狩人の夢へ。紫光の元に帰る。
白き花弁と青い月。
そこに、ぱちぱちと木が焼ける音が聞こえる。
火の粉が飛ぶ。だが不思議と、熱さは感じない。
火の粉が舞い散る。
工房が、燃え盛っている。
炎に焼かれ、黄昏の色を放っている。
その火に、狼は驚きはしなかった。
修羅の己が行ったものでは無い。
消えない焔は、現実と物質に基づいているものでは無い事はとうに解っていた。
修羅と怨嗟がその身をやつし内側から火が噴き出たように。正気と狂気の摩耗と心の持つ熱が、消えない炎に成りて燃えているのだ。
そしてまた、代わりに、確信を一つ抱いた。
この夢は、この巷の夜の悪夢は。
いよいよもってこれを境に醒めようとしているのだと。
狩人達の深層を苗床にしたこの空間に、己が来る事が無くなるのだと言う事。夢に、ヤーナムに。縁が無くなる事。
死の現実が、夢と成りて紛い物となる。
故にこその、不死。
ならば、この夢が無くなれば己の不死は解消されるのだろうか。それは成ってみなければ分からない。が、その可能性は高いように感じた。
此処、ヤーナムに、最早二度と来れなくなる。
正直言って願い下げだった。
ひたすらに悍しく、恐ろしく、陰気である…という理由だけでは無い。もう此処は、滅びゆく土地であるという事が、嫌という程にわかってしまったからだ。
それも、何かしらの外部的要因で無く、過去の住民の罪。ただその精算と好奇心の代償が基になった事柄での滅び。
こうなってしまえば、出来る事は何も無い。
此処に来て、世話になった者も居る。
否、『居た』。
その殆どは、忍びはこの手で殺してしまった。
狩人として先達を述べたアイリーン。淀みを払い尽くす連盟への招待をしたヴァルトール。ビルゲンワースのそれについて教示してくれたアルフレート。自分なりに市民を守ろうとした赤ローブ。
皆、この手で。
唯一、殺した記憶が残っていない一人。
ギルバートの元へと一度行った。だがそこにはあの空咳の音は響かず、代わりにその窓の内側より、服を纏った獣だけが襲って来た。
あれが、ギルバートを殺したのか。
否。破れた窓は、内側から破れた跡であった。
ならば、あの獣は…
……何の事があろうか。
結局のところ、己は此処にいる恩人を、全て殺したのだ。
唯一、残った者達はこの狩人の夢にのみ居る。
それぞれに、逢いに行こう。
ゆっくりと歩く。
着いた先は、枯れた切り株のある場。
その切り株に空いた穴から呻き声と共に這い出てくる、白い小人達。
初め見た時は恐ろしげに見えたそれらが、不思議と今や微笑ましく見えるようだった。
使者達。当然、此処に居る者達だけが全てでない。
武具を売買していた者、紫ランタンにそれぞれ憑いていた者、その他諸々に、彼らがずっと居た。様々を手伝い、様々に居てくれた。
それは全てに感謝を述べている余裕は無い。
故に、この者らを代表として、ある物を渡す。
それは、彼らが欲しがっていた物。
それまでは、仮初にでも己が持っているべきであると思い、故に断り、自分が持っていた。
だが最早、ここに来る事は無い。
ならば、欲する者へ渡す事がせめてもの手向けとなろう。
それは赤リボン。
その赤色は臓物の色であり、持ち主との果されぬ約束の色でもあった。
繊細な意匠が凝らされていたであろう少女のそれは、元の白色の、影形も無くなっていた。
渡すと、手振りで嬉しさを表しながらするすると奥に行く。そして次の瞬間には、そのリボンを付けた使者達の姿があった。
常に苦悶じみた顔をしている彼らだが、今この瞬間の彼らの顔は、とても喜んでいるように見えた。
次に、ある墓の前へ。
そこには長身の女性がいる。
その姿形は人らしいが、人で無い事はその露出している手の先などから直ぐにわかる。
人形。
彼女にもまた、随分と世話になった。
彼女の言う、血の遺志を集め力とする事。それは、己が異郷からの人物であるが故か出来ず終いであったが、この義手に、様々な仕込み武器を注ぐ為の工房。その使い方を、丁寧に教えてくれたものだ。
