隻腕の狼、ヤーナムの地に潜む   作:澱粉麺

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目覚めぬ世界

 

 

『アッハッハッハッ!』

 

 

耳障りな笑い声が回廊に響く。瞬間、白い骸骨のような傀儡が、ともなく吊られ、動き回る。

ただ走り、逃げるあの男を追い、そのまま着くだけならば容易かっただろう。しかしこの傀儡達が居てしまう。

 

そしてこの傀儡が、意外なまでに厄介だった。

そこに生き物としての意思は無い。筋肉の動き、動こうとする視線の揺らぎ、息使い。それらを見る事が出来ず、行動を読み辛い。元々命の無い人形故、無茶な動きも出来る。そして何しろ、壊してもキリがない。

 

当然、単体では強いという程では無い。また、その数もそこそこ程度であり、多くは無い。しかしそれでも、上記の様な理由で狼は静かに足止めを喰らってしまっていた。

 

 

 

ふと、足を止める。このままでは埒があかない。そういった、焦りにも似た思いが過去を追憶させる。

 

思い出すは、幼き頃の事。

幼き己を拾った義父は、ある日、己を薄井の森に置き去りにし、去った。それ自体に何か思う事は無い。それは彼らの親子にとっては当然であったし、ただ、そうやって親子を続けてきた。

 

物の怪じみたまぼろしが延々と、森に残る生き物を襲い続けるその森は不気味な静かであり、夜目を効かせ、睡眠を取りつつ脳を起こしておかねば死ぬ。かといって、休まなくとも、疲労のままにまぼろしに貫かれ死ぬ。そのような事も重々に恐ろしかった。

 

だが最も恐ろしき事は、その森が森であった事。

どこを歩こうと同じような木々が鬱蒼とする森。目印をつけようとどれほど役に立とうか。彷徨い歩く内、どうしても腹が減る。喉が渇く。腹が減れば力が出ない。それだけならまだしも、飢えは終いには正気を失わせる。

 

如何に幼き身体とは言え、激しく動くには、虫や木の皮では足りない。故に、幼き狼は狩りをした。まぼろしからすらも逃れ得る、危機管理の達人とも言える動物達。彼らは追えども追えども、追いつけぬ。こちらの行動を先読みをして、逃げてしまう。あの時の、ひりつくような焦燥が今でも忘れられぬ。

 

死なぬ為に、必死に考えた。そして出た答えは、馬鹿馬鹿しい程に単純であった。が、それは少なくとも、その場の狼の命を救った。

逃げれ得ぬ場所へと追い込む。崖の淵、まぼろしの闊歩する道、倒木が塞ぐ道、ほんの小さな洞窟。そういった場所へと、逃げさせながら追い込むのだ。

 

『逃げさせ』なければならぬ。外敵より逃げているという危機感が、思考を追い込まれているやもしれないという考えへ続かせなくするのだ。

 

 

 

「!」

 

 

背後からの傀儡の一撃が回想を解く。

からがらに避けた一連の攻撃に、傀儡は動かなくなる。

ちょうど、これ以上の回想も必要なくなった所だ。

 

行き止まり。逃げれ得ぬ場所。あるか。

あった。少し大きな部屋。欄干があるが、そこから飛び降りようものなら、そのまま彼はただの赤い染みになるだろう。

 

そこからは、早かった。

回り込み、逃げさせ、逃げさせる。

敢えて道を開け、傀儡へ殊更に苦戦する振りをし。

 

 

『…Oh。』

 

 

檻付きの男、ミコラーシュは小さな嘆息と共に足を止める。止めざるを得なかったのだ。唯一の出口には、今彼を追い立てていた忍び、否、狩人。

そのような状況だったが、しかしその顔には粘着質な笑みが浮かんでいた。

 

武器を取り出す気配は無い。

ならば、今のうちに叩く。

ちゃきりと楔丸の鯉口を切り、掛かる。

 

