少し、場を戻し。
大聖堂の教会へ足を踏み入れる。
身体が、何をしたかは覚えている。
修羅にその思考を埋め尽くされた時の行動。
それはあくまで己の意思だった。だからこそ、この眼に焼き付けなければならなかった。その、罪を。
死した、烏の羽が入り口に散乱している。
元より深い傷を負っていた。
だが、致命的であるのは心の臓を貫いた刀傷。
その刃の形を、狼は良く知っていた。
烏羽の狩人、アイリーン。この街で、己に人として戦うという事を指針付けてくれた人物。それをこの手で、殺した。
「……ッ」
忍びという職業柄、この手は血に染まり切っている。昨日までの味方の喉笛を掻っ切った事も、よくある事だった。今更、殺しが心を苛むという事はしない。それでもこれは、少し、堪えた。
だが、目を逸らしてはならない。
まだこの罪は、序の口なのだ。
禁域の森には、死した連盟の長がいるだろう。
そして、何より。
(……)
足が重かった。確認をして、あの殺戮が真実だったと知らしめられたくなかった。そのような保身をする自らを恥じた。
…オドン教会に着いた。
入り口の前には、四肢をバラバラに切り落とされたアメンドーズ。教会の中からは、つんと血と糞尿の香りが漂う。
そこには、真っ赤な空間があった。心臓から、頸動脈から、噴水のごとく溢れ出た血液が染めた真っ赤な床。
そこに居た老婆も、赤ローブの男も。娼婦も。
白刃の元に、虐殺されていた。
誰がやったのか。
その答えは、既に持っている。
そうだ。他でも無い、この己なのだ。
「……済まぬ…ッ」
歯を噛み締めて、膝を付いた。
このような謝罪で赦される筈もない。
それでも言わずにはいられなかった。
免罪を求めるそれではない。
だからこそ、その謝は止まらなかった。
…数刻後、狼が立ち上がった。
そこに最早迷いは無い。
己が犯した罪を背負っていく。その覚悟はとうに済ませたつもりだった。それでも、目の前にして、揺らいでしまった。
だが、決めたのだ。
主人の命でも、遺言でも無く。
ただ己の意思を持って、生きるのだと。
鎮魂の合掌を終え、その場を去ろうとした狼。
瞬間。
「…?」
何か、脳髄に疼きを感じた。
何がという、わけでは無い。
ただ無視は出来ない。そのような、疼き。
娼婦、アリアンナの死体。その足元。
そこに何かがあるような、そのような気がした。
異形が、あった。人の身体より産まれた赤子のように、臍の緒が繋がっていた。冷たくなった娼婦の身体にずるずると、まだ親元から離れられないというように。
人の赤子のような産まれをしている癖に、なんという様だ。なんという、悍ましさだ。形容がそのまま、正気を蝕むような肉塊。
既に、息絶えている。
だから狼はそれには注目はさほどしなかった。
代わりに、娼婦と赤子を繋ぐものに関心を抱いた。
す、と楔丸が両端を千切った。
臍の緒を、何故持ち歩く?
自分に問いかけてもわかりはしない。
ただ、必要な気がした。
この先に進むにあたり。
否、この上位の思考を読むにあたって。
今度こそ、ここでやるべき事はした。
紫色のランタンの前に、座り込んだ。
…
……
ヤハグルの隠し街。再誕の広場。
弦一郎との死闘を終えた広場のその先へと進む。
身体が、覚えてある。弦一郎を。そして、それまでに、修羅となった己が殺した全てを。
烏羽の狩人。血鴉。連盟の長。
無辜の民。多くを殺した。
その恨みが、怨念が、形代が狼の身を纏う。心残りこそが、己の技の依代となる事を彼は知っていた。
死をすら、無駄にするものか。
ただ、自分の身勝手な都合で殺した者たち。であるからこそ、その死を無意味にはしたくなかった。
歩いた先には、道は無かった。
そこには、無数の木乃伊があるのみ。
頭には、よくわからない何かを被っている。
それは、何かを受け取る為の受信塔であるようにも見え、また、思考を閉ざす檻であるようにも見えた。
その中の一つ。確かに死んでいるはずの木乃伊の一つが、その瞳にまだ意思を宿しているような輝きを見せた。
その輝きに、手を翳す。
その行動はなけなしの好奇心由来であったか。はたまた、いじらしい手掛かりの捜査であったか。少なくとも、行動に意味はあった。
狼の意思が薄弱となっていく。
それは、心が、精神がという意味ではなく、ただ意識が遠のいて行く事を感じ取っていた。
そして、この感触。
どういう事か、一度既に体験した事があった。
これはいつだったか。
これは、三猿が守っていた封印の世界に移るような。そして、アメンドーズに握り潰され、悪夢に迷い込んだ時のような。
この、ヤーナムに来た時のような。
デジャヴに近しい思考だけが脳を巡り、それもまた、どんどんと薄れてゆく。辿り着く先は、知るよしも無い。
…
……
は、と目が覚める。
目の前には紫色のランタン。
そして、木造の建物がある。
扉、本棚、柱が木で出来た建物。
国は当然異なる。
また、育ってきた境遇も、時代も。だがこの様式の建物。どこか、思い当たる節があった。
まるで、何かを溜めておくような。
備蓄などでは無い。
何かを教えて伝える為の、知識の蒸留。
実例と実験と文字が紡ぐ、過去の知識の連鎖。
そうだ。ここは、学舎なのかもしれない。
忍びは、証拠なりがある訳でも無しにそう考えた。
まあ何にせよ、己がやる事は変わらない。
目の前にある扉を、警戒と共に開ける。
