賢者を嘯く愚者ほど厄介な者は無い。それが囁く言葉は真の賢者よりも、余程熱心に他の愚者を導く為だ。誤った、啓蒙へと。
真実に近しい言葉とは、多くの場合において酷く苦々しい。対して、虚実なる賢者の発言とは、愚者が心で求める言葉。智慧の届く水平線が、その発言を甘い蜜足らしめるのだ。
ああ、扇動が悪意によるものならばどれほど良いのだろう。だがそれは善意にこそ放たれる誤ち。故にこその警戒と懐疑を忘れた者らは、溺れる。最早何が正しいか、何が目的であったのかすら分からなくなり、沈んで初めて、自らが崖の下に居る事に気付くのである。
潮の香りが身体に染みつく。
愚なる末路のその先が、身に染みる。
ビルゲンワースは確かに、この光景を、自らが求める答えに辿り着く道であると信じていた。そしてまた、その欲求の為ならば、何者をも踏み躙っても構わないと考えた。否、そもそも、人として見なさないが故の蛮行だったのかもしれない。
彼の行動に、悦楽を伴わなかったと誰が証明できようか。彼の行動の、虐殺における快楽が無かったと。貪欲に、血に狂い、血に酔い、蹂躙する力に酔いしれる。学徒と探求における者達が呑まれてはならないもの。獣としての本能が求める、血の渇き。
この呪いは、故にこそ来る。
呪いと呪い、そのずっと深い汚物からの産物。
怨みなどと云う言葉では形容しきれぬ。
怒りなどと云う言葉ではよほど足りぬ。
悲哀などと云う言葉では掻き消え得る。
言葉などでは、想いなどでは消化しきれぬからこそ、悪夢が今ここにある。狩人を呪い続ける。そして、隻腕の狼がここにいる。
雷を放つ怨霊の魚の脳らしき部位を引き裂き、逃れ込むように、銛を持つ魚人の懐に駆け、抜き胴気味に腑を切断する。足を止めず走り抜け、鉤縄を持って飛ぶ。梯子に飛んでそのまま降りる。降りた先には、足元の限りに、青白い磯が広がる。まだびちびちと跳ねるそれの上に、貝に蠢く女型の中身を見た。
夜にありて迷わず、血に塗れて酔わず。
あの、牢屋の中に居た男を思い出した。
成る程、狂うた気持ちがわかる。この淀みを、狂おしき様を。直視し、狂える事のどれ程喜ばしき事か。
あの東洋風の出立ちは、おそらくかつて出会った『連盟』の長、ヴァルトールが語っていた異国の連盟員。
その話を、何かでも聞ければ良いと思ったが、すっかりと狂ってしまい、話などまるで出来るようでは無かった。
何を見て、あそこまでに狂った。何があって、ああなった。それの理由が今しがた分かった。
何故己は狂えぬのだろう。そのような弱みが、心の奥底からほんの少しもたげる。何を考えている。狂い失せる事は許されないのだ。
消え失せそうなまでに希薄になる自らの意思を、ただ死なずを断つという一念をのみ芯にして、征く。
隠されていたのならば、隠さねばならぬ理由がある。つまりは、その奥底に、この呪いの、全ての元となった物がある。この悪夢は悪夢故に在るのでは無く、何かの限りない呪怨があるからこその空間なのだ。
それを断つ。
ビルゲンワースの犯した罪。それをさえ知ることが出来れば、狼は最早この悪夢などどうでもよかった。そしてそれは、目的だけを考えるならば今でも同じ。
しかし今は、おめおめと戻る事は出来ない。
あまりにも、様々な物を背負い過ぎた。
あまりにも多くのものを奪い過ぎた。
だから、征む。
正気などとうに擦り切れているのかもしれない。
…
……
「……ここは」
ぽつねんと落ちた血の狩人の装備を辿るようにして、ある場所に着く。どうにも既視感を感じるようなその光景。その、空気。生臭さは、最早慣れてしまって感じないが、この洞窟と地下にある特有のくぐもった湿気と音響。
これは、あの枯れ井戸に繋がっているのではないか。巨魚人に恐れて逃げ出した、あの井戸に。
敢えて戦うと言うことも無い。
だが、あの先に何かしらが落ちている可能性もある。
「…」
逡巡の後、そう、決めて。
方向に向けて歩き始める。
そうしてふと、音に気付いた。
耳障りな不協和音、耳を塞ぎたくなる声。
か細く、描き乱れた歌。
歌。歌?
