感がなかった。
人の気配が感じられない夜の中で、泉は喉を潤しながら考える。
もしかすると、そこまでショックを受けることではないのかもしれないと思った。実の親に存在を否定されるのも、名前も知らない他人に親切にされるのも、どちらもただの現実でしかないのではと。
極端な思考ではあったが、泉が正気を取り戻すには充分だった。
始発を待ち、また時間を掛けて家へと帰る。
祖父母は、思い詰めたような静けさで泉の帰りを待っていた。出掛けてきます、と泉が残した書き置きだけで、行き先には見当が付いていたようだった。
ある程度気持ちの整理が付いていた泉は、自分で思うよりも狼狽せず、母親に会いに行ったこと、その目的、そこで起こった出来事を語った。
「お母さんに捨てられてることは、俺、わかってたよ……でも、もしかしたら、もしかしたらって、諦め切れなくて苦しかった。もう待ちたくなかったから、捨てて欲しくて」
胸の内を打ち明けるのも初めてだった。
一年半前、泉を育てる資格がないと母親が告げに来た時──その場から遠ざけられた泉は決定的な言葉を聞くことも、祖父母から何かを語られることもなかった。
苦しげな祖父母を問い質すことも出来ず、泉は悪い予感と淡い期待の狭間で、やんわりと首を絞められ続けるような日々を過ごしたのだ。
「泉……悪かった、俺達が悪かった……何も言わずに、お前を追い詰めたのは俺達だ……あいつが、栞があんな奴だったと知って……お前に申し訳なくてなぁ…………」
珍しく、祖父の声も震えていた。
「わるかった、悪いことをした……だが俺達があいつを憎めば、その罵倒を聞いて育つお前も、母親を憎むしかなくなる……お前はあいつを恨んでいいんだ、だがな、それは、俺達が唆していいことじゃねぇんだよ……」
母親を憎む──
昨夜、母親の言葉には心が壊れそうなほどの痛みを感じたが、憎しみは生まれなかった。彼女が自分とは違う生き物に見えて恐ろしかったが、恨みではなかったはずだ。
恨んでいい、許さなくていいと、祖母は泣いて泉を抱き締めた。だが、それはお前の人生を捧げてまですることじゃない、とも言った。その恨みはいつかお前を壊してしまうと。お前には、どうか幸せになってほしいと。
そうか、と泉は得心した。一年以上もの間、祖父母が頑なに口を閉ざし、激しい感情を抑えて耐えていたのは、泉を守るため。無意識の内に、泉の心に憎悪が根付いてしまわないように──口汚い文句や怨嗟の声を、決して聞かせることなく守ってくれた。
泉の目からも、涙が零れた。
「俺は……お母さん、を、恨んでないけど……もう待たない……」
「ああ、ああ……お前にはその権利がある……」
「もう、期待したくないから……お母さんのこと、ちゃんと教えて欲しいんだ」
僅かな希望も残さないための、悲痛な願い。
逡巡の後、祖父は悔恨の面持ちで目を伏せる──
彼らの一人娘、藤馬栞は、花のような娘だった。
田舎町には不釣り合いの美貌に、柔らかな笑顔と物腰。幼少から周囲に慈しまれてきた彼女は、誰の目をも和ませる愛らしい少女へと成長した。
彼女をこの世に生み出した彼らの不幸は──その上面に隠された身勝手な自己愛と、刹那主義の本性を見抜けなかったことだろう。
高校卒業後、町を出て就職した娘からの連絡は途絶えがちだった。若いのだから不思議ではない、元気でやっていてくれればいいと願いながら、数年後。
栞は、生後数ヶ月の息子を抱いて帰郷する。
彼らは驚きつつも、出産と育児で疲弊した様子の娘を迎え入れた。
事情を聞くと、どうやら地位ある男と不貞を結び、身籠った上に捨てられた──生真面目な彼らは娘の過ちに眉を顰める思いだったが、その惨い仕打ちには胸も痛んだ。
それから暫くして、栞は町を去った。
少し休んで今後のことを考えたい、それまで泉をお願い──という言葉を信じてしまったのは、親としての人情だろう。
一月が経ち、二月が経ち、次第に連絡が付かなくなり、聞いていた住所は転居した後。その頃には娘への不信が生じ始めていたが、どうすることも出来なかった。
町では時折、密やかに噂話が交わされるようになる。悪気のない同情と好奇に晒され、幼い泉も成長するにつれて、環境の異様さに気付きつつあるようだった。
おかあさんはいつ来るの? と不安げに零す泉に母親の写真を見せ、昔話を語り、必ず迎えに来るからと根気強く言い聞かせる。あれでも、あれでも母親なのだ。腹を痛めて産んだ子に会いたくないわけがない。今に帰って来るはずだと、彼らは娘を信じて待った。
実に十年以上、何の音沙汰も無いままとは思いもせずに。
栞が町に姿を現したのは、泉がもう少しで中学生になるという頃だった。
長く子供を放置していた娘への複雑な感情はあれど、寂しい思いをしてきた泉がようやく母親と暮らせるのだ、という安堵が勝っていた。
