喉が枯れ、裂けるまでに張り上げられた叫び声。突き裂き、殺した断末魔。そこら中から聞こえる悲鳴。
悲鳴、悲鳴、悲鳴の嵐。
許されるならいっそ、耳を削ぎ落としてしまいたかった。それほど、声にうんざりしていた。
頭部が肥大化した者らは既に正気を失っているのか、それとも己を殺せば外に出られると信じているのか、なにかを守ろうとしているのか。いづれにせよ、忍びを殺そうと襲ってくる。
その膂力は、尋常ではない。身体の破損から身を守る事が頭から抜け落ちた生き物は、ただ何かを害する事のみに、これ程の力を発揮できるのだ。それまでに、幾度か体験した事があった。
そしてこの手合いは、どれにせよ殺すしかない事も知っている。
忍びは、血みどろだ。
どろどろと濁り、張り付く、健康体とは程遠い血。
この者らは、何かの病であるのか。
それともこれは、人を用いた非道の末路か。
進み、進む。
奈落の底じみた、その人の罪深さを表すようなそれを。
こうまで広い建物に、響き渡る悲鳴。そこから、大規模に、幾人もが関わった実験である事は分かっていた。そしてつまり、それの被害者も恐るべき数であるという事も。
だがそれでも、この被験者の数々は、狼の予想の遥か彼方であった。
それを思い知るは、進み殺した先の事だった。幾人かが出てきた大部屋に乗り込むと、患者どもが悲鳴をあげながら襲ってくる。いづれもが、その頭部を肥大化させている。痩せこけ、しかし骨肉が捥げる勢いで、その手足を振り回す。
複数を前にたじろぐ彼を、遠くから飛来する薬品が溶かす。半狂乱となった、これもまた頭部が肥大した者らが、投擲してきたモノだ。それはまた何かはわからないままに狼を蝕む。
何かが、そのまま致命的な傷となった訳では無い。だが、結局の所、全てが致命となり、忍びを襲い続ける。無数の痩せこけた手が影を引き裂く。撲殺する。溶かし。
残るは、渋柿の色すら落ちかけた、褪せた布。
死。
…
……
ああ、悍ましや。これが、人がする事か。
否、人だから、これが出来るのだ。
狂った患者を、どうして責められよう。
この数多の苦痛を、外道を、地獄を味わい。
人としてが消え行くその原罪を背負い、狂うなと云う事こそが、あまりにも残酷だ。
「ああ…殺してくれ…」
「マリア様…手を…手を握っててください…」
呻き声が埋め尽くす部屋の中に、唇を噛み締めながら、彼らを介錯していく。せめて、こうした方が救いであると信じて。
また、彼らは死ぬに死にきれぬ。
一度、あまりの悍ましさに目を背けてしまった。しかし、それでも普通なれば死に至らしめるものだった一刀。それが、ただいたずらに苦しめるのみで、介錯とならなかった。
何やらの実験に『耐えられる』ように。
彼らは、そのようにされているのだ。
目を見据え、首を狙う。
介錯をすると決めたのならば、成し遂げるのだ。
……その部屋の呻きが全て消えた後。
ふと、今首を刎ねた者の声を思い返す。
マリア。
誰の事だろうか。彼らを守らんとする人か。はたまた、彼らをこうした人物か。いづれにせよ、その女性は最早居ないらしい。だからこそ、こうするしか無い。
…
……
奈落を巡る。
中途、鍵を見つけた。窶した姿の彼と、シモンと共に通った、あの牢獄の鍵だろうか?
