死を覚悟する、という感覚。幾度なりとも経験した事がある感覚だ。ヤーナムに、悪夢に来てからでは無く、産まれた時から。葦名の地にて、己が忍びとして産まれ直した時から幾度と無く。
死への恐怖は動きを鈍らせる。蜂鳥が優雅に羽ばたき、水滴が王冠を作る瞬間の世界において、その鈍りは致命的になる。故に、恐ろしき敵の前に、己は死人であると思う。命への執着を失くす。
だが、これの前には、それすら感じないのだ。
目の前の敵は巨大でありながら、強大で無く。
無貌でありながら、無窮である。
そこには悍ましさすら無く、肌を刺す敵意すら無い。
闇だ。夜の闇がそのまま立ちはだかっているような錯覚を受けた。
だから、ぬるりとその無形の脚が近付いて来た時も、それが近付いて来たという認識が起きなかった。
は、と刀を構えた刹那。
しゃらん。
刃繚乱。斬撃が雨霰と成り、世界へ降り注ぐ。一閃は瞬きの間に幾十の閃撃へ変わり、その全てが鎌鼬の如くの鋭さをその身へ刻む。
乱舞じみた、斬撃の霧雨。
しかし、忍びの眼はそれの全てを捉える。
左上。ほぼ同時に右横。潜り抜けつつ弾く。三方向。上、右斜、右。左に楔丸を構え前に擦り抜ける。瞬間に飛んでくる斬撃を既に構えた刀で受け、弾いた反動のままに対角線上の斬撃を弾き、弾き、弾く。
危。
乱舞が止まり、脳髄が死を察知する。
瞬間、下方向より強烈な回転を伴う刃が襲う。その動きは舞踊のようですらあった。
ぞん。隻狼の身体が裂かれた。
だがその身体はふうわりと消え失せる。
代わりに残るは烏の羽と、触れたものを侵食する激毒の血。
乳母をじくじくと蝕んでいく。
羽の追う先はその敵の、頭上。
そこから唐竹割りの様に楔丸を叩き付ける。血は出ない。当たった感触はある。苦痛を与えたかは判らない。手応えも、また解らない。
霧のように消える羽はまた、修羅の己が手に入れた者。
その霧から匂うは異国の香り。
そして、呪われた血の香り。
『狩人狩り』。そして『血濡鴉』。
一対の呪われた狩人どもがその身に纏った鎧は、それぞれの地獄をくぐり抜けていく内に、葦名の「ぬし」に比肩する力を手にしていた。
血濡れの霧がらす。
さて。攻撃をしたはいいが、それは有効打となったのか。
だからと言って、引くだけではどうともならない。
活路を見出す為に、懐に潜り込む。
メルゴーの乳母。彼女の腕は、長い。
懐に潜り込めば、先程よりその剣戟の数が減る。
無論、攻撃が無くなる訳では無く、防ぐ手段が無い者が其処へ潜り込もうものなら、即座にずたずたのくず肉になり果てる。
だが狼には、防ぐ手段がある。
そしてその手段とは、攻撃そのものであるのだ。
弾き。
優れた忍びの防御は即ち攻撃となる。
その者の力を利用し、調和を崩し、体幹を壊す。
それがこの上位者に食らうものか。
問題はそこである。
そも、身体があるのか。
そも、体幹などというものがあるのか。
それはつまり、人という低い次元の目線からの発想であり、人智を越した者にはそのようなものすら無いのではないか。
毒が狼の心を侵食していく。
不安という毒。芯まで染まれば、二度とは立てぬ猛毒。
それを打ち払うように、ひたすらに弾き続ける。
乱舞が止まる。隙に、刀を振るう。先ほどのように、ごお、と虚な音がするだけで血などは出ない。怯むような素振りすらも。
もし攻撃が喰らわないのならば、それは切り付けた場所が悪いのだろうか。そう、後ろに回る。
ふと、乳母の背後から、その者が身を折り畳むようにしている事に気付く。次の刹那には楔丸は空を切っていた。
