初めに刺激されたものは二つ。
一つは、視覚。
時計塔の針が動き、差し込む光はしかし、何かに遮られているかのように仄暗く、どうにも病的だった。
一つは、嗅覚。
その匂いは最早嗅ぎ飽きたような血の匂いでは無い。それすら塗り潰すような別の匂いが鼻を突いていた。
雨が降り注ぐ。湿地を、ぐしゃりと踏みしだく。
時計塔の天辺から降り立った場に雨が降り、地平線と水平線が輩としている事に疑問を抱けるほど、もう狼はまともでは無かった。
ただ、当然の如く、歩き続ける。
「ビルゲンワース…ビルゲンワース…」
うわごとのように呟き歩きすれ違う老人。その目で、辛うじて人であるとわかる。それ以外は、怪物に近しい。
神秘にも獣にも堕ちし者ではない。
魚類、貝類に近い、二足歩行するモノ。
ゴポゴポと水泡が爆ぜるような音が聞こえる。
魚が人を模したような。或いは、人が魚を模したような。人外の怪物。
漁村。
悪夢の源。
遂に、辿り着いてしまった。
…
……
「…ハァ…ハァ…」
怪物達が集い、呪いと怨嗟が振り撒かれる最中を通り抜け、辿り着いた仮初の安息、その古屋。
絶え絶えの息を振り返るとそこには、身を窶した男が居た。血を流し、抉り、抉られ、最早どうしようもない傷を負い。
古狩人の、シモン。
愛弓すら取り落とし、ただ死を待っていた。
「…お主…」
「グッ……ああ、あんたか…
どうやら俺は、しくじったらしい…」
「その、ようだ」
「はは…そんな顔をするな…
別に、あんたのせいじゃあない…」
「……」
「⋯鐘の音が、まだ聞こえやがる⋯獣の皮の殺し屋が、俺を殺しにやってくる⋯ずっと、ずっと⋯終わりなく…」
「鐘…」
正気を失ったような独白。
ただ、どうしようも無いままに、聞く。
「…あんた、お願いだ⋯この村こそ秘密。罪の跡⋯」
「そして狩人の悪夢は、それを苗床とした⋯
⋯お願いだ、悪夢を、終わらせてくれ⋯」
「元より、そのつもりだ」
「…そうか、ありがとうな、あんた。
⋯ようやく、安心したよ…」
「ああ。ゆっくり休め」
「…ああ。頼む。たとえ罪人の末裔でも⋯憐れじゃあないか。俺たち、狩人たちが⋯⋯あんまりにも、憐れじゃあないか⋯」
「……」
「…この、鍵だ……
あんた……ここを先に……」
「……」
息、絶えた。
最期の瞬間まで、他者を思っていた。
罪人の末裔である狩人を哀れみ、そして、この次に災厄に襲われるだろう忍びに、鍵を託した。
優しい、男だった。それを愚かだと思う者もいるだろう。自らの身すら守れぬ男の、哀れな独善であると。
ただ少なくとも、狼はがちりと歯噛みをした。
手を合わせ、瞑目した。
そして、去る。向かわねばならぬところがある。それは、今、忍びの脳裏に響き渡る鐘の音と、手の内にある牢屋の鍵が示していた。
…
……
初めは、見ず、駆け逃げるしか出来なかった。
だが今、牢へ戻るにあたり心に余裕が出来た。
その余裕を持ち、村の景色を改めて見る。
地獄、という形容は、ヤーナムに来てから、この悪夢に彷徨い込んでから陳腐になるほどに使い尽くした。
それは、そうであるとしか言えなかった為。それを上回る、狂った光景への形容が無かった為。
しかしこの目の前の村はどうだろうか。
地獄という形容すら的外れ。
地獄とは、言い換えれば忍びの故郷、葦名における観念が通じた故に放たれた形容だった。人しての最低限の道徳、標準の指標があったが故に出てきた表現。
これは、最早そういったものではない。闊歩する魚人。錨槍を、鈍器を手に持ち無なる眼光を向ける村人に、身の気がよだつ咆哮を放つ魚面の畜生。怨念を放つ思念は刀が触れるや掻き消え、代わりに磯の香りが、その脳髄に届くまでに匂う。水泡が爆ぜて混ざる音が響く。
異界。
そもそもの、始まりが異なる世界。
そういった所に紛れ込んだ気分だった。
世界が、秘匿の過去により捻じ曲げられたのではなく、ただこの光景こそが当然の世界に己が紛れ込んでしまった、異物になったような心持ち。その感覚は、それまでに感じたどの感覚よりも、目が眩み、気が遠のくようだった。
その光景から逃れるように一度、枯れた井戸の中に逃げ込んだ。この中ならば恐らく敵は居ないと。だがそこには巨大な魚人が、錨を軽々と持ち上げ、唸り声を上げていた。鉤縄で咄嗟に戻る際に、天井に張り付くもう一体の巨人を見た。淡々と、何を見ているでも無い。感情などまるで無い目。