だが、期待は再度裏切られる。
子供を引き取ることを拒絶する言葉に、泉は目を丸くして固まっていた。
泉を部屋から連れ出させ、娘の説得を試みる。
母親に子供を育てる資格がないはずがない、育てる気さえあればやり直せる、今まで泉を待たせておいて、どうしてそんな薄情なことが言えるのか──
もういいのよ、と栞は笑った。軽やかに。
「子供を産めば幸せになれると思ってた……でも、私が間違っていたのね」
「可哀想な子……ねえ、あの子を育ててあげて? それが泉のためだと思うの」
「私は泉の幸せを願ってるわ。親ってそういうものでしょう?」
「どうして? お父さん、私は幸せになっちゃいけないの?」
聞くに堪えない、無責任で残酷な言葉の数々。理解に苦しむ言い分に感情のまま反論し、怒号を浴びせ掛けても、全てが彼女に響かなかった。昔のようなあどけない表情で、「お父さんは私の幸せを願ってくれないの?」と首を傾げられるばかり。
娘には本当に母親の資格がないのだと思い知らされ、彼らには自責の念が募った。人の心を解さない娘にも、彼女をそんな怪物に育ててしまった自分達にも非はある。
だが、泉には一切の罪がないのだ。
いつかは真実を話さなければならないが、まだ泉は幼すぎた。込み上げる泉への憐憫、娘への悲憤、自分達への失望。彼らは、その全てを呑み込んで耐えることを選んだ。
せめて、泉だけは幸せに。
そう願いながらも、彼らの罪悪感は日に日に増した。
最良の選択ではないことはわかっていた。泉を傷付けたくない一心で、何も主張されないことに安堵し、何も語らず時を待つだけの日々は──祖父母を気遣う泉の優しさに付け込み、彼を放置し続ける所業でもあるのだから。
祖父から母親の話を聞き終えた泉は、己の考えが正しかったことを知った。
父親にも、母親にも、とっくの昔に捨てられていた。親にすら必要とされず、何の価値も見出されなかった命。血の繋がった子であることは、捨てられない理由にはならないのだと。
十二歳の子供に聞かせるのを躊躇うのは当然の内容で、十四歳となった今の泉でもまだ早い。望んで尋ねたこととは言え、泉の心は無傷ではいられなかった。
両親を恨まずに済んだ代わりに、泉は己を嫌悪した。
彼らの血を引くことを恥じ、恐怖した。いつか自分も、彼らと同じような大人になるのではないかと慄いたのだ。未だ純真で潔癖な子供であった泉にとっては、大きな絶望だった。
産まれたことが間違っていて──
何の価値もない命なら──
自分で、自分を。
そんな人間ではないと、証明しようと思った。
愛情と忍耐を以て泉を守り、幸せを願ってくれた祖父母に報いたかった。
心の奥底まで刺さった棘は、今後も痛み続けるだろう。それでもいつか、いつか自分を認めたい。ここで生きていてもいいのだと、自分にはその価値があると、証明出来たら。
時が経ち、祖父母は泉を大学へ行かせてくれた。
教師になりたかった。自分と同じような子供が他にもいなければいい。これから先、家族を持つことは恐らくないだろうが、大勢の人々と関わりながら生きたかった。
何年掛かってもいい。
どれだけ掛かってもいいから。
生きてきて良かったと、俺はちゃんと生きられたと、最後にそう思えたら──
そして、大学一年生の夏。
帰省した田舎での滑落事故により、泉は十九年の生涯を終えたのだ。
※掛ける言葉が見付からない
※次回はヴェルドラ日記の続きです(癒し)
残骸:藤馬栞寄り視点
小さな町を出て就職した彼女は、数年後、地位ある男と知り合い不貞を結ぶ。
金に不自由しない享楽的で刺激的な生活は、長く続くことはなかった。子供を身籠ったと告げた頃から、男が部屋を訪れる頻度は減っていった。
その時点では、彼女はまだ己の将来を疑ってはいなかった。
一人で息子の泉を産み病院から戻った彼女は、男が書き残したメモを見付ける。転勤を理由に別れを告げる旨と、口座に金を振り込んでおいたという内容だった。
男はその紙切れ一枚で、遊び相手でしかなかった女との縁を切ったのだ。
栞は出産で消耗した身体を横たえ、眠る赤ん坊を眺める。
可哀想な子だと、心から憐れんだ。
父親一人を引き止める価値すら、この子供にはないのだから。
ああ、こんなことしている場合じゃなかったわ──
私は幸せになるために生まれてきたのに──
彼女の偏執的な自己愛の前では、男も子供も、幸福のための道具でしかなかった。去った男への未練はなく、子供の処理にも悩んだが──泉を無価値と見下したことで、彼女の中には優越感が生まれた。そして、子供の幸せを願うのは親の務めだと、我が子を実家に預けることを思い付く。その歪んだ感情は、皮肉にも、泉の命を守る結果となったのだ。
※十数年後、産んでしまってごめんなさいと言いながら微笑んだのは、「ふふ、この子ったら変わらないわね」という意味。理解出来たら負け。