大きな空間に、出た。
饐えた匂いが一面に散らばる。それは胆液のような腐ったような匂いの様でもあり、花のように妖しい匂いの様でもあった。
進むとぴちゃ、ぱちゃと足元が濡れる感触。血か?何かの悍ましい液体か?
否、これは透明で、何か害する事も無い。しかしただの水ではない。体液でありながら、そしてまたうんざりする程浴びた、血では無い。
これは涙だ。狼が忍びとして生きてより、無縁になった物。故にぴんと来なかった。
涙、涙が、脛辺りまでに水没する程に水溜りになっている。当然に、人の流す量では無い。これだけの量を、この広い空間に、足が浸る程に流すとなるならば、この空間に入りきらぬ程の数の人が必要だろう。
ではこの涙を流した者は誰であるのか。
その姿は、シルエットは、とうに見えていた。
異形のシルエットが見える。
背中から生えた白翼は、悪魔か、天使か。
否。そのどちらでも無い、肉のある生命体だ。
ーー美しい娘よ、泣いているのだろうか。
「ッ!」
脳裏に、混線したような声が響く。どこからともなく聞こえた声はしかし、人の声であったかも不確かだ。
己の脳に、何が入って来ているというのか。何かの智慧、想い、知識。
巫山戯るな。己は己だけのものだ。誰かの知識の操り人形になるものか。それをしてよかった者は、ただ一人だった。もう居ない。
喝、と自身に力を入れる。
どうした事でも無い。己は己。それだけだ。
そして今から、目の前に在る者と死合う。
白無垢じみて全身が白色であった。ぶよぶよと、皮膚の生々しさはある。袴の裾のような足元は服を纏っているのでは無く、そういう身体であるのだ。巨大な体躯。その姿は胡乱なほどに非現実的であった。
土下座か、礼拝か。そのように、頭を下げているその生き物の正面前に立つ。
そこに居る生き物は、触手が何処からも生えてありながら、洗練されたような生物的な機能美が存在しているようでもあった。
否。そも、その感覚すら汚染された己の脳髄が考えたものであるのか。
どすり。
(…はッ……)
白い返り血が、彼を正気つかせる。
気がつけば刀を打ち抜き、その頭部へと突き刺していた。認識への汚染への恐怖、それを打ち払うように、誤魔化すように。
ずるる、ざば、ぴちゃり。
水溜りに埋めてあった顔が外傷を境にこちらに顔をあげた。グロテスクな、中心が空の道管。それは顔のパーツとして当然とも言わんばかりに、顔を埋め尽くす。
無貌。
強いて言うのであれば、頭部に縦に入った亀裂が口の役割を果たすのであろう。
唯一、顔らしきもの。人と全く同じ物。
翠玉じみた眼玉が此方を睨む。
その眼は、言葉の無き慟哭に濡れていた。
星の娘、エーブリエタース。
彼女の名前は、ただ脳に瞳として記される。
…
……
触手での薙ぎ払い。その動きはひたすらに単純であり、攻撃としては恐るべきではない。しかし、上位者の肉体そのものが、それを骨肉を砕く程の怪奇へと押し上げている。
ぐわあん、と、ただ一撃ですら砕けてしまいそうな音が楔丸から鳴る。いつ折れてしまってとおかしくないそれはしかし、忍び自身の技術と、それに込められた思いがただそうはさせしめない。
危。
己の中にある危険信号と、ついさっきの死した自身の記憶が相手の予備行動の恐ろしさを感じ取る。その次に来る攻撃の恐ろしさが。
星の娘が頭から、突っ込んでくる。
言うなればただの突進だ。
で、あるからこそ、その威力はまずい。
真正面から受けたその時は、高所から奈落へと落下したように、粉微塵になった。
そして今回は。かすっただけだ。であるのに、義手がただぐちゃぐちゃの鉄片になり、まだ残っている二の腕部分はクズ肉じみてぼろ切れに成り果てた。
本当ならば、避けることが出来れば良かった。しかし至近距離からの巨体の突進はそのまま、どうしようもなく回避の難しさであった。
「……ぐう……!」
苦悶の悲鳴を噛み砕く。
距離を取り、瓢箪の内の傷薬を飲む。
患部に、止血を狙ってかける。
焼け石に水であろうが、まあ、出血は治る。
そしてその距離のまま、背にある月光を、地に突き刺した。この大剣は、両手でなくば振るう事能わず。そして今、片方の腕はぼろぼろに動かす事すら出来ない。
であるならば、少しでも身軽になる方が良い。そう考えての行動だった。
その、刹那。エーブリエタースがその剣へと猛然と突を進めた。
仇を見初めた鬼のように、はたまた祝福を求める信徒のように、もしくは故郷の名残を幾十年ぶりに見た郷愁のように。
剣へ、その首を垂れた。
そしてその位置は、今まで忍刀では届かなかった場所。恐らくは弱点であろう、頭部。
何が起きたかは分からぬ。だが一つ間違いないことは、好機であるという事のみ。
思考を止めて、ただ身体が反射的に攻撃の準備をするそれに従った。
