隻腕の狼、ヤーナムの地に潜む   作:澱粉麺

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彼女は飛ばない

 

 

彼女は夢を見ていた。閑かな暗闇に身を横たえ、二度と目覚めぬ眠りについた。

 

 

夢を見ていた。

閑かな暗闇に目を閉じ、身体から飛び出した心が、精神が、浮いたように世界を眺めていた。

そんな夢だった。

 

 

ぐんと空に浮き上がり、都を見た。

空には太陽が登っている。

明けない夜が覚めた光。

 

朝でありながらとても荒涼とした都市。老人も、子供も、鶏も、誰一人音を立てない。動く者は皆獣となり、動けぬ者は皆音を立てられない。酷く寂しく感じた。

 

 

彼女は北へ吹く風になった。

遥か遠い空に吹き、南方へ。

薄く赤らんだ灰色の空は、彼女にたじろぐように小さな身をよじらせた。

教会を幾つも通り、市街を越え、森を通った。世界の果てまで辿り着けるだろうかと、芽生えた微かな好奇心をそのままに、飛んだ。

 

ヤーナムの世界は、太陽に照らされて、凄惨で恐ろしげな風景をあるがままにしている。

殺戮の跡。後の祭り。後先考えずの啓蒙の末路。その中にただほんの少し、生き延びた動物だけが息吹をものにしている。

 

その中に、人はいるだろうか。

分からない。

 

創造物は、創造主を愛するように創るもの。

であるからこそ、人が此処に芽吹いているという事実を、彼女は信じていたかった。

 

一方で、こうも思う。

あの夜を生き延びるには、最早人では居られなかったのではないかと。

 

この土地に根付く命に、これからは人が介在する余地などないのかもしれない。

 

その先にあるものは、人を超えた魔の者どもの魔窟か、はたまた人とそれ以上の者が用いた全てが廃れた原始的な世界の再来か。

 

 

無論、彼女に知る由も無い。

だからただ、その手をゆっくりと合わせた。

 

私の見るこの夢が、

優しい世界への先触れであるように。

 

 

 

彼女はまた、向きを変えた。

その逆を目指す南風へ。

熱を持ち、暖かさを恵む小さな風になった。

 

墓地に佇む街を越え、隠された街を越え、吹雪が散る巨大な城をも越えた。不死の女王の世界の片隅が鳴らす荘厳な鐘は、雪の中に響き続ける。

 

音をすら置き去りにするように、先へ。

この地を後にするつもりで飛ぶ。

だがその飛行は難関にぶつかることになる。

 

大きく、彼女の知る世界と、彼の世界を隔てる大きな水。塩辛く、吹き荒れる潮風。

疲労困憊ながらそれを越える。

 

ほっと息をついた。

まるで人間のような心持ち。くすりと静かに微笑む。それを聴く者は、雲以外居ない。

 

向かうにつれて、彼女はだんだんと高揚を覚えていた。他の風が彼女を阻み、気流はその向きを変えていく。

 

その突風たちの中で彼女は消えてかかっている。それでも、ただある姿を見ようとその身を走らせる。飛び続ける。水平線のみが映るこの海の、その先にある地を望んで。

 

彼女が5分前に飛んだ空は、彼女が10分前に飛んでいた空の南にある。

ああ、そもそも時間を語ることこそがナンセンスなのかもしれない。これは夢であり、夢の中の時間など埋没するものなのだから。

 

 

ゆるゆると身体が解けていく。

しばしば感じた喜びすらも、もはや惰性のように思い出せない思い出に変わっていく。飛んでいる事すら怪しく感じるようだった。

 

 

水平線が途切れた姿だけが見えた。

そこは、小さな島。

海の中に点々と存在する島国。

 

辿り着いたそこの、更に小さな国が彼女が行くに求めた場所だった。そしてそこはまた、滅びて久しい、小さく儚い場。

 

 

 

 

戦果で得た国が、戦火に滅びる。

血生臭い、戦国の世にはままある事だった。

 

亡国は、葦名。

そういう名だった。

 

 

今やこの国は、面影のみを残し、戦火の傷跡だけを残して別の物へと変わっていっている。

門も山も焼け落ちて、冬が過ぎた。

 

その変化についていけない存在が、少しいる。

それらは小さな古ぼけた、穴開きだらけの廃寺

に身を寄せている。

 

