渡りの凍て地。
常に雪が降り積もるその極寒の地に、一匹の竜が居た。
所々に蒼が混じった黄金色の艶めいた鱗に全身は覆われており、寒さを凌ぐような羽毛は全く無い。その代わりに傍目から見ても強靭に思える筋肉を備えており、身から発せられる熱量はこの地の厳しさを真向から跳ね返す程のようだ。
竜はその脚と翼腕を使って歩いており、口には好物の草食獣、ポポを咥えながら悠々と歩いていた。
その竜の種族名はティガレックス。
ポポを咥えるその顔は多少ながら緩んでいる。向かう先には温泉がある事から伺うと、どうやらそこでポポを堪能しようと決めているようだった。
時折その牙がより深く食い込もうとするが、我慢我慢、と言うように食い千切る事だけまではしていない。その証拠に、ティガレックスの足跡は残っているが、ポポの血は一滴たりとも零れていなかった。
急ぐように段々と脚は速くなるが、それと同時に口に力みが入ればポポを食い千切りそうになる。その度にまた脚を緩め、しかしまた段々と待ちきれなくなる。
そんな事を何度か繰り返して、やっとの事で温泉に辿り着く。
しかし、そこには狩人が居た。
折角の楽しみを! と一気に怒り心頭になりかけたが、その前に気付く。
その狩人は自分が元居た場所――狩人達は導きの地と呼ぶその場所で最も強い古龍、ネルギガンテを打ち倒した狩人だった。
龍脈の恩恵を受けながら更なる強みを目指して切磋琢磨する竜達の住む場所、導きの地。
そこへ唐突にやってきたその狩人は、襲い掛かる誰をも返り討ちにしていった。空を鮮やかに飛びながら的確に火球を放つ火竜も、地中から竜をも突き上げ空高く掲げてしまう角竜も、雷光虫を巧みに操りそれと同時に苛烈に攻めて来る雷狼竜も。
そんな様子を滅尽龍はまるで果実が熟すのを楽しみに待つかのように見ていた。
それから暫く。狩人は、とうとう目の前に降り立った悉くをその膂力を以て討ち滅ぼすその古龍に対しても、真向から正々堂々と立ち向かった。
何倍もの体躯の差を物ともせず、棘を全身に突き刺されながらも怖気付く事もなく。
致命傷をギリギリ避けながらもボロボロになっていく体を、何かを飲み干し、時に噛み砕きながら無理矢理動かす狩人。隙を見せれば、攻撃を読まれれば的確に反撃を貰う相手に対して、それでも叩き潰さんと豪快な攻撃を繰り出し続ける滅尽龍。
そんな命のやり取りを互いが心から楽しんでいるのは、誰の目から見ても明らかだった。
最後には互いに満身創痍になりながらも、その身の丈と同等程にある太刀を首に振り下ろして勝利したその狩人。
誰もが、その狩人に対して強い感情を抱いた。敬意から畏れまで、それから自身に対する一種の諦めを。
龍脈の恩恵も受けずに、そして自分達よりも体躯も遥かに劣るその存在が、この地の頂点に立つ古龍を真正面から打ち倒した。
そんな出来事は、絶望や諦めと言うものを抱くには十分過ぎた。
それでも高みを目指して愚直に自らを鍛え続ける竜も居れば、新大陸そのものから去ってしまう竜も居る中、この轟竜、ティガレックスは一度休む事にしたのだった。
ギンセンザルがティガレックスを見て逃げていく。この狩人の方が恐ろしく強いと言うのに、おかしなものだ。
鎧も外して温泉に浸かっていたその狩人は咄嗟に、その何者をも切り裂いてきた太刀に手を掛けるが、当のティガレックスがいつまで経っても襲い掛かって来ないのに対して、抜く事まではしなかった。
互いに、無駄に戦う気は無い様子だった。
ティガレックスも狩人達の導虫が青色を示す、歴戦の強者と呼ばれる程度の実力はある。
美味を求めてこんな寒冷地まで、ずかずかと他者の縄張りを冒す事に対しても何も厭わない程の実力だ。
ただ、古龍を怒らせるような事までは勿論しないし、立ち向かおうとも思わない。種として隔絶した相手だから……そのはずなのに。
この小さな狩人は、太刀一本でネルギガンテをも打ち倒してしまった。
そんな訳分からない存在に対して立ち向かおうとは、もう、どんな理由があろうとも無いだろう。
けれど、それでも口に咥えたポポを温泉に浸かりながら食べると言う至高の幸福を諦める気にはならなかった。
狩人が無駄に戦わない事もティガレックスは知っていた。多種多様な竜種が共存する導きの地において、そんな所構わず誰しもに戦いを吹っ掛けるような迷惑な存在なら、竜達はとっくに結束して手段を選ばずに叩き潰しているだろう。
ティガレックスは狩人を見ながらも、温泉に翼腕を浸らせる。中々に熱い。しかしそれがこの地においては丁度良い。
広いのだから少しは場所を譲れと、尻尾で軽く狩人を押しながら、脚を、腹を浸からせていく。
