ごろおん。
音が、外から響く。
酷い嵐だった。びゅうびゅうと鳴り響く風は屋根瓦を攫い、ざあざあと雫が激しく打ち当たる音が木々とさざめき鳴り響く。
外を見やる。
ぴかりと空が、世界が光り、雲が隠せし暗闇を照らす。
曇天の切れ間が覗く雷鳴は青白く、鮮烈だった。
雷鳴を見て、思い出す。
まず想起するは彼の宿敵にして、恩人でもある葦名弦一郎。
彼の、巴の雷。優雅で苛烈な、その雷の舞。
そしてもう一つは、あの悪夢の光景の中の、ある獣。あれが纏う雷は青白く、正しく紫電そのものであった…
…
……
それは、血に渇いた獣を斃すよりも前の事。
古き狩人の悪夢を辿るよりも、更に前。
教区の長の白き獣を乗り換え、ヘムウィックの魔女を踏破した、その直後だった。
赤いローブの男がいる教会へと、一度戻ろうとした時。
寒気がした。
恐怖と言っても良い。それに近しいような、敵意への身体の反応。害意が形になったような邪な気配。
楔丸を構えながら振り向くその先に、身幅の広い布を纏った大男が居る。
対話を試みるか?否。獣の匂いはしないが判る。この男は既に正気を失い久しい。そして、背に持った袋からは血の匂いがする。
前蹴り。それを半身になり避け、そのまま接近。
返す刀が男を斬る。が、仕留めきれない。それはこの時の狼がまだ、未熟であったからという要因が大きい。
瞬間、纏う雰囲気ががらりと変わる。
害意はあった。だが、不思議と殺意は無かったのだ。
しかしこの瞬間、その殺意が溢れ出た。
激昂と共に、殺戮の本能が噴出したのだ。
動きも、がらりと変わった。
緩慢とした、しかし力の帯びた動作は今や俊敏で、的確に急所を狙う。首。水月。股間。どれかの攻撃を弾き損ねた。体勢が崩れた。
そしてその崩れの瞬間に、頚椎に衝撃が走る。
がつりと首を絞められ、持ち上げられたのだ。
余力で楔丸を振るう。だが大男の腕が長く、届きはしない。ならば腕を狙えば。そう考えるだけに足る酸素が、狼の脳には最早送られてはいない。首が、ぎりぎりと締め上げられる。
「……がっ……」
ぐしゃり。
地面に、脳天を叩きつけられる。
執拗に、二度ほど叩きつけ、上に掲げる。狼は最早抵抗しない。出来るに足る生命が、最早無かった。
死。
…
……
死した先の光景。
それはまた、紫のランタンの光では無かった。
初めに目に映った物は、麻袋が断つ月の光。蝋燭の光。
ここは何処だ。俺は何の中に居る?身体が動かなかった。二の腕と太腿が拘束され、小さな袋の中に閉じ込められている。
忍びとしての過去故に動けない事は無いが、しかし動かなかった。まるで勝算が無かった為だ。
そうして、始めて袋から解放された場所。
其処は、仄暗い牢獄の中だった。
地下から鳴り響く悲鳴と隙間風の音。
ヤハグルの隠し街。
其処はそういった名前であると、今、回想する狼になら判る。
まず、関節を外し、二の腕と太腿に付いた拘束から逃れる。牢獄には鍵が掛かって居なかった。そうするだけの知能が無かったのか、はたまた拘束のみで十分だと考えたのか。
はたまた、此処より脱出する事は不可能と考えうるだけの何かが此処には存在するという事なのか。
牢を出て、少し進む。
階段の先には紫のランタンがあった。だがそれの使用は能わず。己の何かが悪かったのか、周囲の何かが作用していたか、動く事は無かったのだ。
ならば、この街から抜け出る場を探すしか無い。
あの大男は、教会に、外に居た。つまりは外に出る為の入出口は絶対に存在するという事だ。
「…!」
さ、と息を潜めた。物陰へと溶ける。
その数瞬後、狼が居る階段上の踊り場へ、大男が現れた。
己を此処に連れてきた者か?否。あの闘っていた者とは少しずつ違う。つまりは、あの物騒な人さらいじみた大男は物騒な同一の個体なのでは無く、複数、別存在として居るという事だ。
