狼は教会に瞑目する。
此処は悪夢では無い。
ランタンを経由し、かの聖堂街、オドン教会へと戻って来ていた。
まだ情報の核心を手に入れてないのにも関わらず撤退した、理由は単純。自らの実力の不足をこれ以上無く自覚した故。
あの、己と闘い、今背にある剣の持主は無論の事。あの場に存在していた狩人達。それらは皆、己の手に余る程の実力であった。少なくとも、今の狼にとっては。
死なぬ身体に物を言わせ、試行錯誤を行えば、それで突破は出来るかもしれない。だが、その時の自らが、正気を保っているかは、怪しい。あのルドウイークのような強敵が在れば、あの力に頼らざるを得ないだろう。そうすれば、尚。
せめて、あれに頼らなくても良い程に。
自らを磨き上げ、その時に彼処へとまた挑む。
その時には、この月光の剣の使い方も慣れる筈だ。
そう、しなくてはならない。
それが、此処に、せめてもの正気のこの街へと戻ってきた理由。
端的に言えば、忍びは一度逃げたのだ。
あの悪夢から。あの、地獄から。
口惜しく悔恨の情が無いと言えば嘘になる。
だがそうするしか無いのだ。
それに、今の己にとっては、目的の遂行こそが最上であり、それに至る事が出来なければ、その時点でそれは下策であるのだ。
…さて。
この現代のヤーナムに於いてやるべき事。
禁域の森に行き、ビルゲンワースへと道を開く。
つまりはそれだ。
しかし、この聖堂街に人が居るかもしれない。
その為にまだ森に向かわずに隻狼は街を練り歩く。
同情や優しみなど、忍びらしくも無い。
それに、無駄な手間であるかもしれない。
それでも、何かを慈しむ一握りの想いだけは捨てられぬ。
それは、彼の握る刀の名ですらあるのだ。
皮肉にも、その無駄なようにも感じるその行動が、彼の精神を獣から遠ざけ、彼を救っていた。
…
……
「…あら?貴方、おかしな香り…」
「…む」
「ああ、悪い意味ではないのよ。寧ろ嬉しいのよ。血も獣の臭いも、もううんざりだもの」
「…お主は…」
「フフッ、分かってるんじゃないかしら。
私は『そういう』職の女よ。失望したかしら?」
「いや」
「そう?ならいいけど」
娼婦。聖堂街という場に似つかわしくない職の人物に出逢う事はしかし、正味驚くべき事では無かった。
如何なる場合や時でも、それらが必要である時はある。何かしらの営みを咎められる程、忍びは自らに価値を置いては無かった。
「でも、狩りの夜は店じまいよ。そうね…もし、『そういう事』なら、悪いけど一人でお願いするわ。…それとも、何か他に用かしら?」
「此処より安全な場を、知っている」
「あら…丁度、聞こうと思ってたのだけれど…
にしても貴方、その為に来てくれたの?優しいのね」
「…『オドン教会』へ行け」
「ああ、あそこの…ありがとう、貴方。
じゃあ今度また、そちらで逢いましょうね?」
「…その時は、お礼もするわ。フフッ…」
「…」
…一先ずこれで一人に伝える事は出来た。
後はもう一人、この街に正気の人間が居るが。
果たして、これを正気と言ってよいものか。しかし、狂っては無いという意味ならば、正気ではある。
にべもなく、話す寄る辺もなく袖にされたが、もう一度話しかけねばならないだろう。
今しがた話しかけた娼婦の、その向かいの家にある赤ランタンをコンコンとノックする。先程、そこに男が居た。
「⋯お前、俺を騙すつもりか?」
「…何?」
「知ってるぜ。あの売女に避難所を教えたんだろ?よそ者の言葉を信じるなんて、つくづくバカな女だ。股だけでなく、脳味噌まで緩いと見える。フハ、フハハハ⋯」
「…騙すつもりは無い」
「ああ、そうかい。で、どんな嘘を吹き込んだんだ?俺をだましたいんだろう?さあ聞いてやるぜ?」
