※55話は、三日後の2/22更新予定です
「ベニマル。頼みがあるんだ、後で俺の庵に来てくれ」
夕食後、廊下で俺を呼び止めたレトラ様は、常に無いほどの早口でそう告げた。
その表情は酷く思い詰めたもので、レトラ様がこれほどの焦りを見せたことなどあっただろうか? まさか内政に何か問題が、それとも、イングラシアのリムル様から悪い報せがあったのか……いずれにせよ、迷う必要は無い。俺に御命令下さるのなら命に代えても遂行し、その御心を煩わせる障害を打ち砕くのみ──と決意したのだが、違ったようだ。
「いやっ……そう構えなくていいよ、別に仕事の話じゃないから。何なら酒でも持ってきて」
「……そうですか?」
慌てて目の前で手を振る仕草は幼く、これはいつものレトラ様……?
国の一大事というわけではなかったらしい。酒でもということは、単に気晴らしのために話し相手が欲しかっただけなのか? そこで俺を選んで下さったのは嬉しいことだ。
レトラ様とは一度別れ、そろそろ皆が自室へ引き上げただろう時分に、俺は庵へと向かった。誰にも見付からないようにとのことだったので、出来るだけ人目を避け、夜に紛れながら。
レトラ様は普段は酒を飲まない。宴では皆と一緒に楽しみたいからとその限りではないが、レトラ様は酒も体内で『風化』させてしまい酔うこともないため、飲む意味がないそうだ。
ならばと思い持参した瓶詰。レトラ様が提案し少量ずつ生産されている嗜好品で、林檎の果汁を搾った甘い飲み物だ。余りに美味いので俺も何本か手に入れたが、まだ一本残っていて良かった。
俺の手土産に、レトラ様は喜んで下さった。
「今度林檎が手に入ったら、またお菓子開発しようと思ってるんだ。ベニマルにもあげるよ」
「本当ですか? どういう菓子なんですか?」
「林檎のコンポート……えーと、林檎を砂糖で煮る感じ」
「ただでさえ甘いのに、更に砂糖で? 絶対うまいじゃないですか」
「そうなんだよ。あとコンポートにアイス添えたい」
「アイス……というと氷魔法の?」
「実は卵と牛乳と砂糖を色々混ぜて冷やして固めると、すごいのが出来るんだ」
「全然わかりません」
「冷たくて甘くて……そのうち作ってみるからちょっと待ってて」
「もしかして、本当にレトラ様が作って下さるんですか?」
「うん、まずは試作かな。それで美味しかったらシュナに覚えてもらって……どうかした?」
「いえ、感動して……涙が……」
「せめて喰ってから泣いてくれる……?」
日頃シオンの料理の味見役で生死の境を彷徨っている俺としては、レトラ様の作る菓子を頂けるなど感涙の極致だ。器用で細やかなレトラ様はきっと料理も上手いだろうし、そうでなくとも構わない。
そういえば、クッキーというレトラ様そっくりの色と形をした甘い菓子……あれもレトラ様がゴブイチと開発したものらしい。最近シュナも作り方を教わったそうで、貴重な砂糖がふんだんに使われているため頻繁にではないが、会議の休憩時間に出てくるようになった。甘くて美味いよな。レトラ様そっくりだし。
そしてレトラ様は、最近よく眠れないのだと打ち明けて下さった。
レトラ様がずっと睡眠を取っていない様子であることは一部の者達で共有していたが、休みたくとも休めない状態が続いていたのか……お労しいことだ。
「つまり、リムル様がいなくてお寂しいと……」
「そこまでは言ってないよ!?」
レトラ様は否定するが、それは大きな要因のはず。いくら
だが、それは駄目だとレトラ様に止められた。
侍大将である俺は然るべき休息を取り、明日に備えるようにとの仰せだった。
魔国で最も大事な御一方であるレトラ様が今まさに体調を崩されているのだから、俺を気遣っている場合ではないと思うのだが……ではレトラ様は一体、何のために俺を呼んだのか──
「うん、一緒に寝てくれないかなと思って」
「え?」
思考が止まった。
何だ? 今、レトラ様は何と言った?
恐らくは俺の聞き間違いだろうが……ええと、一緒に寝てくれないかと…………?
「……あ、イヤ?」
「いえ! 構いませんけど」
心細げに沈んでしまったレトラ様の声に、反射で答える。
そうだ構うわけがない、レトラ様の御命令とあらば一緒に寝るくらい──いや待て、だからその一緒に寝るとはどういう意味だ? そういえば、よくよく考えてみれば俺は……夜更けに、内密に、レトラ様の寝所に呼ばれたことになるのか?