奈落を巡る。
暴れ回る、巨大な患者を見た。傷薬の瓢箪が空になってしまった。
奈落を巡る。
からくりを、梁を経由し動かした。
階段が、そのまま丸ごと上にずれた。どれほど高度な仕掛けであるのだろうか。そういったものにあまり関心がない狼すら、少し驚いた。
奈落を巡る。
駒鳥を名乗る、ぐにょぐにょと、蠢く頭部のみの患者。
彼女は再び口にしていた。『マリア様』。
奈落を巡る。
最中に、残影を再び見つけた。
ぱちん、と義手の指を鳴らす。
そこには再び、弦一郎の姿がある。
その傷ついた鎧に、数多の患者の血を纏わせた武者はそれでも先に進む。肩を押さえている。その負傷は、大分重いようだ。
傷を庇い庇い、それでも先に進む。
その目には、希望を見据えている。
彼はまだ、生きているのだろうか。
彼がただ死んでいる訳は無い。だが、このような状況では無事でいられるという保証もまた、無い。
この残影が、彼が過去にここに来たという証座であるのならば、尚更彼に追いつかなくてはならない。
隻狼は、先を進む。
奈落を巡る。
…
……
「…ぐ…」
首の失った患者が、徘徊する場。
頭だけとなり、それでも『何か』となり動く肉塊。
それらに、怖気、囚われ、止まり、殺されてしまう。
そうして、再び紫光の前に立ち戻っていた。
するとそこには、男の姿がある。
先ほど袂を分けた男、シモン。
紫ランタンの前に現れた忍びに、驚くような素振りすら見せないまま彼は話しかけてくる。
「……どうだい、酷いものだろう」
「……」
ただ、沈黙のみでそれを返す。
言葉よりも、雄弁な肯定だった。
「本当に、酷いものだ。血を恵み、獣を祓う医療教会の、これが実態と言うわけだ」
ああ、散々に見てきた。非道という言葉ですら足りない、この地獄絵図。外道は、職業柄、無数に見てきた。それでも正視に耐えぬ。
「これが、『秘密』か」
これが秘密であるのか。彼らが血眼に、何かを殺めてまで守り、秘匿しようとした、明かしたくない罪であるのか。成る程、こうならば守りたくもなる筈だ。
だが、答えは否。
「⋯いいや。こんなものは、秘密ではない」
「…何だと?」
「…そうだな。あんた悪夢に、悪夢の秘密に興味があるんだろう?だったらひとつ、忠告だ」
「秘密を、更に暴く道か」
「ああ。…貴公、時計塔のマリアを殺したまえ」
マリア、マリア。名前を幾度か聞いた。辛うじて意識の残る患者たち、頭部に押しつぶされ、いよいよ頭部のみとなった駒鳥達。
彼らは、彼女らは口々に名を出した。マリア様、と。
既に居なくなった者だと早合点をしていた。
だが、彼のその口ぶりであるなら、まだ居る存在であるのか?そして、そうであるならば、患者の心の支えであろうその女性を殺せというのか。何故?
否、分かっている。
秘を、隠すからだ。
「…クク、いい目だ。
そうだ、その先にこそ、秘密が隠されている⋯」
そうしてまた、シモンは歩き始める。
その足取りからして、忍びとはもう、共に行くつもりは無いのだろう。
「……グッ…またか」
その途中、頭を押さえ、何かを一人ごちる。
その額には、大きな皺が刻まれている。
何かに魘されるように。悪夢を、疎むように。
「ああ、すまん。
…やはり、あんたには聴こえていないのか」
「…何の話だ」
「…何、此方の話さ。
それじゃあ、また会う事もあるだろう」
そう、静かに去っていく。
ただただ、静かな男だった。
…
……
「ああ…私には無理だったんです…」
ある患者が嘆き、叩く扉を、忍びが見据える。
巨大な扉。風が、外に通じている事を示す。
そしてまた、獣とは違う、悍しい気配もまた、その先に何かがあるということを示す。あるのではない。居るのだ。
「…ッ」
立ち止まる猶予も、理由も、今の彼には無い。故にこそ進む。その巨大な扉を、両腕でこじ開けた。
そうした目の前に映るは、日輪草じみた、蒼い樹木。
強いて名付けるならば、星輪草とでも言おうものか。
その横横に映る、青白い物体。
否、生き物。
立ち上がり、よろめき、此方を向く。
それらは、失敗作。
星を失い、瞳を宿せず、智慧を捨て、何者にもなれず、何者にも接触し得なかったが故の落伍者ども。
落伍の烙印を押され、放逐された忌児。
うぞうぞと、それこそ花が生えるように。
それらが、無数に、数え切れず、出てくる。
失敗作。
失敗作。
失敗作たち。
青白く、五感すらも最早捨てたそれらは、ただ狼に向かう。それは、何かを守らんとすべくか。はたまた、失敗の烙印に狂った為か。
外道の落胤どもを散らすべく、背の月光が瞬いた。