「…」
この男が、言う事を信じ、避難をするとは思えない。
かと言って、もしもこの発言は臆病から来ているならば、己の発言の場所通りに移動するかもしれない。そう考えてしまうと、敢えて嘘を吐くなどは出来そうにない。
そも、狼は、虚言を操る事などさっぱりだった。
彼に出来る事は、ただ安全な場所を教える事のみ。
「オドン教会に行け」
「…フン。残念、俺は賢いからな。
…誰がそんな世迷言を信じるものか」
そう、唾棄され、そのまま会話は一方的に打ち切られる。
到底、良い態度とは言えない。ましてや、善意に行った者に対しての態度とは。正に、ヤーナムらしい、偏見と侮蔑に塗れた。
それでも狼は、彼が無事に来てくれたらと。
そう思った。
…
……
人の気配、その中で正気を保っていた人物に声をかけ、再び忍びが教会に戻ろうとする最中の事。
烏の羽が目の前を通った。人喰い烏の巨大な羽では無い。色は、いつか見た濡烏。それを辿るように、風の行く道を見やる。
「…お主は…」
それは、いつか市街で見た、あの狩人。
狂っていない、同業者の一人だった。
「…おや、あんたかい。まだ人のようで何よりさね」
「ああ。感謝する」
「何だい?感謝される筋合いは無いよ」
急な感謝を言われ、気味悪げにする烏羽。
彼が未だ人で居られているのは、彼女の発言のお陰である所もあるのだ。それを説明する気にはならなかったが、しかし、礼は言っておきたかった。
「…ああ、そうだ。ちょうど良かった。警告があるのさ。オドン教会の地下墓には近付くんじゃあないよ」
「何故だ」
「ヘンリック⋯古狩人が正気をなくしている。
そこに留まっているのさ」
「狩人、か」
「話そうなんて思うんじゃないよ。
…それに、あれは私の獲物さね」
「…」
「…クククッ…」
含み笑いをしながら、そう思案に戻ってしまう。その笑いに、何処か空元気じみた、無理を感じた。
さて。
烏羽の狩人は、墓場に居る狩人を自らの獲物だと言った。それを尊重する事も、大事であろう。
だが、しかし。狼には一つ、少なくとも会わねばならぬ理由があった。
それは、市街に行く為にはあの地下墓を通らねばならない事。
そう。彼はまた一度、ヤーナムの市街に行かねばならない。
手元に残るオルゴールを眺めて、そう想う。
この避難所に、少女は来ない。
…恐らくは、もう。
だからこそ己が確認せねばならない。
彼女の父を殺し、母の死の真実を伝えたのは他でも無い自分。
自らに責務がある。
故に、地下墓に向かう。
そして、通るとなれば、戦いは不可欠だろう。
…
……
未だ、あの神父の殺戮の匂いが充満した墓。そこに狂った狩人が居ると言っていたが、さあ。
墓に踏み込む。瞬間。横あいから何かが飛んできた。銃声は聞こえなかった。だが飛来物が危険であると、本能が叫ぶ。
苦無。否、幅が広く薄い、異国の刃。柄から見るに投擲用のものだ。それを、咄嗟に鋼の義手で受ける。軌道は己の眼玉を狙っていた。
そしてその刹那、陰から黄色い風が飛び出て来た。風などではない。これが、此奴がヘンリックか。その手には鋸と鉈を一つにした、奇怪な武器。見覚えがある物品だった。
狩人が鋸を自らに振るう。楔丸で受ける。それを気にせず矢継ぎ早に、連続に、鋸鉈を振るう。その度に小気味の良い音と、斬撃の火花が散る。
あの質量を、よくもこの速度で振るう事が出来るものだと畏怖する程の連撃の速度。だが、まだ狂ってしまっただけで、獣には成っては居ないのだろう。かのガスコインに比べれば、その膂力は人の範疇だ。
だが、まあ。一撃でも攻撃を貰えば致命的である事は同じ。一発一発を、手元を、足先を、身体のうねりを忍びの目で見て、弾いて行く。
