黒だけが其処にあった。
目をぱちりと開けた筈なのに、その目に映るは暗闇だけだった。夜闇に慣れた忍びの瞳にすら、何も見えない。
目を開けているという事すら、思い込んでいるだけなのではないか。ここは何処なのだ。己は、今何処に居る。どうして此処に在る。そんな事すら、どうでもいいように思えた。
此処が、地獄だろうか。それならば、凄惨な光景を散々に表したその言葉の場所が、実の所、このように何も無い場所だとは。
どこか可笑しいような気持ちになった。
かっと、光が差した。目が眩む。光の先に何があろうか。光の当たる場所に居る事の罪悪感は、何に由来しての事か。
光の先に、影がある。物にしては大きく、そしてまた、人にしては小さい。
嗚呼。手を伸ばしても遠く。
二度と、最早見る事など無かった。
龍の呪いを受けし者。
忍びが、付き従っていた者。
「…九郎様……」
その姿は、かつて失った主人そのものだった。
主人が何か、口を開いた。声は届かなかった。音が、水の中より朧だった。
ただ、その形を取っているだけの化物かもしれない。可能性は十二分に存在した。
であるのに、そういった事は全くもって考えなかった。
ただ身体が、本能が、主人の前に跪かせた。
膝をつき、顔を上げる。
酷く、悲しそうな顔をしていた。
もう来てしまったのかと。
そう、言いたげな、深い悲しみの顔。
そして、悲しげな顔のままに。
ー狼よ。また、私と共に来てくれるか。
口が、そう動いた。
手を差し伸べた主人のその姿に、ただ平伏する。
元より己は影。主のある所にあるのみ。
何の因果か、影だけが取り残された。
その無念がここで、正される。
忍びの左の腕が、主人の腕を取った。
血の通わぬ鉄の義手でない、肉。
さん、と。白刃が、腕を通り過ぎた。
繋がった手は落ち、周囲の黒へ飲まれていく。
痛みは感じなかった。
そうだ。この左腕の痛みは、とうに無い痛み。
既に、失われた痛みだ。
白刃の先を見やる。
ああ、そこには彼が居る。
葦名弦一郎。己の腕を切り落とした男。
ぎりと、こちらを睨んだ。
張り詰めた弓のような視線だった。
ー去れ。
ーまだ貴様は、此方に来るべきでは無い。
そう言い、背中を向ける。横に佇む、狼の主人を伴って。
追い縋ろうとする忍びに、口が動く。
ー俺は先に往く。
ー狼よ。貴様は精々、其処で足掻くといい。
そうして、光の先へと消えて行った。
その背にはしかし、哀しき決意を感じた。
光へ消える直前。
九郎は、足を止めた。
今ならば、彼に追いつける。
その足を駆動させ、走る。
置いていかないでくれと、願うように。
ー狼よ。お主はまだ、そちらに居られるのだな。
ーならば、さっき言った事は、取り消そう。
光の先へ、先へ。
泥を掻き出すように光へ向かっていた忍びに。
九郎の視線が静かに合った。
ー私は最早、其方の主人では無い。
もう其方に命ずる事は出来ない。
ーだから、此方に来たいのならば止めはしない。
光に拒まれるように。
闇に誘われるように、動きを止めていた忍びに。
す、としゃがみ、目を合わせた。
ーだが、一つ我が儘を言えるのならば。
私は、其方に生きてほしい。
ー我が、生涯の忍びよ。
お願いがあります。どうか。
「人として、生きてくれ」
鮮明な音は、光の奔流へ変わる。聞こえたその鮮明さは、そのまま残酷さのようだった。
…
……
「……お帰りなさい、狼」
「……」
「ふふ、相変わらず無口な事。でも良かった。貴方まで、私を置いていってしまうのかと思っていました」
「…」
妙齢の薬師が、嬉しそうに笑う。
怒り顔の仏像が、己を見ていた。
