オルト・シュラウドが
そもそもからして、報告は過去形だったのを、現場に着いてから思い出した。
周辺を舐めるように覆う炎と、ぐちゃぐちゃに歪んで投げ捨てられた機械パーツ。ブロットの滲むマジカルペンを構えたまま呆然としている生徒と、狂ったように高笑う生徒と、それから、それから。寮混合で十人はいる。オクタヴィネルの生徒もいた。腕章とベストがないくらいでアズールが自寮の生徒を見違えるはずもない。
怒りと嫌悪と、それから憎しみとさえ呼べるだろう感情で震える声帯を抑えて、声を上げる。真っ当にぶつかったとしたら、この程度の魔法士擬きが百集まろうと
「フロイド、降ろしてください。ありがとうございます。……オクタヴィネル寮長、アズール・アーシェングロットです。事情を説明していただけますね?」
アズールがそう言ったことが契機となったようにも見えただろう。炎が、炎魔法とも燃えるガスとも違う、冷たい火が、地を這った。その色をアズールも、フロイドも知っていた。
「ホタルイカ先輩……?」
青い魔力は独りでに召喚陣を描き、そしてその中心からは、フロイドが呼んだ通りの人物が現れた。その背は伸ばされているというのに、青く燃える炎の髪が腿どころか地を這うほどに長い。冷たく光る金の瞳が辺りを睥睨し、手放されたタブレットが浮かんで周囲の写真を撮る間、誰も、話しかけることさえ出来なかった。
「アズール氏。状況一通り撮り終わったんで消火と下手人の身元確認よろしく。オルト由来だったらバーナー的な普通の火だから」
激情を露わにしてくれた方が何倍もましだ、とスカラビアの二年生が思った。辺り一帯灰になるまで燃やし尽くす方がずっと健全だろう、とハーツラビュルの三年生が思った。自寮の寮長がことここに至ってマジカルペンさえ出そうとしないことを、イグニハイドの一年生はうまく飲み込めなかった。
「拙者は」
その一人称を聞いて、アズールの不安はむしろいや増した。だって、アズールなら。アズール・アーシェングロットなら、家族──親が殺されたとしたら敬語なんてかなぐり捨ててそこで呆然としている連中に掴みかかっている。蛸としての握力を存分に発揮して、腕の一、二本は握り潰していることだろう。フロイドなど、今にも「ホタルイカ先輩がやらねーなら俺がこいつら絞めていい?つーか絞めんね」くらいのことは言いそうだった。このウツボは、小さく頑強なオルト・シュラウドをそれなりに気に入っている。
「今からオルトを治さないといけないので
そう言って、イデアは空中からアズールには見えない何かを掬いとった。
イグニハイドの寮長はついに狂ったのだ、とサバナクローの二年生は確信した。アズールも、正直なところそう思いたかった。ただ、目の前の男につけられた異名の一つを、「工学界のアスクレピオス」ということをアズールは知っていた。死者の蘇生は、召喚術の極致と語られる。イデアは入学直後に召喚術Ⅲの単位をAAの成績で取得したのだと、いつだかの部活で聞いていた。
「無事、なんですか。いえ無事というのもおかしいのですけど、その、」
「オルトなら此処に……ああ、そっか。見えないのか。とにかく、大丈夫。
文字通りの掌中に、オルト・シュラウドの魂があるのだと、イデアは言った。一度
ちらりと冷たい金が、彼の言葉を理解できずに怯える男らを見やった。
「……ま、弁償はしてもらうけど」
「それ普通に死刑宣告では?オルトさんの
「いや、法人の方で雇ってる弁護士呼ぶ」
「本気じゃないですか……」
「当然では?あ、
「さすがに法人契約に第三者立会人として関わるのは無理ですね。卒業までには取るのでその際はご連絡のほどを」
「KK。期待して待ってる」
魂だけでの転移魔法は混線しやすいから、と言って、ひらりと手を振ったイデアは鏡舎へ向かって行った。
イデア・シュラウドは、本当に一晩で弟の再起動に成功していた。一時限目の前からアスレチック・ギアのオルト・シュラウドの活動が確認されていたし、昨日ディア・クロウリーやデイヴィス・クルーウェルやはたまた己の属する寮の寮長に散々に絞られてた彼らなどは、それを不気味なものを見る目で見ていた。
「そんなに不思議?」
その日は、ちょうどボードゲーム部の活動日だった。本当ならアズールは昨日臨時休業にしたモストロ・ラウンジに居るべきだったが、どうしてもイデアの様子が気になったので、ウツボの形をした両腕にカフェを任せて部活に顔を出すことにした。それで、いつものようにゲームを選んで、駒を取って、イデアの第一声がそれだった。
「……ええ。正直に言わせてもらえれば、思い切るところを間違えていやしないかと思うことは多々」