背中までは浸からない浅さだが、それでも十分だ。全身を最大限に温泉に浸からせると、ずっと咥えていたポポを翼腕で掴んで離し、ぶふぅと一回強く鼻息を出してから、むしゃむしゃと食べ始めた。
首筋から噴き出す血を余すところなく飲み干し、顔が血で汚れるのも気にせず豪快に。
狩人もそんな様子を見て、太刀を放すとまた湯にゆっくりと浸かった。
瞬く間にポポを食い尽くし、口周りの血を舐め取る。それからゆっくりと温泉に浸かるティガレックスに対して、狩人が声を出した。
「なぁ」
人語なんて理解出来るはずも無いティガレックスはしかし、呼ばれた事には気付いた。
目を向けると、ほぼ裸になった狩人が居た。この距離だ、太刀を持たせる前に抑えつけ殺す事も出来るだろう。ただ、そんな事も頭からすっ飛んでしまう程の驚きにティガレックスは目を見開いていた。
狩人の全身はもう消える事の無い傷の痕跡で覆われている。しかし、驚く事はそれではない。その傷痕の所々が赤黒い筋肉で盛り上がり始めている事だった。
赤黒い筋肉。それにとても良く似たものを見た事がある。ネルギガンテの腹だ。
「私は、近々人間ではなくなるらしい」
そう言いながら、狩人はティガレックスの前で背中も晒す。背中にも傷跡は数多にあり、その幾つかから赤黒い筋肉が盛り上がり始めている。
多分、その筋肉が盛り上がり始めた傷痕というのは全て、ネルギガンテの棘によるものなのだろう。
しかし……見せつけられたその全身を見る限り、だ。あの棘には何かしらの作用があるとしか思えなかった。
「私自身の筋力も日に日に増している」
そう言って温泉の底にあった岩を握ると、段々と皹が入っていき、そして派手に音を立てて砕け散った。
そんな事はティガレックスならば容易く出来る事だが、その細い指でも出来るとは見るからに異常だった。
「……それだけだ」
そう言うと、狩人はまた温泉に全身を浸からせた。
ティガレックスは言葉を解さない。しかし、伝えたい事は分かった。
ただ、伝えられた所でティガレックスにはどう反応すれば良いのか分からなかった。狩人とが古龍と言う、常識を無視するような存在に成り果てると言うのだろうか?
自分だったらどう思うだろう。
「グゥゥ……」
考える事はあんまり好きではない。けれども狩人にとっては、それも特にネルギガンテを真正面から打ち倒す程に研鑽を重ねた狩人にとっては、喜ばしい事ではないだろうと思った。
それ程にもう強いのだから。態々今の体を捨ててまでネルギガンテになる必要も無い。
「グアアァァ……」
その轟竜との名に相応しい喉から発せられる欠伸は、下手な咆哮に匹敵する程に強く。しかし、気が抜けるようでもある。
暫くは最低限警戒もしていたのだが、裸を至近距離で見せる程の狩人から殺気を感じる事などは結局微塵もなく。
欠伸をする程にティガレックスも警戒を解いていた。
このまま温泉に浸かっていたら寝てしまいそうだとも思う。
流石に狩人の前で寝てしまうのは抵抗がある。出ようかと思い始めれば、狩人の方から温泉を出ていく音がした。
「目が覚めちまったよ」
そう言いながら太刀を取って、布で体を拭う。それから寒さに耐えかねるように近くに置いてあったインナー、防具をいそいそと着け直していく。
全身が様々な竜、古龍から勝ち取った素材で作られたもので覆われていく。強くない狩人が自らの力で打ち勝てないような相手を素にした不相応な防具を身に着けているのは、即座に叩き潰してやりたくなる程に悪趣味だと思うが、この狩人に対してはそんな事は微塵も思わなかった。
身に着け終えると、背を伸ばす。
「邪魔したな」
そう言うと、ティガレックスに対して軽く手を振り、そして背中を向けて去って行った。
欠伸をしながらとても眠たげに。
……あいつ、もしかして眠っていたのか?
まさかとは思うが、もしそうだとするのならば、狩人は自分が思う以上に今自身に起きている事に対して、重く感じているのかもしれない。
この自分の前で寝る程に投げやりになっているとも捉えられる。
でも、それ以上考えるのはやめた。
これで誰も居なくなったのだ。他に気になる竜の気配も無い。ティガレックスはもう一度大きく欠伸をすると、目を閉じた。
短編小説の通り、数話で終わる予定です。
狩人:
♀
本編主人公。「愛しの君とこの世のはたて」のクエストを完了。
ティガレックス:
♂
導きの地に住んでいた歴戦個体。自分よりも矮小な狩人がその太刀一本でネルギガンテを打ち倒したのを見て、色々自分を見失い中。
ネルギガンテ
-
を打ち倒したい
-
になりたい
-
と暮らしたい
-
を観察していたい
-
が有性生殖でない事にがっかりしました