右眼が燃え尽き、右の視力を失った。節々から炎が漏れ出し、動きのそれぞれに炭の匂いを燻し出す。脂と血肉が焼ける、火葬場に酷似した悪臭。身体中が熱を持ち、歩く事すら重圧となる気怠さと苦痛を与える。
そのような劣悪な状態とは裏腹に、狼の技は、動きは、思考は、冴え渡っていた。全ての動きがスローモーションに見えるほどの集中。コンセントレーションの極地。
あの時のようだ。黄泉還った、全盛の剣聖と闘った時のような、びりびりと肌に突き刺すような緊張。
精神も体もが蝕まれている事実すら、忘却の彼方に置き去りにする程の覚醒は、故にこそ忍びに宿り、上位者の水子に一歩も引かぬ剣戟を是としている。
そしてまた、その技術の冴えすらも力で捻り潰すかのように、ゴースの遺児の暴虐が爆ける。技を、冴え渡りなど関係なく。目の前の、呪われぬ全てを許せないかのように。
幼年期は終わる。呪い、怨念と、更に悲願たる、生まれたいという想いが、遺児に成長を齎したのだ。誰も彼もが不幸になる、誰にも望まれなかった成長。望まれるは出生のみであり、それが全てだったのだから。
空に翔け跳び、降り落ちる胎盤の破片。
全てを前に、前に、駆け込み避ける。
降りてきた遺児の、足を狙い刀を突き刺す。
半ばまで裂くも、そこで止まる。脱皮したての蜥蜴のように、皮膚は柔らかくなっている。それでも尚、刃は通らない。
狂乱の叩きつけ。四連の、耳をつんざく悲鳴と共に繰り出されるそれを、初弾と二打目を弾き、残る二回をすれ違うようにして避ける。
懐に飛び込んで来た忍びを、払うように胎盤をぶん回す。それの大きさも、先ほどまでとは随分様変わりしてしまったものだ。辛うじて弾く。
水子が遠くに跳び、胎盤へと手を突っ込む。再び赤子が呪詛の肉片を吐き散らしてくる。中途まで避けるが、その物量に、一つ当たる。
「…ッ」
呻きを上げる余裕すら無いまま、揺らめく。集中とはつまり、痛みすらも殊更に感じるという事。地獄じみた痛みが神経を襲うが、それでも戦いへの集中は途切れない。
この身の異常を、しかし受け入れて刀を振るう。否、そちらにすら気を割く余裕すら無いのだ。
勝ちの目はほぼ無い。唯一通るであろう武器…不死の月光…を振るう隙など、到底無い。新たな技を繰り出すような肉体的な余裕もまた、無い。
だが、心の奥底には沸き立つような闘志と、勝てるという不穏なまでの確信があった。この猛撃をこそ耐えれば、勝利の芽が息吹くと。
死中に活。言葉にすればなんと陳腐な事か。
そんな陳腐な言葉が、今や頼もしく思える程。
手裏剣を一射、二射。それぞれに穢炎と剛力を込めた遠投。かのルドウイークにすら痛手を与えた業火だったが、二発とも不完全燃焼の炭のようにくすぶるのみで燃えず、皮膚が止める。
返答とばかりに、遺児がその巨大な身体を翻し、手の内を振るう。弾き、しかしその弾きをものともせず、振るう。
幾度も、幾度も振るう。
幾度も。幾度も。幾度も。
「ぐゥ……ッ!」
永劫にも感じるような殺戮の空間。もしこの空間に何かの生き物が入り込もうものなら、瞬時に赤黒い塵芥になるだろう。
ぐわん、ぐわん、と一打毎に、楔丸ですら折れかねない程の轟音と衝撃が走る。
無尽蔵のような持久力。だが、相手は生きている。産まれ、血肉を持っている。その以上、限界は必ずある。その一念だけを、心を折らさぬ支柱にし、ただ弾き続ける。
瞬間は、訪れた。
稚児が唐突に目の前の玩具に飽きるように、急激に叩きつける事をやめる。そしてまた遠くへと跳ぶ。そう、しながらも呪いの肉片が豪雨のように浴びせられる。
地獄の瞬間を切り抜けた困憊の狼が、それを凌げた事は奇跡と言ってもいいだろう。
そして、刹那。
「…g…」
「……Oghhhhhhh!!!」
老人の慟哭。はたまた、子供の悲鳴。
どちらでもあり、どちらでもない声が響く。
この瞬間を待っていた。
唯一の勝機はここにこそのみある。
ゴースの屍体に目掛けて堕ちる天の災い。
落雷に向けて、狼は鉤縄を精一杯に伸ばす。
身体が千切れそうな痛みと共に、実際に弾け、千切れたような速度で、空を飛んだ。
「応……ッ!」
落雷が、忍びを打つ。
これは、自害か、不運か。
否。これこそは彼の身に残る、忍びの技。
かつて狼がその牙を退けた、宮技の、返し。
かつて葦名に、あやかしきたり。
あやかしの雷は、源の神鳴り。
神業無くば、弾き返せぬ。
即ち、地に足つけぬ、雷返しなり。
方向を変えた雷はそのままに、遺児を撃つ。
その身体は炎も雷も通さない。恐らくは神秘の力をも通さないのだろう。だが雷と云う、桁の違う、災害そのものの威力。流石に、その牙はただその切れ味のみに由来し、首筋へ届く。
初めて、ゴースの赤子が膝を突いた。
それを視認してから、刀を仕舞う。
