此処は、何処だ?
最初に意識を取り戻し、思った事はそれだ。
装飾、間取り、大きさ。全てがオドン教会のもの。
だが、違う。あの場所では無い。
あそこでは、獣避けの香が焚かれており、そしてその臭いは独特でありながら、狼は嫌いでは無かった。
だが、今広がる臭いは血と獣の臭い。
むせかえるような、身体が、反射に咳き込む程の臭さ。
此処は、何処だ?
何故己はこんな場所に居る?
怖気が溜まる。正気が削れる。狂ってしまいそうだ。だが、堪える。自らを殺し、耐えよ。それが忍びだ。
狂気に屈しかねない脳を動かし、前に進む。
楔丸を引き抜き、義手を鳴らす。忍びとしての動作を行い、それに留意する事で、気を紛らわす。
外に出れば、そこは昼間のように明るい空間。
だが空を見れば、その太陽はぐずぐずと、黒色に侵されるようにして陰っている。で、あるのに、確かに光に照らされている。
荒唐で、無稽。まるで、悪夢のようだ。
現状を確かめる為に、先に進む。やはり、既視感がある。ここは聖堂街ではないのか。自分が、あの『何か』に握り潰され、時が経った後の姿なのか?ならば、今居る此処は、全てが滅茶苦茶となった後なのか?
俺は、何も為せなかったのか?
最悪の想像を断ち切る音が、聞こえてくる。
金属音。じゃらら、らんと。何かの機構が動く音だ。
武器。それも、人のみが扱えるような、仕掛けを用いた。
視線の先には、毛むくじゃらの獣が立っている。その二足で立っている様子から辛うじて、獣の病の罹患者であった事がわかる。それらは何を襲うでも、餌を貪るでも無く、ただ怯え、後ずさっている。
それらを、じゃららんと、鉄の蛇と見紛う刃が千切り去る。一撃の元に挽肉となった獣達は、また、地を赤く塗る。ただでさえ真っ赤なそれを、幾重にも重ねるように。
下手人が、忍びを見た。
体躯は大きい。あの、ガスコインを思い出す。手にはそれぞれ、散弾銃と、先程の、蛇腹の様な機構を持つ、無骨な剣。
そして身に纏う服。それは、間違いなく狩人の物だ。ただ、彼の知る物とは様式がまた異なる。未来のものか?
否。よく観察すれば、所々に、狼の知る狩人装束の意匠がある。それは先に進むにあたり残されたような意匠ではなく、改良を重ねられる前の、そういった物。どれほどかはわからぬが、過去の産物なのだ。
ならば此処は、過去であるのか?否、今はどうでもいい。
鼻が利かぬ。それは、獣と血の匂いのせい。
だが、それでもわかる。相対しているこの狩人は、己の味方では、到底無いと言う事が。
「aaaagh!!!」
ぎぃん。大振りの鞭じみた斬撃を楔丸で防ぐ。弾く事は出来なかった。その独特の軌道は、弾く瞬間の見極めを困難にせしめている。
だが大振りな軌道という事は、即ち、振るう者の隙も大きいという事でもある。防ぎ、揺らいだ反動をそのまま懐へ潜る推進力に用いる。忍びの脚故に出来る移動である。
そうしてそのまま、廻るような斬撃。
旋風切り。
かつてのそれを、より反撃に即した形へと変え、繰り出す。
苦痛と衝撃に怯んだ所を、更に忍びの連撃が襲う。
それは刀では無く、打撃。拳を用いた連撃。
拝み連拳。
人中、水月、恥骨。そう云う順で、炸裂した。
堪らず、体勢を崩したそれを刃が貫く。忍殺。
「uughh…aa……」
死に行く男の断末魔は、死を拒むものであった。が、それは、ただ生き延びたいという思いからの悲鳴では無い。
もっと血を。もっと死を。
もっと、獣の死を。獣どもに、惨たらしい死を!
