ヨセフカの診療所。ここは、そうだったはずだ。何故ここに居るのかは、己自身よくわかっていない。
俺は何故ここにあるのか。そしてここに何故辿り付けたのか。そうだ。俺は禁域の森に居た筈なのだ。であるのに、何故今俺は、ヤーナムのあの市街にいる。
毒の沼と死体の山を超えた先に広がる悲惨を待ち構えていた狼には、この光景は、困惑に値するものだった。
これは空に赤い月が登った後の事。
修羅の力を失い、赤子の乳母を殺し、工房が火に焼けた後の記憶。
この魔都より去るという事で、やり残した事は、後悔はないかと彷徨っていた時の、過去。
恩人は皆死に果てた。ある者は殺し、ある者は
狂い死んだ。やり残した事。そう、言えば耳あたりはいい。だが、ただあてもなく歩き回っていただけだ。
幸いにも、此方の数日は狩人の夢での数時間程でしかないようだ。故に、己を待つ助言者の心配は必要無かったが、それでもただ無駄な時間を過ごす。
その中で、禁域の森を思い出す。
あの時、先回しにして進まなかった道があったと、少しだけ気にかけた道。
そこに向かい、そこを通った。
それだけだ。
であるのに、何故ここに辿り着くのか。
逡巡の中、屋根に登り、屋根伝いに診療所へ。
屍肉を啄みすぎて飛べなくなった烏が、があがあと耳障りな音を立てる。
ヨセフカの診療所。
その中に。
異常なまでに薄暗い。灯りが無い。
じめりと、胆液じみた湿度が彼に纏う。
何かの胎内にいるかのような感覚に気味の悪さを感じる。足早に、探索をする。
階段を見つけ、登る。
気配。耳を澄ますと、中からは音がした。
女の声と、何かが軋む物音。
扉をこじ開けた。
瞬間。
ひどく、赤らんだ。
そして次に、ひどく青褪めた。
赤らんだ理由は、見たものが、「まぐわって」いる姿であった為。そしてまた、青褪めた理由も、「まぐわって」いる姿を見てしまった為。
狼が、口を抑える。
どうしようもない吐き気を催す。
目の前のヨセフカ女医らしき人物がまぐわっているのは確かだ。だが、何と?これは今、ヒトと、何がまぐわっているのか。見えない何か。見えてはいけない何か。
それを一瞬なりとも、理解出来はしなかったか。
その事実に、ぞっと、鳥肌が立つ。
そして、まぐわうその背に、冷たい刃を突き立てたい欲求が己の脳髄に突き刺さっている事実に、青褪めたのだ。
「…ああ、気持ち悪い…あなた、分かる?」
ぎくり、と顔を上げる。扉をこじ開けて、動揺していた。気付かれぬ筈はない。
「私、ついにここまできたの、見えてるのよ…やっぱり私は、私だけは違う。獣じゃないのよ」
「だから…ああ、気持ち悪いの…選ばれてるの…分かる?頭の中で蠢いてるの…幸せなのよ…」
「ヒヒヒッ、ヒヒヒヒヒッ…!」
何を言っているかを、努めて理解しようとはしなかった。きっと今の狼には、それの理解をする事ができてしまうのだろう。
何とまぐわっているか。
何に選ばれているか。
何が蠢いているのか。
だからこそ、それから目を逸らした。
目を逸らすとは、それが何処に、「何であるか判らなければ」出来ない事。そういうことなのだ。
そうだ。自分が、『そう』近くなっている事に、ハッキリと自覚を持ったのはこの時であった。薄々と感じていたものが、事実になった瞬間は、この時。
ふらふらと、刀を杖にするように突き立てながら部屋を出る。女医には何もせず。
何か打算を考えての事ではない。
殺しが悪いなど稚児のような事でもない。
ただ、吐き気を堪え、その場を離れるのが精一杯であったのだ。
その胎内にある臍の緒を求める己の本性を抑えるに、精一杯だった。
「……はっ、はっ………」
ようやく、気分が落ち着く。
平静を保ち、診療所を歩き探索をする。おぞましい実験の内容はしかし、悪夢の中に見たものに比べればまだ直視可能なものでもあった。