それならば、むしろ安心した。あれは何か超然とした生き物なのでは無く、何かを模倣し、役割を果たさんとする人であるのだ。
人であるならば、殺し方は熟知している。
影から、忍びがするりと抜け出た。
背を向けた人さらいの首筋に、刀が突き立てられる。それでもまだ振り向かんとする顔に、耳を通すように楔丸が貫通した。
良し。
これならば、殺せる。
殺す事が叶うならば、目の前の存在は平等なら命。
先へと進む事が可能だ。
狼は、この隠された街から出るべく脚を進める。
…
……
地下へ。
耳を澄ませば、地下からの風が聞こえてきた。
地上からでは無い。地下から抜けるような音。
それはつまり、地下に穴があるという事。
その穴をどうしようかと、相談するかのように大男が二人立っていた。一人は闇より忍殺し、もう一人は激昂している間にその頭を串刺しにした。攻撃が恐ろしいならば、それをさせる前に先手を取る。
さて。これは、大男が外に出る為の道か。はたまた己の様に連れて来られた者が作り出した抜け道か。
いずれにせよ、この隠し街の抜け道が地下にある。
躊躇せずに其処を辿って行く。岩肌が顕になったその道はおそらく、後者だったのでは無いかと考えられる。
(……)
抜けた先には、広間があった。
そしてそこに、巨大な白骨化した死体。
四足の獣が、骨になって横たわっている。
それの横を、通ろうとした時。
からり。
骨が動いた。
骨が、動いた。
ぴくりと。かくりと。がたがたと。
指先を。腕先を。全身を。
段階的に、どんどんと、震わせて立ち上がる。
「……何ッ…!」
白骨化していたのでは無い。
これが、この姿こそがこの獣の姿そのもの。
黴じみてたなびく黒い毛皮が、ちりちりと気配を放つ。
そして、咆哮と共に青白い光を纏った。
この光は。見た事がある。
見た事があるが、生き物が発生させる規模のもので無い。
これは、雷光。雷の紫。青と紫と白の閃光だ。
美しく、苛烈で、恐ろしい。
雷を纏う獣。黒獣パール。
これを横に通り抜ける事など不可能だろう。
「……!」
刀を、構えた。
…
……
紫のランタンが、暗転した視界を照らす。
蒼雷が脳裏に残るようだ。
そしてまだ、感電した感覚が神経に纏わるようで。
幻肢痛じみた感覚が脳を襲う。喪った物は、腕や脚のみでない。命そのもの。それが齎す幻肢痛は、おかしくなるような代物だ。
雷光がこの身を蝕み、何度も殺した。
己はその度やり直し、そして敗れた。
雷に目を奪われがちだし、実際にそうであった。
しかし何度も負けを重ねて、漸く見えて来た。
骨のみの身体。あれが厄介なのだ。
当然と言えば当然、全ての闘いの技術は血肉が通う生き物を想定している。血を流させ、肉を裂いて、臓器を潰す。そういう風に、生きることを不可能にさせる。それが殺しの技であり、闘い。
しかし、あの獣は骨のみ。
そうなると、どうすれば動かなくなるか。
骨を全て折っていくか?手間が掛かりすぎる。
そして何より、攻撃が当たらないのだ。
骨のみの身体は、此方が想定している範囲より余程小さい。細く、当たらない。幾度と無く、攻撃を外した隙を突かれたものだ。
逡巡の末、次の戦いは賭けに出る事に決めた。
それが成功すれば、そうで良い。
失敗すれば、それもまた糧にする。
不死の闘い方とはそういう事だった。
…
……
ばりばりと雷電を纏うパール。
そのままに飛びかかり、腕を打ち払ってくる。
それを前に飛び込み、避ける。
弾く事は出来ない。雷が刀を通り、忍びを痺れさせてしまうのだ。懐に潜り込み、前脚を裂く。連撃よりも、確かに当てることを確かに意識した一撃。
ばちり、胴体が一際大きく光る。それに反応し、パールの後ろ足に鉤縄を伸ばし、翔ける。
翔け飛び終わった瞬間に、黒獣の胴体より雷鳴が発せられた。あれにまた触れようものならばそのまま動けなくなる。