鼻唄、に近しい。だが、確かに歌だ。
歌が聴こえてくる。
ただ、その歌を聴いただけで怖気が走る。
らん、らららんと。その声だけで恐怖がよぎる。
ばっと視線を向けた。
その先の道に、殻を捨てた貝女が這いずり逃げる。
必死に、何かから。
逃げた方向の逆から、歌は聴こえてくる。
その生き物は、ただ当然のように姿を現した。
見て、初めに思ったのは『ほおずき』だった。
いくつもまあるい物がはりつくそれは、六角状の萼のようで。あの、橙で何処か美しい、ほおずきのようであった。
身体を這い回るように視線を感じ、皮膚の下を百足が暴れるような不快感と痛みが狼を襲う。それに、げろげろと嘔吐した。無理くりに吐瀉物を飲み込み、刀を構える。
長身の身体に、巨大な頭。あの丸い何かは眼のようにも見える。瞳が脳にいくつもいくつも、埋め込まれた状態のように。そう見えた物は、彼が幾度も見かけ、世話になったもの。使者の死体を固め込み、ぐちゃぐちゃに混ぜ込んだものだ。
がしんと、手裏剣を放つ。刺さった。
微動だにしない。
狂気に根差した存在が、虚無であるように。
膝から力が抜けていく。
この痛みは、狂気における錯覚だと感じていた。だが、本物か。これは、狂気と怖気の産物では無い、ほおずきの攻撃であるのか。
もう遅い。
頭が下から、ぱかりと開いた。
そこには蠅取草じみた、貪る口が幾多も牙を剥いていた。
死。
…
……
傀。
義手に、青い文字が光る。
それは背後からの来敵を予測していなかった巨人の頭部に突き刺さる。もし、巨躯故に通用しなかったりだとか、脳の位置が異なっていたら、という懸念もあったが、無事に通用したようだ。
錨を持った魚人が暴れ回り、もう片方の魚人へとその凶器を叩きつける。その様子をまた、忍びらしく、影らしく、隠れて見ていた。敢えて全てをこの手で殺す必要は無いのだ。それが手段としての最適解である事が多いだけで、他に適解があるならばそれをする。
片方が、その身を砕かれて死んだ。
生き残った方は、錨を持つ、傀儡の方だった。
そしてそれもじきに、斃れる。
時に忍びは、砕かれ、内側がまろび出たそれらの死体にふと、光を受けて閃くものがある事に気がつく。
拾い上げ、汚物と血肉に塗れたそれを見てみる。
既視感のある武器だ。
時計塔のマリア。彼女が使っていたそれに、そっくりなのだ。だが、様々なパーツの違い、その刀身がその機能により血を纏わせられぬ事から、異なる物ではあるのだ。何より、彼女があの時持っていた物がそのままここに落ちている訳がないのだから。
刃は、鋭く繊細で、弾く用途に用いる事は難しそうだ。そして何より、二刀の扱いの得手を狼は持っていない。
古狩人の死から、武器を奪っていく。
あまりにも汚らわしい事だ。
聖剣の主。時計塔の番人。優しき弓取。教会の暗殺者。
どれも、それぞれに誇りと信ずるものがあった。
それを横から奪う。盗賊の方が、まだ良い。
自嘲じみた笑いなどは、しなかった。
ただ、額の皺が深まる。
…
……
貝女が畏み、畏み。願う先がある。
そこは洞窟の先。海に繋がる。
そここそが遙かなる呪いの果て。
この悪夢の、種であり元凶。
丁度、それが始まった所だった。
破水。
ぶちぶちと母胎の身体を千切りながら何かが産まれ出でる。出産に、狼は丁度、始まった所に立ち会った。
産まれる事を拒まれた水子は、夢を羊水とし、初めて胎内へ宿り、胎児として呪いの生を受けたのだ。
老いた赤子。産まれるべきではなかった背徳と呪詛の塊。灰色の肌と既に生え揃った乱杭歯は呻き、軋む。そして、有り得てはならぬ速度でその二本の脚で立ち上がり、歩き出した。
産声を上げた。赤ん坊の声と老人の呻きの混じる、悍しい音だった。啜り泣くような、呪詛のような。
そして、ごぼごぼとまだ動く胎盤を片手に。
ただ、海を眺めていた。
ゴースの遺児はただ、海を見つめていた。
次回、vsゴースの遺児。