そうして仄暗い屋舎を見ている中、きしむ古い館に不釣り合いな真新しい紙が、二つあった。
それは、手紙。差し出され、便箋になった招待状。片方には宛先が書いておらず、そして片方には…
「…馬鹿な」
彼の名。
隻腕の狼が、記されていた。
彼に名は無い。
だからこそ、隻狼という呼称は唯一彼に残る、名に近しいものであり、そしてまた、誰も最早知る筈の無い呼称でもあった。
招待状にまた記されているは、ただ一言。ヘムウィックの辻にて彼を待つという文言のみ。
「……」
思い残した事が一つ、出来る。
己の名を知る者は何であるか。
これを送った者は、誰であるか。
それを確かめに行くのだ。
あと一つ、ついでに考えること。
この白紙の招待状はどうしようか、という事。
…
……
…雪が身体から温度を奪い去ってゆく。
その白色を染め上げるように、血が撒き散る。
弾きの音が、白銀の世界に吸い取られていく。
呪怨の音が、赫となって白に対照される。
白銀の世界と荘厳なる城は、これまた隔絶された世界に来たようであった。城に導かれるように入れば、其処は怨霊の巣窟。首の落ちた貴婦人が、主人の帰らぬ小間使いと共に狂乱する。
カインハースト。
招待状へ書かれた城の名である。
血に塗れ、血に屈したその彼らの姿はしかし、優美さを保とうとしており、それがまた物寂しさを狼に感じさせる。
騎士として、貴族として。
貴い物であると死して尚、それでも狂信し続ける事が出来るのは、それが否定されれば最早この世に居る事も出来ないからであるのか。
まともな道すら残らぬこの城に、それでも住み着き、守る意図をわからないまま。
狼は先に進む。目的の為に。招待状を出した人物が誰かを突き止める為に。
雪が、降り頻る。風に雪が揺らぎ、陽炎じみた揺らぎを空間に生み出す。
屋内を超え、上へ、上へ。
此処は今、大きな天覧台である。
その先は、大きな玉座があった。
そこに横たわる、大きな木乃伊も。
その手先が動いたは、幻覚にすら見えた。だが、ロッドをその力で吸い寄せた瞬間、幻覚は現実の敵へと変わる。この先を通させぬ存在であると。
彼は、殉教者。
血族の長を殺せぬとして、その身を以て封印をしたものであるのか。はたまた、その美しさに囚われ、殉教する対象を翻した恥知らずか。
いずれにせよ、彼にとって狼は、彼の殉教の末期の邪魔をするものであった。
殉教者、ローゲリウス。
画して、今に至る。
弾きの音が、雪に奪われていく。
周りには不思議なほどに静寂があるばかりだ。
ロッドに見えたそれは、呪怨の剣を持つ鎌であり、そしてまた呪怨を放つ触媒。
危。
弾くと同時に、呪怨が放たれる。
からがらに避けるつもりが、追ってきたそれに狼がぶち当たる。
「……ッ!」
臓腑が抉れるようだった。
堪らず、雪に転がる。それにトドメを刺そうとローゲリウスの鎌が燦った。
地面に向けて放たれた刃を、跳ね飛ぶ様に避ける。そしてその、地面に向いた刃を思い切り踏みしだいた。それは体幹を崩すだけでなく、切れ味のよいその刃を地面に抉り込ませ、抜けなくさせる。
「!」
「ふッ…!」
好機。
月光の剣を手に取った。そして、大振りな一撃を繰り出そうとその身を捩り…
瞬間、失敗を確信した。
鎌は、あくまで触媒。必要でありながらも、それを放つ絶対条件では無かったのだと。
大いなる一撃の為に隙を晒した狼を、爆発するかの様な呪怨の連鎖が襲った。
じくじくと身が腐り、呪いが身に刻まれる。
人の像を保てなく成るような一撃だった。
尚、死ねぬ。不死人として、狩人としての熟達が、彼の命だけは拾う。それは最早、死への、苦痛の猶予でしかなかった。
「ぐ…う、う…」
どす。
栄誉の為か、ただ見苦しい者の介錯をしただけか。いずれにせよ、脳幹を貫かれた狼は、いよいよその命を保てなくなった。