死する目が、そう、語っていた。
「……」
…
……
地獄。
これをそう言わずとして何と言おう。
地獄のようだと思った景観は、今迄もあった。
だがこれは、「そのもの」としか形容出来ない。
餓鬼道じみて、抵抗しない獣を狩り続ける狩人。未だ燃ゆる獣の死体が掛かる教会の祭壇。流れ続け、作り上げられた血の、死の河。
血の河に居座る、蚤のような多足体。昏き洞穴の中の、惨状に、毛皮が削ぎ落ちた犬。
極め付けは、そこかしこに落ちている常軌を逸した、武器らしきもの。正気とすら思えぬそれを、だが拾う。蔓延する狂気、それをすら味方につけられれば、これより心強いものもないのだから。
だが、決して呑まれてはならぬ。何度も、何度も思い返す。
そうでなくば、幾度も、幾度も死に、苦痛を味わい、繰り返し、繰り返しこの光景を目に焼き付ける最中で、とうに狂っていただろう。
そう、そう。
彼は此処に来て、何度も、何度も死んでいる。
攻撃が苛烈で、悪意に満ちていた。
それまでと、比較が出来ないほどに。
獣、獣、獣。どこもかしこも獣ばかり。人の悪辣と姿をそのままに、獣としての獰猛が襲ってくる。
だから、目の前に、身を窶した男の姿が見えた時。
それが真に人であるとは思いもしなかった。
楔丸を構え、切りかかり、かけた。
「…っと。待った。
あんたまだ、まともな狩人じゃないか?」
が、瞬間。その理性ある声に動きを止めた。
何とか、攻撃を止める事が出来た。
「…っ。ああ、その、つもりだ」
「よかった、俺も同じだ。
…あんたもここに迷い込んだのかね?」
「『迷い込む』だと…
…此処は、一体、何だ?」
「…ここは『狩人の悪夢』。血に酔った狩人が、最後に囚われる場所さ。あんたも見たろう?まるで獣のように、さまよう狩人たちを」
「……」
「…あんたもそれに成り掛けてる、って所だったか。まあ、何にせよ、今のあんたの目はさっきよりは大分マシだ。あんな、哀れな行く末には、ならない方がいい…」
そう語る男…シモンと名乗った…の言う事に、忍びは身を摘まれるような気持ちになる。殺戮の悦楽には呑まれて居なかった。だが代わりに、恐怖と疑心暗鬼に呑まれかけていた。名こそ違えど、形の違う、鬼だ。
反省するべきだろう。
「先程は、済まぬ」
「なに、気にしなくていい。
俺もさっきは、そのまま殺そうとしていたからな」
「…本当なら、狂いかけたあんたを宥める程親切じゃないんだが…あんた、格好といい、外から来た人だろ」
「……ああ」
「だろうな。そう思うと、少し、気の毒に思えた。
そんな気まぐれだ」
そう言うと彼はまた、自嘲気味に笑う。
確かに、奇怪な形の曲剣を手にしているところを見るに、降りかかる火の粉を払おうとしていた事に間違いは無い。だが、それはまた致し方の無い事だろう。少なくとも、このような状況では。
それでも、殺しを申し訳なく思う。心根が優しいのだろう。
「…この先にあるものは、おぞましい秘密だけ。教会が、ビルゲンワースが隠した罪の跡。それを見ても、何も無いだろう。特に、余所者のあんたにとっては」
(…『ビルゲンワース』…!)