片腕では剛たる一撃は放てない。ならば手数で攻めるのみ。
それは舞うような連撃。流水のような動きと手数により敵を圧倒する、葦名流の剣技にして、その異端である。
浮き舟渡り。
微塵に切り裂くような連撃が頭部を襲う。灰褐色の体液が飛び散り、翠玉のような眼が紅く染まる。ぶちりと何かの切れる音。
舞いが終わると同時に、がくりと体勢を崩す。その中にはぽっかりと穴が空いている。切り刻んだ跡。斬撃の跡、その、自らの所業の跡。
今なら、出来る気がする。
しなければならない気がする。
狩人として、その罪を背負う者として。
脳がそう命じたような気がした。
楔丸をかちんと、鞘に仕舞う。
そして空いた腕を、その空洞にどずりとねじり込んだ。勢いのまま、刺突となった。
「……奮…ッ!」
己の中に宿る何か。修羅では無い。もっと内側にある、己の秘めたる者。己であって己でないもの。己が否定しようと、己であるもの。
自らの、獣性。内なる野獣の咆哮を、狼は脳に聞いたのだ。
「雄々ッ!!」
内臓攻撃。
狩人が用いる、技術にして業の一つ。
彼らの獣性の、露わとなったその力であった。
その一撃は過不足無く、深く深く突き刺さり、破壊した筈である。だがそれでも星の娘は生きている。
地団駄のように闇雲に暴れる。それをまた、即座に引き抜いた楔丸で何とか受けた。
慣れぬ攻撃の即座に行う防御に、息も絶え絶えであったが、なんとか。
遠くへ距離を取り、体勢を立て直す。
崩れかけた体幹を静かに研ぎ澄ます。
そう、していると。
エーブリエタースは丸まるようにその身体を小さくした。
闘う気を無くしたのであろうか。これ以上傷つけないでくれと言う訴えか。
否。次の瞬間にはその態勢は解かれ、此方に向かってきている。
その巨躯故に足下へと潜り込めば攻撃を当てにくい筈だ。その考えを見抜いたように、星の娘が赤い液体を振り撒いて来た。
「…?」
血、かと思った。
だが彼女の血は先ほど見た、赤褐色の液体の筈。ならばこの赤い液体は少なくとも、この目の前の生き物の血では無いのだ。
では、何か。判らないものには触れない方が良い。後ろに踏み込み、それの大部分を避ける。
しかし液体である都合、全ては避けられない。その数敵の飛沫が頬にかかった。
その赤い液体を振り撒く姿は、液体さえ避けてしまえば隙だらけである。そちらへと駆ける。あわよくば、このままに頭を狙って仕留める。
そう、思った。
瞬間。
隻狼のぼたぼたと耳と眼から、血が流れる。
膝から力が抜けていく。
「……ッ!?」
危。
崩れ落ちた狼に、頭部が向かってくる。
だがそれを避ける力は無い。
ぐしゃ、り。
頭部に縦に入った、口じみた亀裂。そこが狼を捕食した。
その苦痛は無間地獄へ迷いこんだのかと考えてしまう程であった。肉体が溶かされ、消えていく感覚。そしてまた、宇宙の神秘と全ての知識が脳内に流れ込んでくる。
知識がなだれ込み、ちっぽけな人間一人の脳が上書きされてゆく。黒い絵の具が、既に描かれた絵を塗り潰すように、どんどんと無くなっていく自己忘却の無間地獄。永劫を知るという責め苦。
狼は、ほんの少しだけ残った最期の力を用い、奥歯を思い切り噛み込んだ。
瞬間、その奥の歯は激毒を放ち、忍びの身体を蝕んでいく。
(………!!)
自殺。
奥の歯に込められた薬品がそう、せしめた。
その判断は正しかったと言えるだろう。狼がほんの一瞬でもこれを躊躇したならば、彼の肉体は紫のランタンの前に戻ろうと、知、脳は元に戻る事は無かったのだから。
死。
…
……
「雄々ッ!!」
再びの、内臓攻撃。まるで先程と全く同じような行動を行い、ここまで来た。
だが先程と異なり、片腕、つまり義手は無事である。突進を、完璧に避ける事に成功したのだ。
さあ、そして。この手傷を負った時に、前回、彼女はその身を丸めていた。己が死に瀕したのは、それが原因なのか。それとも別の何かか?
目を凝らす。耳を澄ます。
答えを得たのは耳だ。
エーブリエタースの周りには、ごく微弱な音が鳴っている。小さく、そして大きい音。
成る程、からくりはこれだ。音の鎧。身体から発した音をその身に宿す事によって彼女は何者も近寄らせない鎧を作り出したのだ。
これは、どうしたものか。遠くより攻撃すれば良いのだろうが、手裏剣程度の一撃では微かすぎて、意味も無いだろう。
かといって、刀やその他道具などの投擲技術は狼には無い。
ならば覚悟を決め、一瞬でその頭部に一撃を咬ますしか無い。鎧が解けるのを待つという事も、そもそも解けるという保証がないのだから。しかし、それならばどのような一撃を加えるべきであろうか。
遠くで様子を伺う狼を見据え、エーブリエタースが空へとその触手と、手を仰ぐ。
(!あの、動きは…!)