死。
…
……
ぎぃん。再び、弾きの音。
鎌を弾き、そして月光の剣で怨霊を防ぐ。いずれも完璧に手傷を負わないと言うことは難しいが、しかしそれでも、戦いは続けられる。
武器として、月光を振るう暇は無い。
そしてまた義手に仕込んだ武器を使う暇も見出せない。瞬間、呪怨を打ち込まれるだろう。
ただ着実に、一番手に馴染む刀を、楔丸を刻み込む。弾き、弾き、切り、避けながら背を刻む。
膝から崩れ落ちたその無防備に、忍殺を叩き込もうとするも、しかしまた呪怨の暴走がそれを妨げる。
あの呪いの破壊こそが、最も厄介だ。
だが、それだけだ。
素早く、鋭く、そして凶悪。ローゲリウスの斬撃はまさにそれであったが、幾度か死に、戻り、覚えた狼にはそれは最早スロウリィでもあった。
だからその空いた手に、一振りの剣を導き出した時にも、それはまだ大したことでは無いと思っていた。それを地面に刺した瞬間に、初めて異常を読み取る事が出来た。
危。
それも、かなりの数だ。
怨霊を纏う剣。それらが列挙して飛んでくる。
それは剣が恨みを纏い、動いているのか。恨みが剣の形をとっているのか。少なくとも、外敵である狼の臓腑を抉ろうと、その牙を剥く。
最初の1、2発を弾き、他を走り抜けて避ける。そしてそれに追いつく様に、ローゲリウスが此方へと向かって来ていた。
「……これは…」
先程までの、ある種どっしりとした鈍重さとは違う。この殉教者は、呪文がある故の慢心や、高貴に拘る全てを捨てて、己を殺しにきたのだ。
「…」
だがむしろ、この戦い方こそ。
狼には得手である。
走りながら、手裏剣を放つ。それは怨霊の剣を放つ、その元となった剣を容易く砕き、それ以上に発生させなくした。
それを確認して、足を止める。
殉教者の刃が彼を襲う。
否。忍びの弾きが、殉教者を、襲う。
鎌。剣。剣。呪文由来の一閃が来るが、それも弾く事が出来る。大振りの鎌を、避ける。その先に剣の一撃が飛び、それを弾く。弾いた剣が再び軌道を変えて変幻自在に襲い掛かるが、それをすら全て、鋼のように弾き返す。
分が悪いと思ったのか。
引いて、怨霊の剣を再び生み出そうとする。
それをまた即座に手裏剣が砕く。
距離もまた、鉤縄で異常までに近寄る。
こうする事で、長柄の、鎌は無用の長物となる。剣の一撃は、弾きで非常に御し易い。
こうなれば、時間の一方であった。
殉教者の技量が未熟であった訳では、当然無い。
だが、不死の狼に魅入られた時点で、彼の命運は尽きてしまっていた。
「Ohhh!!」
起死回生の一撃をと。
怨霊の力を借り、ローゲリウスが大きく上に飛んだ。その、位置エネルギーを得た一撃はしかし、放たれる事は無かった。
同時に、狼は宙空に飛んでいた。
ローゲリウスの目の前。
空中で動ける生き物は存在しない。
だが忍びの動きは、地上の時点で編まれていた動きの、一片であるのだ。
それは、高く跳び上がった敵を仕留める、忍びの体術。中空にて隙をさらす者に飛びかかり、忍殺することができる。
地に足つけぬ、忍びの戦う術の一つ。
対空、忍殺。
首を裂かれた木乃伊は、ただその命が嘘だったかのように、塵芥に帰ってゆく。
殉教者は此処に初めて、真の意味で殉教に至る事が出来たのだ。
忍殺。
…
……
狼の腕には王冠が握られている。
脳の疼きがこの王冠を、何もありはしないこの空間に捧げよと、そう言っているのだ。
わかる。
わかってしまう。
これが、秘匿の形であるのだと。
雪が、白銀が、風に吹雪く。
何も見えない程の強烈な風は、次第に大きなシルエットとなって目の前に姿を表す。
そこに聳え立つは、玉座に続く道。
今まで狼が通った道は、ただの廃城。
此処こそが、ローゲリウスが守るべき、真なる城であったのだろう。
長い、長い階段を登る。
