「ああ、狩人よ。君もかの光景を見たのだな」
「案ずる事は無い。智慧を得て、神秘にまみえ、啓蒙と共に在る。それは狩人の常であり、獣にならぬ人としてのよすがなのだから」
助言者は霧のように身を揺蕩わせ、かく語る。
「長い間。夢を見ている。私は最早狩りをしない。それでも私の役目なのだよ」
「助言者として。
そして、彼の友としてね…」
白い彼方へゆらゆらと消えてゆく。
泡沫こそが彼だったかのように。
『彼らとまみえ、彼らの瞳を得る。上位者よ。
瞳を。我等の思考にはもっと、瞳が必要なのだ』
『ビルゲンワース…ビルゲンワース…
冒涜的殺戮者…貪欲な血狂いどもめ…』
『⋯私は夢に疲れました。
もう、この夜に何も見えないのです⋯』
言葉が浮かび、散り、また瞬いていく。
そうだ、これは夢なのだ。
一抹の夢であり、そしてまた永遠である夢。
一瞬とは永劫であり、永劫とはまた瞬きである。
白い空間に、ただ思考だけが飛散する。
位置も距離も存在しないその空間を、矛盾するようではあるが、しかし俯瞰をして見ていた。見るという言葉すら不適当だ。辛うじて近い表現としては、感じる、だろう。
夢とは目覚めであり、目覚めとは夢。
表裏であり、確実に一つにはならず、しかし限りなく近しいのだ。
胡蝶の夢。邯鄲の夢。
これこそが現であると何を持ち言える?
目を瞑り、開ける。
全てが目覚め治る。全てが悪い夢だったように。
脳裏が蜘蛛を這い回る。
赤子の声が響いて仕方が無い。
『⋯瞳をおくれ⋯⋯ああ、はやく、誰でもいい⋯
⋯つぶらでもいい、いたいけでいい⋯』
呻き声。それが、意味となり脳をかき乱す。
かき乱った脳は、果たして夢か現か。
鈍色の輝きだけが狩りのよすがに変わる。
『…ああ。ついに、見えたのか。
こちらに、来てくれ…』
白痴の蜘蛛を見た。
秘匿の蜘蛛を。
人ならざる智慧を見て、神秘を得たものの姿。
醜い。
姿形では無い。近寄ろうと、その身を摺り寄せる、あまりにも醜悪な行動の末期の姿は、ひたすらに不快感を煽る。
蠢く瞳がへりくだるように裏を向いた。
求め、這い回る姿は彼らそのもの。
だからこそ同族嫌悪が苛むのやもしれない。
赤い月が照らす。
背の剣に放たれる赤光。
天に昇る月が、赤い。
悪夢じみた世界が脳を照らす。
此れは果たして真実の脳足るか。
浅はかな思考も、論理も、哲学も、信念も、研究も、殺戮も、迷走も、暴走も、破滅も。どれもかれもが同じに見えた。どれも同じく、断じて愚か。
なんだ、これは?
今、己は何と成り、何を見ている。
「…!
ああ、そうか。狩人よ。君は……」
…
……
「!」
気が付く。刀を突き立て、動かぬ物と化した姿を倒す、白痴の蜘蛛を目の前に。狼は口を開け、涎を垂らしていた。
頭が割れて裂けてしまいそうだった。
そう、ビルゲンワース、その寮舎に辿り着いた。
そうして、最後の学徒をすら斃し、征む内に、目の前を阻むこの蜘蛛を殺した。小蜘蛛を、空中より身を捻り、振り回すように一掃をし、親蜘蛛へと何度も、何度も刀を突き立てた。
それだけでは、死ななかったのだ。
そこまでは覚えている。
だが、何故今、死した姿で此奴が居る。蜘蛛の血を浴びた瞬間に、彼の思考は飛んで消えた。代わりに、情念と思考の渦に彼は囚われていた。
彼はそも、助言者に話を聞く為に狩人の夢に立ち戻った筈。であるのに、脳はその記憶を失っている。否、というよりは、そもそも『無い』といった方が近しい。
赤き星が瞬き、あぁ、上位の智慧が感覚を削ぎ落とす。
その智慧は、与えられたのでは無い。
身からまるで、湧いてくるようであるのだ。
すすり泣く女の声に誘われるように彼方を見る。
何も無い筈である虚空。しかしまた、今は存在する彼方を。
赤い月が上がる。青白い光はとうに消え失せ。否、そもそもの光こそがこれで無かったなど、誰が言えようか。
月明かりが、嘲るように彼らを照らしていた。
それに彼は戦慄する。
その光景に、まるで驚きもしなかった自らに。
その光景に既視感すら感じる自らに。これが当然という風に、安心すら得ているのだ。
赤子の声が聞こえてくる。
この声を止めてくれ。
懇願が宇宙より招き込まれる。
それは赤月光が増幅した狂気の幻聴か。
ああ、一つだけ覚えている。
啓蒙を得るという感覚。
それについて助言者から言質を得た。
見ぬべき真実を見る脳の瞳であると。
或いはその瞳を得た、歓喜とも狂気ともつかぬ感覚であるのだと。
全く持って、彼の感覚とは違う。
個人の感覚で済ませられる差異では到底無い。
では、狼がこれまでに感じたものは。
ぞくりと感じていたものは、なんだ。
超越した何かを見、聞き、感じて脳裏に蠢く『啓蒙』の二文字。
それが意味する所は、それを得たという事では無いのだ。
では、一体。そもそもの、この蠢きはなんだ。
そうだ。
不審に思わなかったか。
己はいつからか、怖気て死ぬ事も、発狂をして死ぬ事も無くなった。あの手に握り、潰されるまでに。何かを、感じてしまった後に。
判らない、判らない、判らない事だらけだ。
何かが判ると、その倍の数の疑問が脳を覆う。
なんなのだ。なんなのだ、この街は。
転移した隠し街の先。
狼はただ、当然のように這う多足の何かを。
巨大なアメンドーズを。
白痴じみて眺める事しか出来なかった。
彼は、何と成っているのか。