「だから悪いことは言わない、囚われないうちに戻りたまえよ。⋯それともなにか?悪夢に、興味があるのかね?」
シモンは、それを冗談のつもりで言ったようであった。しかし狼は、大真面目に頷いた。
興味、というには些か不純ではあるが、しかしその奥を暴きたいと言うことには変わりはない。
忘れ、無かった事にして、この悪夢より帰るには。
今聞いたその言葉は、あまりにも聞き捨てがならなかった。
ビルゲンワース。その、名前しか知らぬそれを、知る事が出来るのか?医療教会の実態を知る事が出来るのか?ならば、この悪夢には、自分にとって価値があるものとなる。
窶した男は、驚愕でこちらを見て。
後にゆっくりと、笑った。皮肉じみて、憐むように。
「ほう、それはそれは⋯悪夢の内に秘密を感じ、それを知らずにいられない⋯あんたもう、ビルゲンワースの立派な末裔というわけだ」
「…為すべき事の為だ」
「…どちらにせよ。そういう手合いにとっては、この悪夢は甘露にもなる。あんたにとって、そうなると良いな」
「…」
「…だが、注意することだな。
秘密には、常に隠す者がいる。⋯それが恥なら、尚更というものさ」
「…それは…」
お主の事か?そう、聞こうとした。
だが、その語る様子を見て、違う事が分かる。
ならばここには、それを秘匿し、守る恐ろしい何かが存在しているという訳だ。それは狩人か、獣か。
いずれにせよ、それを撃ち倒し、進まねばならぬ。
シモンの居た場を少し進むと、そこは最初に狼がこの『狩人の悪夢』に辿り着いた時の、教会だった。
…そして、目の前にはランタンがある。
今、現出したのか。それとも、あの時は焦りと、狂乱で気付けなかっただけか。どちらであろうと、ここからあの『狩人の夢』を経由して、己の知るヤーナムへは戻る事は出来そうだ。
だが、まだ、戻らぬ。戻れない。
ここは、この悪夢には何か手掛かりがあるやもしれぬ。
それを、知ってしまったが故に。
甘露たる秘密を暴かねばならぬが為に。
狼は、再び血溜まりを征む。
…
……
瓢箪を呷る。と、その一呑みで中身が尽きた。
しばらく経たねばまた呑む事は不可能になってしまった。
血の河を抜け、少し開けた場所に出る。
しかし、その先にはまた、薄暗い場所に続く道がある。
進む。ただ義手に仕込んだ、新たな武器を構え。
狩人の夢を経由し、ヤーナムには未だ、戻らぬ。
だが、彼処へと戻り、工房を用いる事はする。
そうしなければ、到底この悪夢を乗り越えられそうは無い。
薄暗い、広間に出る。
相も変わらずに、血塗れ。屍体塗れ。
いい加減に、血の匂いにも慣れきり、鼻が麻痺している。
だが、しかし。
匂いとは別にビリビリとした気配を感じた。
恐らくは獣によるもの。
だが、これまでに悪夢で出逢ってきた物…
…否。このヤーナムに来てから出逢ってきた獣とすら比べて、桁が違うような、恐ろしき害意。殺気。何処に居る?
「…ああ。あんた、あんた。助けてくれ…」
「!」
屍体であると思っていたそれが、そう嘯く。
這いずり、己に近づくように。
返事は、出来なかった。
それに気を回す余裕は、最早無い。
気配が、ビリビリとした気配が肌を刺している。
近づいて来ている。
「あいつが…」
「おぞましい、醜い獣がやってくる…!」
ずしん、と、一歩毎に地が揺れる音。
それは己らに近づいてくるこの気配の持ち主の巨軀を、そのまま、表していた。
「…ああっ…呪われた、ルドウイークが…」
おぞましい、醜い獣。
正に、その呼称の通りの生物が現れる。
毒により産まれた奇形児のように、用を成せるとは思えないように無造作に生えた足、もう一つの頭。死に、腐った馬のような頭に、生えた乱杭歯。背中には名残のように、一本の古びた剣が刺さっている。しかし、それを使う理性はとうに尽き果てているようだ。
「許してくれ…許して…くれ…」
その言葉を最後に狂ってしまったかのように、助けを求める男は、笑い始める。元々狂っていたのかも、しれない。
いずれにせよ、狼が出来る事は無い。
明日は、我が身だ。
目を見開く。瞳孔が開いている。
刀を握る手に力が篭る。
深い呼吸を、一つ、二つした。
そして、一言。自らに言うように、言った。
「……参る…!」
獣と狼が共に前に駆ける。
血飛沫が散った。
次回、醜い獣、ルドウイーク戦。