以前ならば防ぎきれなかっただろうそれは、しかしあの剣聖の死合いを超えた今ならば、可能であった。背の大剣が瞬いた。
攻撃が途切れる。持久力の限界だろう。その隙を逃さず手裏剣を放ち、それと同じ速度で切り追う。
追い切り。
そしてまた、攻撃を続ける。
常人なら退くような傷。しかし狂人とは、常ならざる者の事を言う。ヘンリックは、刀を受けつつ、その鉈を振るった。
「…グっ…!」
一撃を貰う。又、連撃が来る。備えねば–––
だが、連撃は数巡の後も来ず。
代わりに視界に入ったのは、苦痛に呻く狩人。
片方の目に、ナイフが刺さっていた。
背後からの飛来物。その手主は、あの烏羽だった。
しゃらんと、刃が擦り鳴る。殺しの為に生まれた武器であるはずのそれからの音は、鈴のように清らかだった。
慈悲の刃が閃き、狂人を裂く。
流れるような両手の刃は、その一撃毎に煌く。
閃光と血飛沫が交互に、否。同時に散る。
その機を逃さず、忍びは背中の大剣を抜いた。
すらりと、仰々しく、しかし無駄無く。
平地を撫でるように、刀身を手でなぞる。
あのルドウイークが持っていたような、光の刃は出来ない。あのような、美しい翠では無い。
光はあくまで剣に纏うのみに収まり、その光は赫い。
ああ、そうだ。これこそが、狼が最も用いやすい形であるという事を、この剣は知っているのだ。
そうして、この形に成っているのだ。
放つ。
奥義・不死斬り。
擬き。
不死を断つ事は出来ぬこの技は、不死を斬る筈の奥義としては紛い物であり、出来損ないの、擬きもいい所だ。
だが、その威だけは、劣らぬ。
黄色の装束が、四散した。
狩人に死を与えるのは、これで三度目だった。
墓地に残るのは、烏羽の狩人と忍びの二人。
「…あんた、随分と人と闘う事に慣れているんだね。以前、そういう事をよくしてたみたいに…」
「……」
「まあ、それでも。あんたは今は狩人なんだろう。狩るのは、獣だけにしておくといい。狩人を狩るなんてのは、私に任せておけばいいのさ」
「…既に、幾人も殺している」
「だからこそさ。ガスコインを殺ったのも、あんただろう。これ以上はただ、獣を狩ればいい。それが、狩人なんだ…」
「…クク、クククク…」
そう、笑いだけを残して、烏羽は去って行く。
その背に帯びる哀愁は、鳥葬を現すようだった。
…
……
「……」
掌を、合わせる。
初めは、あの家に居なかった。
続けて、周りを探すが、死体は無かった。
最後に、地下道に進んだ。
人喰い豚の口の周りに、血がこびり付いていた。
…もしやと。
殺害した体内より、血塗れのリボンが出てきた。
大きさからして、少女のものだろう。
「……っ」
死している事は、予想していた。
飛び降り、地面に臓物を打ち撒けてるかもしれない。
獣に、裂かれているかもしれない。
どの様な姿であろうと、弔おうと思っていた。
だが、死体すら、微塵も残らないとは。
残るはただ、この、髪飾りだけ。
嘆きも、呻く事もしなかった。
ただ、額の皺が、ほんの少しだけ増えた。
ただ、それだけだ。
「…済まない」
約束の不履行を、静かに詫びる。
その言葉を聞く者は、無い。
…
……
扉の前に立ち、戸を叩く。
数秒程遅れ、声が中から聞こえてきた。
がらがらに嗄れた、老人の声。
「…合い言葉、だ…」
その言葉は、頭蓋に触れ、知った。
警句。身に染みるべき言葉。
「…『兼ねて、血を恐れたまえ』」
静かに門扉が開く。
開いた先には、人は無い。
ただ、朽ち果てた遺体だけがあった。
「…」
死体を踏み越え、進む。
人としての極北を突き進むように。
心中の鬱蒼をそのまま表したように。
隻狼は、鬱蒼とした森に一歩、踏み出す。
一度だけ本編に戻ります。