後脚に楔丸を振るう。峰を使って叩く。
無論手加減などでは無い。ただ斬るより、打撃としての効力をほんの少しでもと高める為の工夫であった。
そして、義手を装填。炎を放つ。
火炎放射が脚を炙り、その骨をすら炭に変えんと盛る。
ぎいい、と、けたたましい悲鳴をあげて倒れる。
瞬間に、雷光が消えた。
纏っていた電気がこの瞬間だけ失われたのだ。
さあ、この瞬間だ。
今からの数分こそが、この勝負の別れ目。
狼は、黒獣の頭部に楔丸を突き刺した。
硬く、浅くしか刺さらない。
だが、それでいい。
刺さった状態のままに楔丸を手放した。
そして頭部を駆け上り、上空へと跳んだ。
瞬間、パールが立ち上がる。
そしてまた咆哮を放ち、帯電した。
纏う電気、その、稲妻。
それを、鋼の義手である左腕が受けた。
その受けた雷を。
手裏剣に乗せて、放つ。
その鉄の刃は、頭部に刺さったままの楔丸の柄頭に、がぎりと破裂音じみた衝突音を立てて、電撃を伝えた。
この黒い獣は、体表から雷電を放つ。
そしてまた、その身体は骨しか無い。つまりは、全身が体表であるという、矛盾した身体構造。
だが骨しかなくとも、何かしらを考え、見て、感じる為の器官は必要なのだ。そして生き物である限り、頭部がそれである筈。
頭部こそが、骨のみで無い唯一の場所。そして骨のみで無いとは、唯一、体表でないという事。雷光を纏わぬ場所であるという事。
その雷が身体から生み出されているという事でも、唯一、脳内のみには電撃が発せられない。耐性が無い。脳にだけは雷光が喰らう。
これは、そのような賭けだった。
地に脚を付くまでに身を翻し、雷を放ち返す。
変則の、雷返し。
楔丸の柄頭から、刀身を通り、パールの脳味噌へと雷光が通る。鉄を通り、電流が迸る。
これが効かぬのならば。
刀も手元に無く、そのまま死である。
徒手のまま構えるが、それも時間の問題であろう。
さあ、如何に。
…互いの動きが、ぴたりと止まった。
狼は用心と警戒から。黒獣は、果たして。
つ。
パールの目から、体液が垂れた。
それは血か、脳漿か、涙か。
どれだろうとそれは、異常の証。
「!」
狼が走る。頭部の楔丸を手に取って、引き抜いた。
その段階になり、ようやく黒獣は動作を再び始める。
あの電光が、全てを麻痺させていたのだ。
その隙を今、狼は掴み取った。
眼を狙う。
そこには何も器官があるように見えず、虚な空洞のようだ。
だが穴がある事には変わらない。刀を突き刺す。
目から脳髄へ。
突き刺し、掻き回し、切り裂き、折る。
更なる隙が出来る。苦痛に悶える動作の所作の隙。
この隙ならば、その首を狙える。
ごうと、火炎放射による焔が義手から再び出る。
それを纏い、刀が陽炎を揺らがせる。
黒い獣の首骨を、炭化させ、断ち切った。
骨のみの身体が、からんと、呆気なく崩れる。
目にちかちかと残るような雷光が、ふっと消える。
そこにあるのは、獣では無く、ただの白骨だった。
ふう、と息を付く。
その先には、蒼白い光とは異なる、紫色のランタンがあった。
忍殺。
…
……
ごろおん。
その音に、は。と意識を取り戻す。
一瞬、意が飛んでしまっていたようだ。
黒獣パールのその姿は、光を受けた瞼が、その目を閉じようとも光を覚える残光のように、今でも思い出せる。
そしてその度に、また幾度とも雷返しを。
彼に宿りし技と、その宿敵を。
何度も、何度も思い出す。
これはきっと、心的外傷じみたそれではない。
これを思うと、懐かしくすら思える。
それは、彼なりの思い出であるのだ。
血生臭く、殺伐としていようと、それ故に。
人として生きようとも、これだけは思い続けるのだろう。
そんな風に、雷の音を聞いていた。
頬には、ほんの少しの緩みがあった。