消えた。
透過でもしてしまうかのように。
幽霊であったかのように。
びりと、首筋に致死を感じた。
「!」
反射的に、身を斜め後ろへと捩る。
刃が首を掠めた。出血はまだ致命的では無い。
斜めへと避けた訳は、そのまま攻撃をしてきた方向を見据える為。案の定、そこには今消えた上位者の姿がある。
伸ばし、首を裂こうとしたその腕へ鉤縄を巻き付け、急激に接近する。敵は接近に反応しきれて居ない。好機。
どん、と地面を踏み締める。
背へ手を伸ばす。聖剣の柄頭を弾くように手に。
魔、魔、魔。
豪、豪と光が奔流する。紅き月の光。
この破撃は、ゴースの水子をも葬った。
上位者を殺した実績がある、一撃。
「応ッ!」
開祖・呪い断ち。
丹田の奥から全てを放つように、打ち放った。
渾身の一撃だった。
それこそ、遺児を祓った時とも遜色の無い程。
ごう。虚空を撃つような空虚な音が響く。
当てた。確かに、一撃を当てたのだ。
だが、何も変わらない。
黒い布は悠然としたまま。
その中の虚無はただじいとそこに立ち冴える。
(…通用しない、のか)
絶望がその身を襲うようであった。
血が出るならば幾らでも殺せる。
殺せるならば、この手で死を見舞う。
それが忍びであり、忍びたる己である。
だが。殺せないのならば、どうすればいい。
そも生きるという概念すら無いのならば?
それと戦うのならば、どうすれば『勝ち』なのだ?
青褪めるような心持ちだった。
そして、そのままに。
空が黒紫に染まった。
「何…!」
周囲が暗闇に消える。不思議と、濃い黒であるメルゴーの乳母の姿は浮かぶように見えている。それはそして、刃先が紫にぎらりと光っているからでもあった。
見た。
彼奴が腕を上へと挙げた。
瞬間、その頭上から黒が、紫が広がったのだ。
この空間は、この上位者が生み出したものだ。
「…ッ!」
飛び込むような、両側の腕が交差するような一撃。
ばきぃんと、楔丸が弾く。
威力が桁違いだ。成る程、あの濃紫の光は刃の威を増している表しであり、そしてこの空間はそういった力を持っているのか。
だが、この程度ならば防げる。
そう、確信した途端であった。
危。
(…何だと…?)
自らの感覚が、信じられぬようだった。
目の前の乳母は攻撃を終了し、隙を見せている。
であるのに、皮膚は別方向からの危険を察知している。
迷いはしなかった。
この感覚に身を委ね、即座に回避をした。
それが、生死の分かれ目となった。
明らかに、有り得てはならぬ角度から刃が飛来する。
驚愕の間もなく、その次弾が幾つも到来する。
幾つかは弾き、殆どは走り、逃げた。
これは、どういう事だ。
あの、黒布の上位者が増えている。
幾つもの身体を持ったままに己を全てから襲っている。
嗚呼、嗚呼。
闇そのものが此奴の存在だとでも云うのか?
この黒い空間は、此奴の胎内であるとでも。
ざく。
足を、裂かれた。
「ぐ……っ!」
浅くは無い。少なくとも、今はまずい。少しでも足を止めてしまえば。予想の通りに、乱舞をする個体。遠くから引き裂こうとする個体。飛び込んでくる個体。その三つが、その一瞬だけで己を囲んだ。
ぐ、と歯噛みをした。
死を思う事すら、出来ず。
「……な…」
それは、まぼろしか。
脳裏に宿った幻覚であったか。
永劫にわからぬ事。
しかし瞬間は確か。
隻狼は、瞬間に、ある物を見たのだ。
青白く、闇を飛び翔ける梟。
青く光る、羽根を。
(…義父上……?)