既視感がある。
あれは、遠くの宇宙への呼びかけ。彼方からの呼び声であり、彼方への呼び声。
ばしり。
義手の中にある鉄傘を展開させた。
そのすぐ後に、神秘が雨となりて降り注ぐ。
がりごりと鉄が削られていく音。防いで尚伝わる衝撃と痛みを耐える。
「……ッ…!」
ごがん。
鈍い音と共に、傘に穴が空いた。
それが合図になったかのように、いくつもいくつもの穴が、傘に空いていく。
咄嗟にそれを、切り捨てた。
そして、走り抜ける。
何とか避けきるが、傘が破損した今、もう一度あの神秘の雨を放たれれば最早防ぐ手段は皆無だろう。
危。
「はっ!」
身体に、巨大な黒い影が被さっている事に気がつく。そうだ。そこには、星の娘が飛んでいた。背中の翼をはためかせ、織天使が如くにその姿を浮かせていたのだ。
その神聖なる飛翔から放たれるのは、神聖の欠片も無い、ただそれ故に恐ろしい一撃。此方へと飛び掛かり、その勢いのままに、突進をする。
回避。間に合わない。ならば防ぐしか無い。出来るのか。突進をすら避けるしか出来なかった。傘も無い。それでも出来るのか?
違う。
発想を逆転させるのだ。
今こそが、最大の好機なのだ。
これをその場凌ぎに防ごうとも、音の鎧をどうにかする問題が残っている。だが、今ならば。
威力は、相手が用意してくれているのだ。それをただ、相手に返せば良い。手詰まりな問題の二つを同時に解決出来る瞬間こそ、今なのだ。
即座の逡巡。
刀を構える。頭上に、すと構えた。
その周囲には闘気が集うように、力が集う。
否、それはまぼろしの力。狼が忍者を極めた故に出せるようになった、隻眼の犬の幻影。
目を、閉じる。集中の極み。
全てから隔絶された暗闇。
集中が作り出す、スローな時間の流れ。
わん。
まぼろしの隻犬が、鳴いた。
瞬間、目を見開き、刀を振り下ろす。
葦名・一文字。
ただただ、全身全霊を込めたそれである。
目の前にある突進の瞬間の頭部に、その刀が深々と突き刺さる。根元まで、鍔まで。深く、深く。
無論その衝撃が伝わり、隻狼の腕は悲惨な事になっている。折れた骨は肉を突き破り、目も当てられない傷となった。
そしてまた、その勢いが、エーブリエタース自身にも振るいかかっている。
音の鎧が狼から力を抜いて行く。
だが、歯を食いしばる。まだだ。
この一撃には、二撃目がある。
まだ生きるそれを、二撃目で叩き伏せる。
葦名の一文字は、二連で完全となる。
一文字、二連。
悲惨に折れた腕が放つそれは、しかしそれまでに見せた技の全てよりも研ぎ澄まされていた。
悲鳴、悲鳴。
目の前の白き娘が断末魔の悲鳴をあげる。
そして最期に彼女がした事は、祈り。
祈って、涙を流す事だけであった。
「……」
光の粉となって消えてゆくエーブリエタースを、そしてその光景を見て、狼はは、と気持ちを整える。
もしかして。と。己はただ、故郷へと帰りたかっただけの生き物を、徒に殺戮の巷へ引き摺り出しただけなのではないだろうか。
何も、証拠など無い。
だが、自分がそういう立場だからであろうか。そう、思ってしまった。
もしそうであるならば、故郷を追いやられ、その先で殺される。
そのような輪廻が己にも降りかかるかもしれない。罪とは、業とは。そういうものなのだから。
彼女が何を考えていたか。それはこの先に狼が受ける罰でわかるのかもしれない。
忍殺。
…
……
回想が終わる。それはつまり、彫りの作業を終えたという事でもあった。
今日はこれでやめにいたそう。そう思う。自分を追い詰めるように彫り続けていても、それはただの自慰行為でしかない。何より、木が勿体なくある。
さあ、そろそろ、エマが此処へと来る。
そうして、客も来ることだろう。
それらにまた、売り出しをしていこう。
そう、思っていた刹那。
少しの気配を感じた。
それは、客の物ではない。空き巣のものでも。どちらであるならば、このように、気配を消す術などは熟達していない筈だ。
エマでもない。彼女は恐るべき腕前の持ち主ではあるが、逆にそうであるからこそ、今狼に気取られるような半端な気配と殺気の消し方はしない。
かちり。
近くに置いてあった楔丸を、手にした。