「…………え?」
じゃあ、これはそういう意味なのか? いやそんなはずがない。
レトラ様はまだお小さいのだし、まさか同衾しろという意味であるわけが…………
「大丈夫、何もしなくていいから! 隣で寝ててくれれば!」
「ベニマルは寝てるだけでいいから!」
「俺もそのうち勝手に寝るから!」
目の前で、レトラ様が何やら必死な様子で俺に訴えている。
次々と投げ掛けられる言葉を聞いていれば、レトラ様は眠りたいと言っていて……そうだ、レトラ様は眠れないから眠りたいだけなのだ。俺にも眠れと言ったばかりじゃないか、俺は何を勘違いして。
何事にも謙虚なレトラ様がこうして俺を頼って下さったのだから、光栄なことだ。どうやら俺の役目は寝ているだけで終わるので、何をして差し上げられるわけでもないのだが。
というか俺の長考のために、レトラ様がだんだんションボリとしてきている。これはまずい。レトラ様に元気を取り戻して頂くためならその程度、悩むまでもないことだった。
「いいですよ。そういう話とは思ってませんでしたが、俺でよければ喜んで」
「やった! これで眠れる……たぶん眠れる……頑張る……」
「あまり気負い過ぎない方が……」
「じゃあ、これ。着替えたらこっち来て」
俺に浴衣を手渡し、部屋の明かりを落としたレトラ様が襖の向こうへ消える。
縁側に面した障子が受け止める微かな月明かりは、奥の部屋まで届くことはないだろう。
スル、と着物を脱ぐ衣擦れの音が、暗い部屋の中でやけに大きく響く。
おかしい……空気がおかしい……何だこの状況は?
これから俺は寝衣に着替えて、レトラ様の閨へ……? 俺は一体今どこで何をしてるんだ……よくわからなくなってきた。レトラ様にそんなつもりはない、はず……ないはずだ。
いや焦るな、落ち着いて考えろ。レトラ様が躊躇いなく明かりを消したのは、これから眠るのだから当然の話で、互いに『魔力感知』を持っているため暗くとも困らないという判断もあるだろう。恐らくレトラ様にそれ以上の他意はない。
その『魔力感知』を用いてそっと奥を窺うと、レトラ様は御自分の布団の横へ砂を落として、布団をもう一つ作っているところだった。良かった、寝床は別だ。だが布団を作るにはやはり相応の量の砂が必要らしく、そこまでレトラ様の手を煩わせるのもどうかと思い、畳の上でも構わないと申し出たのだが……
「布団で寝ないなら帰ってもらうよ」
「すみません冗談です」
ピシャリとした声に降参する。ここまで来て帰れは勘弁して下さい。
レトラ様は俺がしっかり休息を取れるようにと配慮して下さっているのであり、やはりお優しい方だ。
「あ、それか本当に一緒に寝る? 俺が砂になれば邪魔じゃないかも……」
「だから冗談ですって布団をお願いします」
危ない、墓穴を掘るところだった。
これでレトラ様には何のつもりもないのだ。まったく、無垢な御方で困る。
今夜のことは他言無用と言い付けられた。特にシュナとシオンに知られたくないらしい。あの二人が騒ぎ出すと、リムル様でも止められなくなるからな……しかし、レトラ様は未婚の二人を気遣うようなことを言うが、主君たるレトラ様が添い寝を命じることに問題などないだろうに。
兄としては、レトラ様にならシュナを嫁がせても……いや違うな、やはりこういうものは当人達の気持ちがあってこそだろう。シュナはリムル様のこともお慕いしているはずだし、幼いレトラ様にそんなことを言っても困惑させるだけだ、第三者が余計な口出しをすると却ってややこしくなるし別に何も俺が嫌だと言っているのではなく反対する理由など一つもないのだが無理に話を進めることではない……よな。この話はもういいか。
そして布団を並べて眠りに就き、夜明け前にレトラ様に起こされた。砂スライム姿のレトラ様は何故か逆さまに引っくり返っていて、本人は寝相が悪いと言っていたが……
「それでレトラ様、どうでした? 昨夜は眠れましたか?」
「眠れたよ! 協力してくれてありがとう」
「それは良か……この話、さっきもしませんでしたか」
「したね」
「……俺、本当に何も粗相してませんか?」
「してないよ」
……本当だろうか? 俺は何も仕出かしていないだろうな? ないとは思うが、何か間違いでもあった日には、俺は確実にリムル様に殺されるんだが。
まあ、レトラ様は久しぶりに眠れたと無邪気に喜んでいたので杞憂だろう。俺は寝ていただけなので役に立てたという実感はないが、レトラ様が無事に休むことが出来たのなら何よりだ。
「ではレトラ様。また眠れなければいつでもお呼び下さい」
「ベニマルばっかり呼んだら悪いよ」
「俺は気にしませんけどね」
夜が明け切らぬうちに庵を出て、まだあまり完璧ではないが妖気を抑えながら自室へ戻る。
本当に俺だけを呼んで下さっても構わなかったのに、俺一人に負担が集中してしまうと考えるのはレトラ様らしい。こんな可愛いらしい我侭など何の負担にもならないが、その後もレトラ様は、ハクロウやクロベエにも声を掛けてはこっそりと庵へ呼んでいたようだ。
内密にという御命令があるためにシュナやシオンには詳細を明かせなかったが、レトラ様の布団に眠った跡が見受けられるという報告はほどなく部屋係から寄せられた。
それから少し日が経って──リムル様の不在という根本的な要因は残っているものの、レトラ様が以前のように規則正しく休息を取る生活に戻られたという確信が得られる頃には、シュナ達もようやく安堵した表情を見せるのだった。
※裏話:眠らなくなったレトラが心配で勝手に庵の警護をしているソウエイは、夜に庵を訪ねてきたベニマルが朝まで出てこなくて死ぬほど驚いた
……と思ったら、毎晩誰かが来るようになったので何となく察した