不意打ちは、なかった。
だが代わりに、遠くに生き物が見えた。
それは、体液のようだった。もしくは水銀に命が宿ったもの。否、蛞蝓と人が混じったような。そう。人である事に間違いはないのだ。顔が、鼻が、両手がある。足は、無いが。
手にはぎやまんの容れ物と、中には何かしらの薬。そして、大きな本を持っていた。何を学んでいたか、最早読み取る事は出来ない。言葉は通じぬ。そして、読み取ろうにも、その眼は、真っ暗に凹んでいた。
躊躇せず、刀を抜き放った。
動きは酷く鈍い。首を貫いて、更に袈裟斬り。そのまま、逆楔型を描くように斜め上に切り上げる。人ならば、獣ならば死ぬ筈だが。
案の定、それは死ななかった。
だが、傷が残らないという訳でも無さそうだ。
苦悶に身体を捩り、動いている。
これならば、ちょうどいい。
あれを試す機会であるかもしれない。
義手を、ばちんと換装する。
中に仕込んだ武器が、青白い火花を放つ。
隻狼はそのまま、義手を目の前の学徒に挿し込んだ。そして、それを起動させる。
換装の際に放たれたものは火花などではなかった。
それは、雷光。
紫電に魅入られた男がいた。アーチボルド。彼は狂人の謗りを受けながらも、しかし黒い獣が放つ雷を求め続け、生涯をその再現だけに費やした。この武器はその末路を辿る、呪われた武器。
しかし、忍びがそれを知る由も無い。
トニトルス。修羅の己が、悦楽の為に、殺戮の為に、使えるやもしれぬと懐に仕舞い込んでいた、新たな仕込み武器だった。
効果は覿面。雷光が走るや否や爆発するように学徒は死に絶え、残るはその水銀のような身体のみ。この先、炎をすら喰らわぬ相手が居るかもしれない。その点においてこれは、頼り甲斐のある武器だ。
そう思いながら、また歩を進める。
…
……
【ウィレーム先生は正しい。
情けない進化は人の堕落だ】
ああ、やはりここは学舎だったようだ。ここを巡る内に、上記のような書き殴りいくつも見つけた。
その言葉はどれも何を言っているのか、さっぱりだった。
【ローレンス達の月の魔物。
『青ざめた血』】
だが、何処かひっかかるものがあった。
それは、心を惹きつけて、やまない単語。
【三本の三本目】
何を、三本持っているのか。
何が、三本目であるのか。
さっぱりわからない。
だが、どうしてもそれは狼の心に残る。
脳が、ずきずきと痛む。
痛み、ついでにふと思う。己が此処に来てにあたっての疑問は、いくつも解消されてきた。偶発的であったり、本人が解き明かしたり、様々ではあるが。
だが、一つ。
己が何になっているのか?
それは、まるで解決の目処が立たない。
否、寧ろ深まりつつある。
このメモをすら、どうして読めるのだ?
果たして本当に、あの夢を経由した副産であるのか?
それはまた、当然考えても答えは出ない。だが、この変化は、人として生きようと願い始めた己に取っては、間違いなく不利益を齎すものであるというのは、滑稽なほどに確信していた。
…
……
「…おや、君か。遅かったじゃないか…」
「…?」
蜘蛛の身体に、人の顔。その憎たらしい顔はしかし、理性を持つ者のそれだった。故に狼は背後より斬りかからず、代わりに言葉を投げかけた。そうすると帰ってきた言葉は、まるで旧知の友にかけるようなものだった。
「すまんが、考え事をしているんだ。私は神を…アメンドーズを、失った。新しいそれを、探さなければならないのだ」
「…俺が殺した者か」
「ああ、なあに。君が気に病む事は無い。
信仰の対象を見つけてはいるのだよ」
「しかしねえ…友情をそのまま信仰に入れ替えるなど、あまりにも無粋で失礼だろう。例えそれが本質的にとても似通ったものでも…ウヒ、ヒッヒヒヒ…」
「……」
この街の住人は、相手が全てを知っている事を前提として語るという事が当たり前の文化なのだろうか。常々、そう思う。狼はいい加減に、うんざりとしてきていた。
会話の代わりに、無言で背を向けた。
「おや、もう行くのかい。それは残念だ。もう少し、私の悩みを聞いてくれてもいいだろうに…」
「まあ、いい。君も早く『こちら側』に来たまえよ…この調子ならば、次会う時にはそうかもしれないな…ヒヒヒ…ハハハ!」
…
……
扉を開く瞬間に、その感覚は再び訪れた。
紫の瘴気が滲むそれに触れた時のそれは、また、この学生棟に来た時のような感覚。悪夢に堕ちるような、夢の中を溺れるような。
夢の中で、更に悪夢に沈む。夢の深部に潜り込むような。果てに辿り着いた場所の周囲には、苦悶の顔が張り付いていた。そして、橙色の光を放つ、高い高い登楼。
ああ、ここはまた、悪夢であるのだ。
雰囲気。空気。纏わり付くような感触。
そして、むせかえるような血の香り。
それらは全てあの『狩人の悪夢』で経験したことのあるものだった。
だが、あの時とはまた違う何かもまた同時に感じた。
獣でも、血の香りでも無い。
どちらかというならば、あの漁村に近しいような。
まあこれもまた、考えても答えは出ないだろう。
そう考えて、橙色の光に身を晒した時だった。
(……これは…!)
狼は、此処が悪夢であるという事を思い知る事となる。その身を貫くは、狂気の槍だった。
周囲を見る。
そこには、穴ぼこの死体があった。
(……!!)
土竜が日に焼かれ、死ぬように。
忍びは登楼の光を忌々しげに睥睨した。