隻腕の狼、ヤーナムの地に潜む   作:澱粉麺

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修羅と聖獣

 

 

 

先手を取ったのは、狼。楔丸を足に切り込む。

 

だが、その傷は余りにも浅い。相手が、その傷に比較し巨躯すぎるが故でもある。だが一番は、それに反応し、回避をしてくる程に獣が俊敏であった為だ。あれ程の巨体を動かす脚を持つ。鈍重な訳は無いと分かっていた。だが、これ程とは。

 

 

危。

獣の肥大した左腕が、恐ろしい勢いで忍に向かう。無論、避けるつもりであった。だが、その射程の長さを見誤る。

 

 

「ぐおっ……!」

 

 

掴まれ、晒し上げられるように、上へ。もがくが、当然のようにびくともしない。膂力比べをする事自体が、きっと馬鹿馬鹿しいのだろう。

 

 

ぐしゃ、り。

 

握り、潰される。そして、それをまた地面に叩きつける。単純故に、それ以上ない殺意の発露。気合や技術の介在する余地のないその二撃。

 

意識などとうに飛んでいた。

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「…ここは…」

 

 

再び、市街で目を覚ます。場所は、あのギルバートの家の前。咳の音が、気つけとなった。

 

一度、負けた。何故負けたか。範囲の見極めが甘かった。狼がこれまでに慣れていたのは、人や刀槍の長さ。人外のそれは、例外はあれど、見受ける事が少なかった。故に一度死んだのだ。

 

普通ならば、一度死ねばお終いだ。しかし今の狼は、普通などではない、異常そのもの。

 

あれに勝つという事は、或いは無謀、或いは狂人の戯言であるかもしれない。

が、それでも、勝たねばならぬ。橋の先へ行く為。為すべき事を為すために。

 

一度の生では余程勝てぬ敵。幾ら命があろうと足らぬ敵。ならば、幾度でも死ねばよい。

幾度でも、学ぶ為だけにこの身を費やせばよい。

 

死に、戻り、覚え、戦う。

 

隻狼は多少ばかり、そういう事に慣れていた。

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

「…参る」

 

 

両手の指で、何とか足りる程であったか。獣の動きを見極める。そこからは早い。一回の死で、その攻撃を避け、弾く事が可能になった。

 

それはまだ薄氷の上の生存。呼吸一つ分でも最善手以外を取れば、直ぐに砕け散る、襖よりも脆い生である。

 

故にこそ、忍はその苦境をこそ、死なぬ。幾千もの地獄を潜り抜けたその感覚が、研ぎ澄まされる。

 

獣の左腕が振り下ろされる。

だが既に地に狼は居ない。

角に鉤縄が巻きついていた。忍びが頭を裂きながら空より飛来する。獣は煩わしいように頭を振り回す。鉤縄が解け、着地。そこにまた左腕が近づく。

 

狼はその手を一度弾き流してから、それへと前に踏み込む。切り、走り抜ける。獣は忍を捕らえず、代わりに腕から赤黒い血漿を撒き散らす事となった。

 

痛みに任せ、獣は忍が走り抜けた方角へ腕を振るう。だが、影が同じ場所にあるなど誰が言っただろうか。左腕の次は、脚。激痛が走る。悲鳴のような雄叫びか、雄叫びのような悲鳴。そのいづれかが橋に響いた。

 

 

 

「……これは…」

 

 

順調にも見える、この戦い。

だが、狼は致命的な欠陥にも気がついていた。

 

余りにも一撃が浅い。確かに痛みは与えているだろう。激痛により、隙も多く作れている。だが、そこで止まる。

 

技量、見極めが足りないというのも、確かにある。だがまず、獣と成った者の表皮が酷く硬い、という。とてつもなく単純で、故に大きな問題があった。

 

これを刀一本で切り、断つ。或いは剣聖であるならば易々と為したかもしれぬ。だが、狼はそうではない。

 

硬質化した体毛、皮膚を裂くには、鋸のような削ぐ機構や技が望ましい。だがそんな芸当は、少なくとも今の狼には不可能だ。

 

破壊した左腕が、みきみきと再生していく音が聞こえる。

その治す力は、最早生き物ですら無かった。幾度もかすり、出来た傷を瓢箪の中の傷薬で癒しつつ、その音と、獣の雄叫びを聞く。

 