今は静かに、その外に足を伸ばしている。

片腕の無い男は、妙齢の女性に肩を貸してもらいながらゆっくりと痩せこけた脚を動かしていた。

 

 

歩けば歩くほどに眩しい日の光。

その光が、やけに暖かく感じる。

 

 

痩せた男に、名前は無い。

かつて忍びだった男に、名前など無いのだ。

ただ一つ。狼と。そう呼ばれていた。

 

その横に居る女性は、エマ。

猩々に拾われた、薬師であった。

 

 

忍びであったのならば、その身体には筋肉が付いている筈。で、あるのに、今彼の身体が細々とした骨と皮のみであるのはどういう事か。肩を借りねば、歩けぬ程の衰弱はどういった訳か。

 

 

彼は、意識を失っていたのだ。

それも、数時間や数日ではなく、数ヶ月に渡る長い間。その間、水も、食い物も、何も摂取しなかった身体はみるみるうちにその肉を減らしていったのだ。

 

それでも意識が戻ったのは、奇跡と言う他無い。そしてその状態より、快復をした事も。

 

薬師であるエマの、甲斐甲斐しい献身も大きい。だが最も大きいのは、彼自身の生きようとする意思。

 

ただ死んでいないだけの無意味な生を暮らしていたその姿を覚えていたエマは、それに驚嘆したものである。

 

 

狼の脳裏には、あの悪夢じみた世界の記憶が未だに残り続ける。永劫、忘れる事はないだろう。

 

あれは、昏睡をしていた己のただの夢だったか。果ては死を望む己が見た心の姿だったのだろうか。

 

そうとは思えなかった。

ただの夢とするには、あの日々は悍ましすぎて、濃密すぎて、血みどろすぎた。

目覚めれば全て忘れる、悪夢のような日々。

であるからこそ、あの日々は単純な悪夢では到底無かったと、そう思えるのだ。

 

しかし、あのきっかけとなった月の魔物の彫像は、戻った時にその姿を消していた。

全て、邯鄲の夢であったのか。

何もかもが、わからない。

 

 

 

ただ一つ。いや、二つ。確かな事がある。

 

一つは、エマと狼は二人とも。この廃寺で静かに話す。そんな、慎ましき、同じ夢を見た事。

 

もう一つは、狼の目に未来を見る光が宿った事。

 

起こった事に比べればどうでもいいように見えるほど、些細な事象。

それだけが、確かな事だった。

 

 

ただ静かに、戻った故郷の風を浴びる。

 

 

「…風が、南に吹くか」

 

 

彼女は狼の様子を盗み見したとばれたのかと思い、慌ててその身を起こした。

見える筈も無い風になった彼女を見るように、忍びは静かに溜息をついた。

 

 

 

「礼を、言う」

 

 

その一言は、横にて肩を支える薬師への礼であったか。風に向けた一言だったか。

どちらもであったのかもしれない。

 

どちらであっても、彼女はそれを聞いて、ゆるゆるとその姿が消えてゆく事を感じた。

 

そうして、手を合わせた。

あなたの目覚めが、有意なものでありますように。

そう、つぶさに祈る。

 

 

最後に一つ、また南へ飛んだ。

 

意思もなく、望みもなく。

昼と夜すらわからない。

狩人の痩せこけた、その姿だけが脳裏に浮かぶ。

果てしなく広がる寂幕と波に、次第にその姿を消していく。

 

 

彼女はそれでも飛び続ける。

彼女はそうして消え続ける。

 

彼女は、静かにその静寂を見ていた。

どこまで飛べるだろう。

どこに、この姿を見れるだろう。

どの空まで…

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

過ぎ去りし約束と最早無い過去。

夢に消えた未来と、夢に消えた過去。

 

 

忘れられた古工房で、古びた人形がくすりと、その眼を閉じた。

 

 

 

その人形が動く事は、もう二度と無い。

 

 

彼女はもう、夢を見ない。

 

 

彼女は、飛ばない。

 

 

 

 

 

 

【隻腕の狼、ヤーナムに潜む

ここに終わる】

 

 

 

 









本編はこれまでです。
外伝として、彼が本編で戦う事がなかったボス達と戦う姿を描くつもりです。今暫くだけ付き合って頂ければ幸いです。
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