月が鏡の様だった。
鏡が、滅びた国を克明に映す。
戦果で得た国が、戦火に滅びる。
血生臭い、戦国の世にはままある事だった。
亡国は、葦名。そういう名だった。
今やこの国は、面影のみを残し、ただ伝聞に残るのみに変化している。
非道、外道に手を出した国。
赤目を用い続けた悍しい国であると。
門も城も焼け朽ち、冬が過ぎた。
滅びは終わり、新たな芽生の季である。
ただ、その国のひたすら辺鄙な地に、一つ廃寺が在った。誰も訪れぬ、死した場。
しかし。否、それ故にか。そこからは音が聞こえる。寺の中より、木が彫りだされる音と蝋燭の幽かな光が漏れている。
その内部に確かに人物がある。覇気どころか、気配をすら気取らせぬ、影のような男だ。
「……」
隻腕の男が、仏を彫っている。
その手つきは、熟達とは言いかねる、それ。
長い髪を下ろし、無造作に髭も伸び切ったその仏師は、それでもただ齷齪と木を彫り出していた。先の戦に消えた喪われた魂と、自らに眠る修羅を鎮める為に。
この寺の先客が遺した仏は、怒りの顔。この男が彫る仏は、哀しみの顔だった。
世の無情を慈しむ、有情の顔ではない。
ただ悲しみを払えぬ故の、人の弱さに塗れた、仏には到底似つかわしくない顔。いくら彫ろうと、その顔にしかならなかった。
隙間風を浴び、ふと月光を見上げる。
青白い光が妖しく、何かを呼ぶようだ。
ただ一息吐き、男は再び仏を彫る。
かつり、かつりと。
男に名は無い。
ただ、狼と呼ばれていた。
そう呼ぶ者は今や殆ど無し。
残響のように呼称だけが残った。
元は忍びだった。しかし、その技を用いる腕は片方欠け、そしてそれを補う為の牙は、今や錆び付いている。
補い牙、忍義手。先の仏師、猩々という名の者に譲渡されたものであり、その手入れは欠かした事が無い。血錆の一片も付かぬままだ。
ただ、忍び本人の技量は、最早錆びている。少なくとも剣聖にさえ打ち克つ程の無双は、とっくに。
だがそれでもよかった。
彼には最早為すべき事も、仕える主も居ないのだから。
不死断ち。主の大願であった。
主の悲願に尽力し、為す。忍びの本懐だ。
例えその末期に、主が死そうとも。
そう。忍びの本懐で、あったのだ。
それは心に、虚な穴が開こうとも。
…未だに苛まれる。未だに後悔が続く。しかし、それは、全て終わった事。失った物は最早、二度と手には戻りはしないのだ。
ただ喪った失意のままに、ただ滲む羅刹を収める為に。彫る。
そうした日々を送っている。
仏は、微笑まぬままだ。
鑿を置き、傍にある瓢箪を呑む。
薬が湧き出る物ではない、ただの酒瓢箪だ。
酔う事は出来ぬが、それでも呑む。
自らを苛む虚無と羅刹を暫くのみ、遠ざける事が出来る気がした。
ふと。月の魔力に呑まれたからであろうか。
ぼぉっと、意識を失っていた。
が、裏腹にその手は動いていたらしく、気づけばその手に新たな像が一つ、彫り出されていた。
(…これは…)
これは、真に己が彫ったのか。手の内にあるのならばそうだろう。しかし、自らがこのような物が彫ることができるものか?
そう、思うほど、それは異質。
それは生き物なのであろうか。確かに四肢はある。だが胴体は脊椎のみが残ったかのように細く、頭部には頭足類の足じみた肉体。
形容が、追いつかぬ。恐ろしい、何かだ。
見る程に怖気を感じる位に。
見た目の恐ろしさより怖気を感じ取った訳ではない。
それの存在が、架空のものでは無いと嘯く本能が恐ろしかった。
ふと思い立ち、それに祈る事とした。
思えば、これは不自然である。
例え下手に彫れてしまおうと、それに敢えて注目する事は今まで無かった。それをする前に、次の木塊に着手していた。
だがこの時の狼は、それをすべきだと思い、やまなかったのだ。
手を合わせるべく、片腕を補う忍義手を身につけ。
目にかかる髪を後ろに結び、手を合わせ、目を瞑る。
目を閉じた暗闇の中。
ひたり。身体に何かが触れた。
「……ッ…!」
目を開ければ、身体中に物の怪が張り付いていた。小さく、青白く、骸骨のような。人のような、且つ、人とは決定的に異なる。
振り払うように、後ろに飛び跳ねる。
だが、最早その時には既にそれらは居なかった。
あれは一体?という考えはすぐにやめた。
やめざるを、得なかった。
彼の目の前に広がる景色の前には、あの物の怪は、余りにも些末な事だった。
信じられぬ物を見た。
否。信じられぬ所に、『居る』。
欄干、屋根の尖った建物。霧の深い都。人の気配のしない静けさ。
陽光は届いている筈なのに仄暗い空と、血と獣の匂いが蔓延した、じとりとした空気。
声が聞こえた。正気の失った獣の声が。
更に周りを見渡す。診療所らしき看板と、墓地が見える。どれも、話でしか聞いた事の無いような姿形をしていた。戦国の地には、微塵も無い様式だった。
何が起きたかも何処にいるかも、全てが不可解で不可思議。
それでも、ただ一つ。確かな事はある。
ここが葦名では無いと言う事。
そして、そこに自分がいる事。
それが確かだった。