 

再生に軋む音を聞く狼の心は、絶望では無かった。

否、そこにあるのは、寧ろ。

 

 

じゃきんと、義手を鳴らし、二つ手裏剣を飛ばす。

それは正確無比に眼を打ち、視界を奪う。

 

その隙を縫い、翔ける。目指すは敵。獣の、治った左腕に飛び付くように楔丸を突き刺す。何度も、何度も。二度と治せぬように。執念のように。

 

 

 

 

 

『斬り続けた者は、やがて、修羅となる。何のために斬っていたか…それすら忘れ、ただ斬る悦びのみに、心を囚われるのじゃ』

 

 

 

 

 

聖職者の獣は、たまらず空いた右腕で狼を弾く。

苦し紛れの行動であったが、しかし狼には重い一撃だった。遠くへと弾き飛ばされる。

 

 

「グ…!」

 

 

傷薬へと手を伸ばそうとする。だが、無い。

見れば、獣の後方にある。今しがたはたき落とされた際、あそこまで飛んでしまったのだ。

 

しかし狼は刀を構える。その心は依然、絶望などでは無い。嗚呼、そこにあるのは、変わらず。

 

 

 

 

 

 

『…隻狼よ。お主の目にも、修羅の影があるぞ』

 

 

 

 

 

 

…刹那の事である。

忍の義手が、赤炎に揺らめいた。

 

 

「!」

 

 

驚愕したのは聖獣と、狼の、二匹の獣。

そして先に正気づいたのは、血に飢えた狼だった。

 

その炎は、修羅の怨嗟は。とても僅かな溢炎であった。だがそれ故に、十分だった。

 

纏わせ、放つ。狼はその修羅の炎を手裏剣に纏わせ、渾身の力で放った。

 

その炎は頭蓋に着弾し血を浴びても未だ消えず。

そして確かに、獣を跪かせた。

 

迷わず跪いた獣へと走る。目指すはその頭部。

 

 

「……ッ…!」

 

 

血に塗れた刀が赤褐色に煌く。

熟達の忍の技術が、その刀を必殺の刺突へ変える。

 

眼玉を経由し、脳を貫いた。回し、裂きながら引き抜く。そして、二撃目。首へ刺し、力任せに振り下ろした。

 

 

忍殺。

致命傷を二度も与えられた聖職者の獣は、立つこと能わざる。

 

獣の頭蓋には只、変哲の無い手裏剣だけ残る。

 

 

 

「…今のは…」

 

 

 

義手を見やる。炎など無い。そもそも、あれは真の光景であったのか?あの瞬間、己は熱さすら感じていなかった。

 

だが、残響のように。いつか、剣聖、葦名一心が話した言葉だけが頭に残っていた。

 

 

(…修羅だと…?)

 

 

そう。この獣と切り結ぶ最中。

狼は確かにそこに悦楽を感じていたのだ。

鬼気迫り、瞬きの間に命が消し飛ぶ戦の中で。

 

 

(……)

 

 

楔丸に付く血を払い、納刀する。

先程落としてしまった、傷薬の瓢箪を回収する。

 

心を律するのだ。

己は、為すべき事を為す。

最中の事に、気を紛らせてはならない。

 

自らが堕ちる、ほんの僅かな恐怖を振るうように。

死体を超え、橋の先に進む。この先へ行けば聖堂…

 

 

「…む?」

 

 

…周りを見渡した。ここが橋の先だが。どう見てもそこは、封鎖されていた。

 

 

「……」

 

 

鍵なども、ありそうも無い。当然人も居ない。

鉤縄で飛び越えるにも、あまりにも壁は大き過ぎる。

 

…ここまで観察すれば、最早認めざるを得まい。結果だけで言うなれば、あの獣を倒したのは無駄だったのだ。

 

 

 

「…致し方あるまい」

 

 

 

呟き、再び問おうとギルバートの元へ向かう。

 

背中が、心なしか落ち込んでいるように見えた。

 

 

 

 




ーー戦いの残滓・聖職者の獣。
心中に息づく、類稀な強敵との戦いの記憶
今はその残滓のみが残り、
記憶は確かに狼の糧となった。

獣となった者の中でも、聖職者こそが、最も恐ろしい獣となる。
悲鳴のような鳴き声は、あるいは、神への祈りであったのだろうか。
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