その先に何かがいると信じ。
ずずず。
その荘厳なる石の柱の林は、心の弱い者ならばそれだけで怖気付くような代物だった。
だが狼は進む。緊迫と恐怖こそが彼の戦場だ。
ずずず。
長い階段を登り切る。そこには大きな踊場があり、その先に二つの玉座がある。
一つは空の王座。
そして片方には、鉄面の女王。
彼女が忍びに招待状を送った者であるのか。
そう、声をかけようとして……
ずずず、ず。
地を音が、狼の横を通り過ぎた。ばっと、影が散るように、狂喜の速度で何かが通り抜けた。擦っていたものは、何か。
車輪のように見えた。
ぶち。
ぶちい、ぶち、ぐちゃ。
星が瞬くような、一瞬の事であった。
忍びは、自分が何を見ているのか、少しの間だけわからなくなり、呆然としていた。
その男は、招待状を得た瞬間より此処へと向かって来ていた。そして、最低のタイミングと言うべきか。狼が秘匿を解いた瞬間に、狼に追いついたのだった。
教会の白服を着た男が、車輪を以て、鉄の仮面毎に女王を轢き潰している。鉄がひしゃげ、ペラペラに成る程の打撃を耐えられるようには、人体は出来ていない。
ぶちぶち、という音が次第にぷちぷちという細やかな音に変わり、次第にまた地面を叩くだけの、ずだんずだんという音だけが響く。
それでも尚、打撃は止まない。轢殺は止まぬ。
金色の、三角形。
そんな奇怪な兜を被ったその男の正体は与り知る事が出来ない。
……否、解っているのだ。
狼が、招待状を渡した人物は誰であったか。
それでも眼を逸らしたかった。そうでないと、せめて思いたかった。
だがしかし、眼を逸らすとは、何よりも「それが何であるか」判っているという事。そういう事なのだ。
「死ね、死ね、死ね!死ねッ!」
肉が潰れていく不快な音が、荘厳なる空間にこだまする。玉座より離れた位置にある狼の頬にすら、肉片が飛んでくる。
「如何にお前が不死だとて、このままずっと生きるのなら、何ものも誑かせないだろう!すべて内側、粘膜をさらけ出したその姿こそが、いやらしい貴様には丁度よいわ!」
「……ヒ、ヒヒ…ヒャハ、ヒャハッ…
ヒャハハハハハハァーッ」
その声が、逸らした眼を現実へと向き直させる。聞いた事がある声。一度は共闘すらした、その声だった。
血族狩り、アルフレート。彼の自称を、鑑みるべきであったと今更ながらに思う。
血族は、滅びて久しい。この国を調べるにあたって知った事実である。
であるのに、それの自称をしていたということは、遥か昔の物語に心を奪われたというだけではない。ほんの少しでも残ったそれをすら滅ぼすという、意思の表れ。表層に現れていた狂気の一片であったのだ。
結果的に、仇敵を目の前にして。この、赤い月の元に。彼は狂ってしまったのだ。
そもそもが狂っていたのやもしれない。
だがしかし、正気がその狂いを覆い隠す事は無くなった。そして、その覆いは、もう二度と戻る事はない。
己があの時に、招待状を渡さなければよかったのではないだろうか。
そうであれば、無念を抱えたまま、しかし正気のままでいたのではないか。念願を成就出来はしないまま、しかし人としての理性を保った生涯を過ごすことができたのでは無いか。この獣の夜を超えられたのかもしれない。
招待状を渡したあの瞬間、彼は喜んでいた。
違う。あの喜びは、狂気の溢れ。
であるならば、それは間違った啓蒙だ。
狼はまた、間違った。
誤った。
道順。
あの捨て牢に送られた赤目の被験体。
澱のように残り続けていた彼の心的外傷が、静かに瘡蓋を剥がし、血が流れ始めていた。
刀を手に、狼がアルフレートに近づく。
正気を失った者の末路は、酷いものだ。葦名でも、此処でも、幾らでも見てきた。
故にこそ、せめてここで介錯をしようと。
まだ、人としての形を保つ内に。
「…どういうことですか?