これは、幻か。夢か。
どちらにせよ、実に隙間風の酷いこの寺が、やけに心地の良い空間に思えて仕方がなかった。
これは、あの魔都よりの帰還を遂げたのか。
はたまた、走馬灯が照らす、己の幻影か。
どちらにせよ彼は、言わねばならなかった。
「又。暫く、留守にする」
「そう、ですか」
為すべき事がある。
為さねば、ならぬ事がある。
それは、任でも、命ぜられた事でも無い。
これをせねば、己は前にすら進めない。
前へと、己は進まねばならないのだ。
捨て鉢では無い。
寧ろ、未来を見据えた故に。
だからこそ。
「必ず、戻る」
「…そう、ですか。
それならば、安心しました」
煤けた身体を、払い直した。
髪を、後ろに結ぶ。
装いを、あの日に残した渋柿の装束に包む。
置いていた、幾つかの忍具を手にした。
そういえばと、ふと、気になった事を声にした。
一度、会えたのなら聞こうと思っていた。
あの、傷薬瓢箪が在ったのは、お主の仕業かと。
くすり、と微笑み、エマは頷いた。何処かへ行ってしまっても、貴方を守るようにと、縫い付けておいたのだという。
奇形の仏像を目の前に並べる。
この姿は、なんなのだろうか。
あのヤーナムに居た、偉大なる上位の者の姿か。
まだ、見ぬ。幾つも腕を持つ、怪物。
これが己を彼処へと連れて行くのだ。
掌を、合わせた。
背に、声が掛かった。
「ずっと、待っています。
貴方は約束を破りませんから」
「……ああ」
やり取りは、それだけだった。
すうと、消えるように。
忍びは荒れ寺から、再び姿を消した。
…
……
狩人の悪夢。
白い花畑の中に、狼は寝転んでいた。
楔丸を片手に、むくりと起き上がる。
動く人形が、心配そうに首を傾げた。
使者たちが怪訝そうに纏わり付く。
ランタンより蘇る事。それが怨嗟を祓うかもしれないという、弦一郎の予測。それは、惜しくも外れだった。狂気が、啓蒙が、積み重なりそのまま消えぬように、人の縁と呪いが生半に消えてしまう訳がないのだから。
だが今の彼には、最早怨嗟の欠片も残っていない。
これは、どういう事だろうか。
まるで何かが全てを、彼岸へと連れて行ったようだ。龍が火を喰らい、それらを連れたようだ。
ぐ、と、拳に力が篭る。
最早あの修羅の力は二度と使えぬだろう。
それで、良い。
元より、頼ってはならぬ力だったのだ。
先程までの記憶は、はっきりと残っている。
荒れ寺での、遺された者同士の再会。
そして……
(…生きる……)
人として、生きる。
なれば、人としての生を歪める不死は正さねばならぬ。死なずの者が、どうして人としての生まれと言えようか。
ここヤーナムでの目的は、何も変わる事はない。
だがそれ以外の彼の全ては変わっていた。
ただ追憶と後悔の中の、心中の主に殉じようとする狂信の徒。それまでの狼は、それだった。未来など、己の命など要らぬという狂信。
今は違う。確かな信念と願い。想いがあった。不死を断ち、そこで終わりだった彼の目的は、更なるその先を初めて見出した。
不死を征伐し、人間として老いる。死ぬ。そうだ。あの光は正しく、己を照らす未来の光だったのだ。
すう、と。息を吸った。
肺に満ちる狂都の空気が、いつになく力をくれた。
鍛冶。
彼のそれを表すのは、それが相応しいだろう。
血錆と、怨嗟にぼろぼろになった懐刀は、最早、二度と何をも切れぬなまくらと成り果てた刀は。
今、主の願いという槌に打たれた。幻影か現やもわからぬその鋳造は、遺りし今とその未来という鋼を用いて鍛え上げられた。
任のその先を鍛えた、希望というヘパイストス。
隻腕の狼は、今此処にその刃を研ぎ澄ました。