彼女は祈りを捧げていたが、やがて此方に向き直る。
「お帰りなさい、狩人様。それでは、なんなりと…」
「礼を、言いに来た」
「…嗚呼、狩人様。狩りを、全うなさったのですね。
お役に立てたならば、幸いです」
「ああ。…感謝する」
「クスッ…感謝されるような事は、何も。
貴方様が全て成した事なのですから」
「お主が居なければ、超えられぬ夜だった」
「そう言っていただけたのならば、とても嬉しく思います」
淡々と、世間話のように、そう話を進めていると。
ぱあ、と。青い月に別の光が差し始める。
無論、燃えている工房の光でも無い。
空からの、光である。
日の光のような、明るい。
「…間もなく夜明け⋯夜と夢の終わりですね。
⋯大樹の下で、ゲールマン様がお待ちのはずです」
「…彼が、か」
「はい。そう、言っていました」
いつしか入ろうとしたが、扉に鍵が掛かり、入る事の出来なかった庭がこの狩人の夢にはある。大樹とは、その庭の麓にあるものだ。
そこで、彼が忍びを待っているのだという。
それは、どういう事だろう。夜が明ける最後のこの瞬間、助言者として、何かの助言を行うのだろうか。
「では、そこに向かおう」
「ええ。それでは」
「…いってらっしゃい。狩人様。
あなたの目覚めが、有意なものでありますように」
そう、見送る言葉が背に掛けられる。
これまで幾度も掛けられた言葉である。
「…ああ」
忍びには、感謝の念を、そのような返礼でしか表せなかった。
「…夢の月のフローラ。
小さな彼ら、そして古い意志の漂い。
どうか狩人様を守り、癒してください。
あの人を囚えるこの夢が優しい目覚めの先ぶれに…」
「⋯また、懐かしい思いとなりますように⋯」
…
……
燃え盛る工房から眼下に、その大樹はある。
大樹の元には車椅子の老人が居る。
霧の様に存在が不確かな助言者。
彼の名は、ゲールマン。
白い花びらが、さらさらと風と共に舞い散る。
眼前に立つ。
瞬間、ゲールマンは口を開く。
その眼には、霧の様な不確かさは何処にも無かった。
「⋯狩人よ、君はよくやった。長い夜は、もう終わる。
さあ、私の介錯に身を任せたまえ」
「君は死に、そして夢を忘れ、朝に目覚める。
⋯解放されるのだ。この忌々しい、狩人の悪夢から⋯」
介錯。
この夢に、夜明けの最中に彼の介錯を受ける事こそが、この終わらぬ地獄を終わらせる鍵となり得るのか。
なれば首を差し出すべきか。
そう、逡巡をしていた時。
「…これまで、そう言い、幾人もの狩人を目覚めさせた」
「…?」
「…私は悪夢を見なくなったんだ。
穏やかな夢見をするようになったのだよ」
「そしてそれは、君がやったのだろう。狩人よ」
(…『狩人の悪夢』の事か)
そう理解し、首を縦に振るい肯定する。
それを見、助言者はにこりと微笑む。
「それについては、礼を言おう。
ありがとう、狩人よ」
「…そして、謝らなければいけない」
そう言い、車椅子から立つ。
足は。片方無かった筈。しかし、今は有る。
「…かつて、私には友が居たのだよ。
もうきっと、二度と逢う事も無いが」
ゆらりと、ゆらつきながら話す。
そのゆらつきは蒙昧から来るものでは無い。
これは。足取りを読ませぬ為の物。達人のそれ。
「……狩人よ。
君を今、この場へ留める理由があるのだ」
彼の日の月が照らす日々。
あの日に、彼らは夢を見たのだ。
上位者との邂逅。
血の医療の希望。
開放による、人の躍進。
一人は夢破れ、夢に囚われた。
一人は追憶は戻る筈も無く、ただ獣の意思に消えた。
一人はその罪に耐えられず、隠匿をした。
ただ、あの日の夢の続きを。
輝かしき夢の続きを。
背負った柄が展開され、その先に曲刀が付く。
変形する武器。狩人の剣。
その剣は、死を運ぶ鎌の形をしていた。
助言者。
否。
目の前に居る者は、助言者でなく。
「⋯ゲールマンの狩りを知るがいい」
この夜明けの巷。
古き狩人は、狩りに舞い戻る。
ただ、その夢に囚われた為に。