そのまま、一撃がミコラーシュを切り裂く。

その感触に驚き、狼は動きを一瞬止めた。

人外の感触であったという訳では無い。むしろその逆。あまりにも無防備な人間そのもの。間違いない。彼は、戦いにおいて、どの付く素人であった。余りにも久しいそのような感触に、動きが止まったのだ。

 

 

皮肉にも、その良心じみた反応が彼を救った。

 

ミコラーシュが無防備で、武器も構えない手を此方へ向けた。びりびりと、嫌な気配を感じる。まるで大砲の先を向けられているかのような、ぞくつく感覚。

 

あの延長線に居るのは、絶対にまずい。

その確信だけ頼りに身を横に捩らせた。

刹那、何かが恐ろしい勢いで目の前を通り過ぎる。

蛸、烏賊。多肢類の腕のような不浄。それはしかし、それらの絡み付く為のものではなく、命を奪い去る鋭さと威を持っていた。ほんの少しの躊躇いがなければ、あの触手はそのまま己の首を飛ばしていたであろう。

 

成る程。

戦いに於いては素人。

だが、こと狂気に、神秘に於いては、玄人。

目の前の男は、そういう存在なのだ。

 

再び一刀を振る。それもまた深々と切り裂くが、出血の代わりに姿を消してしまう。霧のように、ふうわりと目の前から消えた。

 

 

「!」

 

 

死んだのだろうか?

否。どこからともなく、声が聞こえてくる。

 

 

『おお、素晴らしい!夢の中でも狩人とは!』

 

『…けれど、けれどね。

悪夢は巡り、そして終わらないものだろう!』

 

 

 

狂奔。正気を忘れたように、唾液を流しながら宇宙を見るその目の中には真実に近づいた者の光がある気がした。

 

だがどうあろうと、この先を阻む者ならば斃さねばならぬ。

 

そうして、また、『鬼ごっこ』が始まる。

 

先ほどのように行き止まりに追い立て、動けなくする。そうする事自体に何も変わりは無かったが、ただ鏡に入りそのまま走り抜けていった事には閉口した。追いつく目の前に鉄戸が上から降ってきた時は、正直に苛立った。

 

だが、とうとう、先程のような状態に追い込む事が出来た。

相も変わらず、ミコラーシュの顔は、笑みのまま。

 

楔丸の一閃。

それに反撃するような素手の一撃が来る。

想像していたよりも、随分と重い一撃ではあったが、それまで体験してきた攻撃に比べれば、まあ、さほどでも無い。

 

初めて見た時は肝を冷やしたあの触手も、事前に来ると分かってしまえば当たる道理は無かった。それを背後に跳び、避けた。

 

さあ、いよいよ止めを。

そう斬りかかろうとした時。

 

ミコラーシュは両腕を合わせ、頭上へ挙げた。

何かを畏み、拝むような動作。見方によれば命乞いのようなその所作は、それでは無いという事は身体が感じ取っていた。

 

危。

鳥肌が立っていた。

あれを止めなければという感覚が脳を突いている。

だが間に合わぬ。

それ程、あの動作は洗練されていた。

戦いの為ではなく、何かと交信する為に。

何かに陳情する為に。

 

夜空の星が瞬く。

その光を、狼は見た事があった。

悪夢の中の失敗作たち。彼らが用いた神秘の光。

ああいう光であるならば、つまり。

 

無数の瞬きは、次の刹那には迸る。

青白い光線は神秘の剣となり、触れるものを穿つ。

彼方へと呼びかけたその力は、その全てを狼に牙を向けた。

 

 

鉄傘。否、間に合わぬ。霧からすも同様。

着弾の位置を見て避ける。それしか無い。

 

初弾を、避ける。

だがその次に更にその倍の光線が此方へ向かう。

それをいなせば、更にその倍。

生き残れば、更に倍。

残れば、更に…

 

 

……

 

 

 

死。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

そうだ、恐らく。

あの悪夢の主は、己を悪夢を構成する一要素としか見做していない。それは軽んじているという意味では無く、夢を見るあまり、どれが夢の産物であり、どれがそうで無いかという区別が、とうに付かなくなってしまったのだ。