目を見張った時には、そこには最早何も無かった。
梟の姿も。
闇の空間も。
己を囲む刃も。
刃は?そうだ。
乳母は、攻撃の直前に、急激によろけた。遅効性の何かがその身を蝕んだかのように、激痛がその身を襲ったかのように。
思い当たる節は一つも無かった。
否。一つだけ。
血に濡れた霧からす。
それに潜む激毒が、彼女の致命の一撃を放たせなかったのだ。
夜闇のような空間が消えた訳。
そうだ。あの瞬間己は、まぼろしを思い出した。
蝶々の光が己を穿つ様。
幻覚の梟が火の鳥と成り己に向かう様。
幻術とは、認識する者へ『魅せる』事が出来れば、真実に成る。あの黒い空間に己は『魅せ』られていた。
それに、気付き。真実を見極めたのだ。
あの青白い羽根は、果たして己の脳裏の気付きが、縁深き姿を持って見せただけか。それとも……
鳥の羽根が己を導く。
狼は、そこに運命を感じずにいられなかった。
梟の羽根。我が義父が遺した息吹。
鴉の羽根。ヤーナムに於いての狩人が導いた先。
どちらも己がこの手にかけた。
それは解っている。
それでも、その上で。
葦名の夜を翔ける梟の姿とヤーナムの夜を這う烏の姿が、隻眼の狼を、しるべとなって空へと消えて行ったように思えた。
そしてまた、有益な情報を狼は知る。
よろけるという事。
つまりは、手傷は、確かに負っているのだ。
肉体が無い。フィードバックが無い。
故にこその不安を、あのよろめきに打ち払われた。
そうだ。梟の羽根は己に真実を。
そして烏の羽根が、己に勝算を。
それぞれその眼に、啓蒙したのだ。
とん。
狼が再び懐に潜り込んだ。
この距離ならば乱舞しか出来ぬ筈。
乱舞を始めるまでに、三閃。刀を見舞う。
ぐらりと、揺らめく。
ああ、やはり。先ほどの大技も、弾きも。全てその身に蓄積されている。つまりは、此奴は肉体を持っているのだ。
ならば、殺そう。己の技術の全てを持って。
がぎ、ぎぎぎん。
火花が、黒き布の懐で続々と咲き散る。
忍びもまた徐々に限界へと近づいていくが、それは相手も同じである筈。否。狼の方が有利だ。先程の咬合で付いた傷は、あちらの方が圧倒的に重い。
業を煮やすように、乱舞を取りやめ、引く乳母。
逃すものか。追い切りで、再び懐へ。
こうすれば、乱舞をするしかないだろう。それがまた、弾かれると分かっていても。そしてまた、乳母が攻撃をしている最中は、あの黒い空間の展開も出来ない。
根比べ、だ。
他の忍び道具を使う隙も無い。
ただただ、己の刀と技術を信ずる。
疲労と痛みに弾き損ねた刃が、身体を次々と裂いていく。
血と火花が、散る速度を加速度的に増していく。
「……おお…」
「雄雄々……ッ!!」
喉の奥から、雄叫びが漏れ出る。
苦痛と鬨の声と、その全てが混じった声。
そして、終焉は急激に訪れる。
がくん。
崩れ落ちた姿があった。それは、メルゴーの乳母。
身体中を切り裂かれながらも、立つは狼だ。
これを逃せば、二度と勝てぬ。
ざん。と、楔丸を構えた。
奥義・大忍び刺しの構え。
血は足りぬ。
集中は途切れ、脳が緩慢だ。
それなのに、力が湧き上がるようだ。
構える狼の隣に、青白い光が形を取り始める。
それは、獰猛な狼の姿。片目を失ったまぼろしの狼。
さん。
同時に跳ぶ。
忍びはその脊椎を貫き。
まぼろしは、その喉笛を喰い千切った。
秘伝・大忍び落とし。
免許、皆伝。
異形の地にて。狼はその忍びとしての技を極めた。
それは、最早狼にしか残らぬ技の極意。
人の技術の極地の一撃。
それが、上位者をも滅ぼす牙と成りて、顕現した。
ごう。
無が消え失せる。
弾けるように黒い布がぼろ切れとなる。
全ての跡が、消えてゆく。
(……終わった、か……)
すうと、まぼろしが消えてゆく。
ずっとうるさかった赤子の声が止んだ。
ただ、残るは清涼たる沈黙。
(………)
狼は、暫く。その沈黙に瞑目していた。
その心は、誰も知る由は無い。
忍殺。
ーー戦いの残滓・メルゴーの乳母。
心中に息づく、類稀な強敵との戦いの記憶
今はその残滓のみが残り、
記憶は確かに狼の糧となった。
遥か昔より、上位者は赤子を求めた。
遂に手にしたそれを手にし、乳母とすらなったその心が抱いていたものは、その身と同じ無であったのだろうか。