代わりに義手を鳴らし、そうして、矢を番えた。
手裏剣では通らなかった。
ならば、これならどうか。
シモンの弓剣。
鋼の義手が、軋む。
鉄製の弓の弦が、素手による引き絞りに千切れかける。それ程の剛力で引き絞る。かの狩人への鎮魂を、眼前の呪いの死と共に。
火粉が舞う。解き、放つ。
弓剣が、ぱきんと気味のいい音と主に砕けた。弦が弾けて飛んだ。その代償と共に発せられた矢は、赤子の左の膝を撃ち貫き、ぱぁん、と、破壊した。
「……ggh…!」
信じられぬような趣で此方を見る老いた赤子。
あの脚では最早飛び回る事は出来まい。
回避も出来ず、攻撃の手も緩まる。
確かな隙が幾つもできるだろう。
今こそ、不死の月光を振るうか。否。振るう時は仕留める時で無くてはならない。その動作を学ばれ、それへの対処をすら見極められてしまえば、その時こそ『詰み』だ。
だからこそ。
魚から鱗を削ぎ落とすように。
蛸からぬめりを落としていくように。
丹念に目の前の呪いの強みを剥いで行く。
「……gggh…!」
人々の怨嗟と呪詛の塊が、恐怖に震えた。
隻狼のその顔が悦楽歪んでいる事を、その言葉で指摘する者は、居ない。
鉤縄が、破損した膝に巻きつき、傷をぶちぶちと引っ張り広げながらも巻き取り、近づく。
抵抗するように胎盤の肉片が飛び散るが、しかしそれは全て当たらない。忍びが避けるまでも無く、懐に潜り込んだ者には最早飛道具は当たらないのだ。
遺児の懐にて、仕舞ったままの刀を居合いじみて引き抜く。まだ動く片方の足に刀傷が付いた。その切れ込みに、切先を向ける。
仏を彫るように。
修羅を鎮めるように。
鋼の義手を、刀の柄頭に叩きつける。
仏師であった彼のように。
遠い昔のようにすら感じる仏彫の姿を。
かつん、と。
「Gyaaaaaaa!!」
削り、彫り込み、じくじくと刃が刺さっていく感覚。
その感覚に、打ち震えた。
血肉を割く感触。吐き気をすら催すその感触が、今や歓喜となりて久しかった。
胎盤を振るわれる。が、当たらない。
産まれて初めての感情に、赤子の動きは定まらない。
そうだ。次は、その振るう腕を取ってしまおう。
修羅が、太い腕に向けて切先を向ける。
鏨は再び、その牙を剥いた。
かつん。
「Gyiiiiiiaaa!!」
おお、片方だけだと均整が取れぬだろう。
親切が、修羅の歪んだ笑みになる。
かつん。
「Ghhhhhh……!」
呪いである故に。
産まれなかった故に。
怒りであった故に。
悪夢の中の水子であった故に。
老いた赤子が永劫知らぬままだったもの。
恐怖。絶望。
初めて思い知る、生き物としての当然。
胎盤を、腕から取り落とす。
四肢を捥がれ、ただ残った頭部を地に向ける赤子。
そして、その前に立つ隻腕の修羅。
悠々と、立ち尽くすその姿は。
どこか、禍々しい。
朱色の修羅は、ただ静かに背の月光を抜いた。
聖剣は、煌々と、愉しそうに、赤く瞬く。
魔、魔、魔。
破、破、破。
豪、豪と、月光が猛る。
月が太陽の光を照らすように。
月光が、忍びの心の激情を映し出す。
それは、秘伝・不死切りに近しい。
その溜めも、赤黒い墨のような光も、正に。
だが確実に異なる。
開祖・呪い断ち。
その名こそが、相応しい。
神秘の赤き月は、上位の落とし子を芥に変えた。
崩れ落ち、はらはらと消えゆく受胎した身体。
失せ消える悪夢の苗床。
そしてまた名残のように残る黒き呪い。
それすらも静かに、消え去る。
海へ。
母なる、海へ。
海と呪いに底は無く。
故に、全てを受け入れる。
空には、翳りが消えた病んだ太陽が、忌々しい光を照らしていた。
悪夢が、終わった。
忍殺。
…
……
「……く、くく」
誰も居ない海の原で、狼が笑う。
否。彼はもう狼ではない。
忍びですら、無くなった。
そこに残るは、ただの抜け殻だ。
刀を引き抜いた。
その沸る渇望の赴くままに。
義手から炎が溢れる。
穢れた欲求の奔流のままに。
歩き、動く度に黒い火粉が飛び散る。
身体の至る所より焔が舞い飛ぶ。
だがその炎は熱さを感じさせぬ。
毒蛇が自身の毒に神経を犯されぬように。
それまでは、浅瀬だった。
その力だけを借りようとも、自らの心の内に残るよすがに触れれば戻る、微かな堕落。
だが最早、そうはならなかった。
その心は、悦楽と快楽に浸りきっている。
何かを殺し、血を浴びる快楽に。
狂気と快楽と呪いと怨嗟。
降り積もるそれらは、最早。
歩みを始める。
ただ、殺戮をのみするために。
身体が、残り火に触れた灰のように燃え盛る。
ただ、生きる篝火を絶やさんために。
悪夢の果て。
呪いの逆子はここに消え失せ。
朱色の修羅がここに産まれた。
悪夢を終わらせる代償に。
一人の武人が、修羅に堕ちた。
野にはむくろが、山となり
竜泉川は、あけの川
鬼はおおかみ、あけの神