チェスを選んだのはアズールだったが、対局に集中できる気は全くしなかった。白のポーンを一つ、前へ。
死者を呼び戻す行為を、神の冒涜だと人は言う。けれどそれが言い訳に過ぎないことを、今や人は知っている。イデア・シュラウドを、雷霆は撃たなかった。
「神は死んだ。死んだんだよ、アズール」
その声に、ぞっ、と背筋が凍った。諦念と自棄と、悲しみだろうか。絶望、と称するのが一番近いかもしれない。黒のナイトがポーンを飛び越える。
死者の国の王は、伝説の住人たるグレートセブンの一人でありながら今なお死者の国を治めているのだと、深海に住んでいた頃のアズールでさえ知っていた。まして嘆きの島は死者の国と地続きだという。幼いイデア・シュラウドが、神に祈ったのならその対象はハデスだったろう。まだ丸く小さかった頃のアズール・アーシェングロットが、トリトンに祈ったように。
「……それは、『悪魔の証明』と呼ばれるものでは?」
実在の証明より、不在の証明はずっと難しい。
「雷に撃たれることも、この魂を代わりに差し出すこともなしに僕とオルトがここに揃っているだけで、死者の国の玉座が空である証明には十二分じゃないかな」
「そうかもしれませんね、ええ」
「倫理も道徳も、人が作るものなら先へ進むべきだとは思わない?」
“常識的に”考えてさ、と
「概ねは同意します。それにしたって忙しないとは思いますけどね。個々の命は尽きても、海流はそう変わるものではありませんよ」
死者がかえらないことを、海のいきものはよく知っている。幾億といたはずのアズールの兄弟のように、泡と藻屑と消えた彼らが戻らないことを、経験として。
それを、自然と呼ぶのなら、イデアが超えるべきものだった。森を焼き、山を開き、海を埋め立て、河水を留め置き、そして空に浮かぶ月にまでも手を伸ばすように、
「拙者、アズール氏と違って何百年も寿命があるわけじゃないんで……死の克服は、ずっと皆望んでたことだと思ってたんだけどね」
誰も彼も口を揃えて、称えるより先にイデアを非難した。怪物だと、「弟」より余程人から外れたものだと、そう言った。それ自体はなんでもないが、その度に思うことがある。この身をひとでなしと罵る彼らのどれだけに人らしい心があるのか。ひとでなしと謗られるこの身が人であろうとするのをやめたら、彼らは納得するのか。しないだろうな。
「僕だってここにいるのは奇跡みたいなものですよ。特に幼生の頃は努力でどうにかするのも限度がありますから」
ヒトの子どもほどの大きさになって、やっと人魚は拾われる。五体満足で、人の赤子ほどの大きさまで生き延びて辿り着いたその時に初めて、人魚は人魚として受け入れられる。
アズール・アーシェングロットは、自身が定義するヒトの範疇が陸の人間のそれとずれているのを自覚している。生まれたばかりの子どもは、同族であっても朝食の無精卵と大差がない。既に死んだものは、その尽くが物体に過ぎない。海の中では、死者は食料だ。
白のポーンがルークを討つ。歩兵が城壁を崩して、城の向こう、王と王妃の元へ一歩ずつ進む。このポーンはどうあがいても辿り着けないけれど、プロモーションの候補はまだ残っている。その一歩がどれだけ小さくても、積み上げられた努力の果てにのみ運命は微笑むのだと、アズール・アーシェングロットは信じている。それが海底から這い上がったこの拝金主義の唯物論者の、信仰と言えば唯一の信仰だった。
「陸の哲学書でしたか」
神は死んだ、とそう言ったのは。哲学書というよりも小説のようにも思えたが、ともかく、思想の多分に込められた書籍だったのは確かだ。
「よく知ってるね……」
続く言葉は、イデアの方も言っているつもりはなかったのだと思う。「誰もが書くことを許される。そんなことになれば、長い目で見れば、書くことばかりか、読むことまでもが駄目になる」。いかにアズール・アーシェングロットといえど、件の書の内容を一言一句覚えているわけではないから、それが真実その哲学者の言葉なのかは分からない。ただ、いかにも目の前の人間不信を拗らせた男が気に入りそうな文章ではあった。
「『知恵は女だ。いつも戦士しか愛さない』」
嫌な予感がした。この男は、自分の頭脳が優れているのを知っている。呪いの家系と遠巻きにされて、頭の中身を疑われて。人類史に残る偉業を成し遂げたその先でさえ、異端なるもの、災害の類似品だと畏れられてきた。イデア・シュラウドが人の道を振り切ってしまったら、人類が彼に追いつく日が来るのは、彼が死んで半千年紀も過ぎた後に違いない。
「……有象無象のことを僕が斟酌してやる理由って、何だろうね」