なぜ、私に、刃を向けるのです?」
「ッ!」
その声に、手が揺らいだ。
それまでに手に掛けた者が想起するような軟弱は、忍びになった時に捨てた筈だった。
しかし、修羅の己が重ねた恩人殺しが、瞬間になってこの手を震わせた。
殺し、損ねた。
「血が!血が出たじゃないですかッ!」
そう喚き立てながら、アルフレートが車輪に手をかけた。じゅわりと、膿汁が如くに呪いが、怨霊が武器から滲み出る。
あの車輪は、そうだ。
先程の殉教者が放つあれの一種か。
ごぎぃん。
一撃を弾く。武器を弾いた音では無い。まるで獣の突進を鉄が受けたような炸裂音だった。
しかし正気を失ったその怪力は、非常に単調なものでもあった。そして、葦名の忍者が持つ弾きの技術は、相手の膂力にその技術を左右されない。
「嫉妬!嫉妬なんですかあっ?」
「……」
「狩人の嫉妬は醜いものですっ!貴方は、貴方の狩りに邁進すれば良いものをッ!」
次々と、地響きが共に鳴る程の激突が繰り出される。しかし狼には全て届かない。
忍びの眼が捉えている。速やかに殺し損ねたとはいえ、初めの一撃は、最早致命傷であった事。そして、あの車輪がアルフレートの生命力を殊更に奪っていっている事を。
初めの忍殺で仕留めきれてしまえばよかった。
これではただ、徒に苦しめただけだ。
あまりにも残酷な苦痛を与えただけだ。
「……済まぬ」
「謝罪!ああ、嗚呼みっともない!報いあれ!
貴方も血に呑まれましたかッ!」
狼は、それ以上に何も言わなかった。
そもそもが、寡黙な人間。
ただ、弾く。弾き、弾く。
その均衡はあっという間に終わる事となる。ごろんと重い音を出しながら、アルフレートが膝から崩れ落ちた。出血量に身体が耐えかねて、膝を折ったのだ。
怨霊の呪いと、出血と外気温に依り冷め切った身体。彼の身体はとっくに死人であった。
祈るように手を合わせるアルフレート。
それに、狼が近付いていく。
「……師の祀りを、お願いします」
師。先程葬った殉教者の事か。はたまた彼が持つ師匠の事か。そうだ。考えてみれば狼は彼のことなどまるで知らない。異邦の地で、ただほんの少し話をしただけ。
だが、だからこそ。狼はこの瞬間に、重々しい気持ちを背負っていた。
「……判った」
「嗚呼…感謝、しま…」
頸動脈を裂き、いっそ間抜けなほどぴゅうと吹き出た血に浴しながら。
狼はただ、天を仰いだ。
…
……
は、と。光の一片も無い夜に眼を覚ます。
脂汗塗れになった身体を落ち着けるように、夜風を浴びに行く。
ここ最近は、いつもこうだ。
存在しない腕が幻肢痛を放ち、そして、脳がずきずきと痛みを放つ。あの夜に失い、奪った呪いが未だにこの身を苛むように。
夢を見て、起きる。
悪夢が彼を覚醒に導く。
目の下の隈は深々しい。
彼の悪夢は、悍ましさだけに由来しない。狂気の因果と、血塗れの断罪が、彼の脳に焼き付いているのだ。
これが、修羅として殺戮の限りを尽くした己に。そして自らの意思でも人々を殺した己に、課せられた罰なのだろう。
そう、思う。そしてまた、己が己を許す瞬間は二度と来ないのだろうとも。
自嘲気味に狼は、口元を釣り上げた。