 

それならば、納得出来る。

弄ぶような彼の言動も、正気を失っていながらも自らに言い聞かせるような説法も、甘く見るような全ての態度も。

自らの夢に殺される事など無い。

油断や余裕というよりも、当然の思考。

 

だから、笑っているのだ。

だから、『夢の中でも狩人とは』と嗤うのだ。

自らを笑う、嘲りにも近い哄笑だったのだ。

 

自ら望み、自らが辿る境地に着き、絶頂にある彼の姿。第三者の姿を自らの主観のみで語るなど傲慢で愚かだと分かっている。だがそれでも狼には、幸福であるその姿が哀れで、どうしようも無く思えた。

あの木乃伊の中に彼の身体があるのだろう。

最早、夢から帰る先も無い。

此処に囚われる事が彼の残された唯一の幸せかもしれない。だが己の道の為には、ここから彼を解放する他無い。

 

 

眼下に映る、ミコラーシュを睨む。

二階の、欄干部分から忍びは彼を覗く。

ミコラーシュは忍びを待つ。自分を追いかけてくるその影を、なんとも嬉しそうに。

 

 

追いつく必要は、無い。

先は、冷静を失ったが、今やこうすればいい。

 

欄干から、跳ぶ。

楔丸が鉛色にぎらつく。

 

走り去ろうとする檻を掴み止め、胴体に脚を巻き付ける。そうして体重をぐるりとねじれば、横倒れになった男の両腕を封じ、その上には刀を持つ男。そんな状態の出来上がりだ。

過去、這う這うの体で学んだ柔術のようなもの。

 

心臓を貫いた。

だが死なず、震える手を此方に向けてきた。

それを、義手に装備された曲刀で切り落とす。

 

初めて、眼から笑みが消えた。

再び楔丸を振り下ろす。

今度はその顔を、鉄籠の隙を突いて。

 

祈ろうとするような手の動き。

最早、緩慢とも言い難い程にスローだ。

再三に渡る、刺突。

初めて痛みを感じたようなけたたましい断末魔が響く。

 

 

『ギャアアアアアアアアッ!』

 

 

もう一度、突き下ろす。

挙げた手までもが、力を無くす。

 

 

『ああ、これが目覚め、すべて忘れてしまうのか⋯』

 

 

それを末期の言葉として、一度消えた時のような。

初めから何も無かったように。

最初から、ただの悪い夢であったかのように。

跡形も残さずに、死体が消えていった。

あの意思が帰る場所はどこにも無いのだろう。

 

ただ、鎮魂よりも手癖のように。

片手で合掌をした。

 

忍殺。

 

 

 

 

……

 

 

 

きりきりと吊り橋のワイヤーが、静かに降りる。それはミコラーシュが堰き止めていた想いであるのか、はたまた、その先に居る何かが誘っているのか。

どちらにせよ、これで終わっていた道が新たに開けた。もし誘っていたのならば、何を考えて己を呼び寄せているのか。そうでなくとも、この先に一体、何が待っているのか。

 

どうであろうと進む。

ここ、ヤーナムに来てから、幾度も幾度もしてきた事。疑問など、犬にでも喰わせてしまえばいいのだと。

 

だがこの時だけは、どうにも後ろ髪を引かれるようだった。じりじりと心を焼くように、わけのわからない焦燥があった。

 

それを振り切るように、また、一歩を踏み出す。

 

 

 

 

 

 

 

 




ーー戦いの残滓・悪夢の主、ミコラーシュ。
心中に息づく、類稀な強敵との戦いの記憶
今はその残滓のみが残り、
記憶は確かに狼の糧となった。

異端とされ、外道の限りを尽くし、破門され、それでも真実を追求した末の真実は彼を受け入れはせず、ただ夢に留めさせた。どうあろうと幸福では無いそれは、ただそれでも真実を求める彼の幸福だったのだろう。
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