時偶、彼はその身の内の人ならぬものの血を覗かせることがある。冥府たるもの、富の主人、見えざる方──地下神ハデスに、地上と海のうちで最も近しいのがこの男だ。海の魔女アースラにおそらく最も近しいのが、契約のユニーク魔法を持つ蛸の人魚、アズール・アーシェングロットであるように。あるいは、もっとずっと根源の部分で。
ナイトが、ルークを飛び越えてビショップを討ち取る。この、どうしようもない天才の隣に、誰かがいてやるべきだったのだろうと思う。機械の体とデジタルの精神ではない、血の通った誰かが、いのちを持って。
そうすればこの、天災のように技術を、倫理を置き去りにして技術だけを進めていく彼を、止める手立てがあったかもしれないのに。そこに立つには、アズール・アーシェングロットでは陸に上がるのが遅過ぎた。
「さあ?僕はイデアさんではありませんから、なんとも」
「いや、アズール氏は有象無象のことを斟酌するのが仕事みたいなものでは」
「まあ個人から搾り取れる額には限りがありますから」
「そういう答えで構いませんぞ」
「イデアさんの参考にはならないのでは?あなたとっくに一生分のお金稼いだでしょう」
「開発費用なんてのはあればあるだけ消えてくものでござるよ」
人の欲に限りがなく、この世の大半が金銭で解決されるのならば何十億、あるいは何十兆マドルあっても「足りる」ことなどない。まして、イデアが二年前に開発した魔法現象の自動化回路はミスリル合金だ。一般に普及させられるほどコストダウンされるまでには相当量のミスリルや魔導銀が廃棄品の山へ消えるだろう。
妖精族はその長い生の全てを記憶する都合上、人間よりも地頭のいい個体が多い。魔法研究者ならば誰もが一度くらいは、彼らのうちの一人でも人間と同じ
「永遠の進歩を望んで何が悪い?百年の命なんて短すぎてやってらんないでしょ」
それに、アズールは答えられなかった。そうした後に訪れる人口問題でさえ、イデア・シュラウドならどうにかしてしまえるのではないかと思ったから。アズールが、人ではないから。アズール・アーシェングロットは蛸の人魚だ。寿命という意味なら200年は下らない、人ならぬもの。青い血の流れる変温動物。海の底では、死は偶発的なものだった。
「最初は、オルトの魂が死者の国で暮らしているのを確かめるだけのつもりだったんでござるよ」
イデア・シュラウドは、どうしようもなく天才だった。その魔力は母の腹から生まれ出たその瞬間から既に、
自分の魔力が最初に焼いた女の顔を、イデア・シュラウドは知らない。彼女は、灰さえ残らなかったという。魂でさえ、イデアの糧になってしまったのだろうと、濃紺の髪の父は言った。自分が持ち得なかった炎の髪を宿す息子に、妬みと憎しみを隠しもせずにそう言った。
「そこにオルトがいるなら、燃えて消えてしまっていないのなら、それでよかった、はずなんだ」
けれど、呼び出した魂はいつまで経っても死者の国へ引き戻されることはなかった。それで、欲が出てしまったのだ。もしかしたら、また。一つ屋根の下で笑えるのではないかと、思ってしまった。
そうして、常世の先庭たる嘆きの島で、悲しみの大王の血を引いて生まれた彼は、誰よりも
地上の倫理と道徳と常識とがそれを許さなかったとしても、
「召喚術による魂の召喚、工学による疑似的な永遠、人工物に対する魂の定着。全部、前例のある行為なのに、どうして誰もやらなかったんでしょうな」
心底、不思議そうな声だった。なにも、オルト・シュラウドほど高度なアンドロイドを製作する必要はない。魂を呼び戻して、たとえばその死者の遺伝子情報から作ったホムンクルスだとかに定着させれば、それで死者の蘇生は成る。それを、イデア以外の誰もやろうとはしなかった。必要な
魔導工学革命の立役者。工学界のアスクレピオス。魔法を技術から機能へ落とした男。魔導工学のプロメテウス。イデア・シュラウドを指す言葉は両の手の指の数ほどもあるだろう。けれどそのどれより、「異端の天才」の名が強く囁かれた。
生まれ持った肉体を捨てることへの躊躇いがイデア・シュラウドにはないことも、オルト・シュラウドへの処置を生者に拡張することが百年後の彼ならば可能だろうことも、深海から昇ってきた努力の信仰者には一片の疑いの余地もない。
異教よりも疎まれる者、背信の徒。神ならぬ身にして死者を呼び起こす者。冥府に生まれたにもかかわらず冥府たる方に逆らった者。齢十八にて、その生存だけで神の失墜を示す怪物として彼は語られる。そして海に満ちるのと同じような悲しい偶然さえなければきっと、アズールの寿命が尽きた先でさえも。