狂気、怒り、嘆き、使命。この悪夢に来てから戦う者には全て、そのような激情がその全身から漲っていた。
この村には何もない。
有ったにしろ、何も読み取れない。
ただ、魚類の顔がこちらを見てくる。
無造作に、無感情に。
狼は人知れず、嘔吐した。
内容物の無い、黄色い胃液。
口を拭い、歩く。
…
……
「⋯夜にありて迷わず、血に塗れて酔わず。名誉ある教会の狩人よ…」
こぉん、こぉん。
脳裏の、不吉な鐘の音が巨音となりて響く。
ここは、かつてシモンと共に駆けた牢獄。
念仏じみた狂呟と沸々と残る異常な気配がピリピリと狼を刺激する。あの時、シモンはこの奥より鐘の音が聞こえると言っていた。今なら、それがよくわかる。
「…」
鍵を手に、向かう最中の事。
鐘が、一際甲高く鳴った。
ああ、来るだろう。
流石に、予想は付いていた。
鐘の音が鳴る度に影が濃くなっていく。
具現化し、実像となっていく。
それは、獣の毛皮をそのままに被り、ヒトの腸を腰に巻いた、異形の狩人だった。
反応も終えぬ内に、その血生臭い狩人は、手に持つ小ぶりな槌を自らに捩じ込むようにして突き刺した。
は、と、想起したものは、つい先だって闘った狩人、マリア。その予想が正しくある事は果たして幸運か。そうで無いにしろ、槌はまた、その姿を自らの主の血により異形へと変貌した。
(……ッ)
後手に回るは下策。即座に、弾くように、踏み込みと共に刀を引き抜き斬りかかる。不意に斬撃を喰らい、血の狩人の手より、何かの薬が落ちた。呑めぬまま、砕けて割れた。
大振りな血の槌を狩人が振るうも、踏み込んだ一足一刀の距離であるならば、忍びの方が速い。そうであっても、秘薬を飲んでいたのであればその攻撃を耐える事は出来た筈だった。鉛の秘薬。しかしそれは、今や石畳の染みになり久しい。
血の狩人、ブラドーが槌を逆手に持つ。
その動作を見て、想起するはまたも古狩人。
正気を取り戻した聖剣の主、ルドウイーク。
とん、と背後に跳び距離を取る。
刹那。槌は地に置かれ、血の衝撃が円状に弾ける。引かねば、弾く事も防ぐ事も出来ず手傷を負っただろう。
久方ぶりの血の予感に、身震いをするような瞬きを放つ月光。狼はそれを引き抜いた。そして、攻撃を外した隙を晒したままの身体に目掛け、豪と、振るう。
…残るは、ただ獣の意匠を残した頭巾のみ。
終わってみれば、一方的な死合であった。
ただ、忍びの戦とはこういうもの。
一方的に殺すか、殺されるか。
これまでに此処にて蓄えた知識が無くば、一方的に殺されていたのは己だっただろう。
そうして、邪魔は無くなった。
そうして、牢の前に立った。
そうして、鍵が開けて放たれた。
「⋯ほう、これはこれは⋯
ようこそ、寝室に。お主がはじめての賓客だ」
「…それで。私を殺すのかね?」
「ああ」
「おお、そうか。
…見たところ君は、狩人では無いな。異国の、関係の無い者の筈だ。それでも、歪んだ過去を、愚かな過去を捻じ曲げる為に私を殺すかね?」
「…ああ」
「ククッ⋯⋯フハハハッ!偽善のつもりか?いづれにせよ、それは愚行の上塗りというものだよ。その捻じ曲げをこそ、望まぬ者の悪夢になるという事すら分からぬほどの愚か者では無いだろう」
「……」
がしん、と、義手が振るう。
付いている武器が変形を伴った。
それは、ある狩人の武器。
「…ほう。これはこれは。
仇討ち、という訳か。ならば止めはすまい」
それは、窶した狩人が持った、奇怪な剣。
彼の古き友以外は、彼のその姿を見て嘲った。
弓で、獣に挑むなど、と。
ぎり、と張り詰め、矢を放つ。
シモンの弓剣。
「…誰であろうと、何であろうと変わらぬ。それが人の性ということかね⋯ククッ⋯クハハッ⋯カハッ…」
最期の言葉は、怨みより、諦念や哀れみに近しく聞こえた。そしてまた、霧のように消えた。
残るは、あの禍々しき槌。
瀉血の槌と呼ばれる、狂気。
「……」
拾い上げ、装束にしまう。
使わず終いならばそれで良い。だが、これを使う時も来るやもしれない。そう、思って。
牢の鍵は、他にもある。
実験棟にて拾った鍵。
折角の機会だ、全てを暴こう。
それが、我が力となるのならば。
…
……
様々を終えて、今此処に漁村に戻ってきた。
血の狩人を斃した事。
それは、この探索のスタート・ラインに過ぎない。
己は、今またこの村を巡らねばならぬ。
隻狼は気つけに口内を強く噛み締めた。
じわりと広がる血の味が、酷く気持ち悪かった。