燃える。
彼らの世界が、燃えて堕ちる。
呑まれ、そして消えていく。
その光景の有り様を、ただ見ていた。
…
……
炎が燃え盛る。
廃寺が、燃えている。
仏の像も、小さな像も全てが燃えている。
古びた木が炭になる音。煙が滾り、赤が盛る。浮かれた様に炎に焼かれ、ばちばちと爆ぜる音は、祭りのようでもあった。
燃える寺の前に立つは、二人。
そして、寺の中には屍体が一つ。
焼かれるより前に喉笛を裂かれ、死んでいる。
この出火の下手人は、狼である。
そしてまた。寺にある屍体も、狼が殺した。
ぱちぱちと燃え盛る寺であったもの。
また勢いを増すように薪をくべた。
風が吹くたびに、ごうと炎が猛る。
炎を見るたびに思い出す。修羅がゆらりと、隻狼の裡で炎を逆巻かせる。いつだろうと、いるのだと言わんばかりに。
否。あの時より、あの頃より。永遠に消えぬ焔が、己の内にあるのだ。それの表れが、此の光景の有り様であるのだから。
ぐお。
一際強い風が吹いた。その一陣の風は炎を、火の粉を鱗粉が如く遠く遠く飛ばす。その光景が、狼の内の追憶となる。
禍々しく、ただ脳に焼き付いた光景の。
…
……
それは、悪夢の中の記憶。
狩人の悪夢の中という事であり、そして狼が悪夢に囚われた挙句の、悪意の痰壷と成り果てた後の話。罪業を苛む悪夢じみた記録。修羅に呑まれ、殺戮千万のみを求めて彷徨い続けた、朱の禍つ神が遺した記憶だ。
呪いの水子を殺めた修羅は、そこら中を虱潰しに歩いて回った。生きている物を探した。動いているものを探した。目が合う者を探した。闘える物を探した。血の流れる者を。殺す事が出来る何かを。
己に殺戮の快楽を味合わせてくれるならば何でもよかった。
目に映る全てを燃やし、殺め、壊していった。
漁村は、より強い呪いの炎にその身を焦がした。
実験の棟は、奈落の焔に焼かれて堕ち崩れた。
牢にも、何にも、羅刹の穢れた炎が全てを包み込んだ。
最早悪夢は悪夢にあらず。そこにはただ、火神の歪な寵愛を受けたが如く、灼熱の地獄が広がっていた。
狩人が見続けた悪夢は、羅刹の悦楽の為だけにその様を空気すらも炭と化す閻魔國と化したのだ。
修羅は、ただ一つ、火が移らない物に、一種うっとりとすらしたような視線を向けた。
追憶が産み出した、存在のしない幻。
終ぞ守れなかった誓いの後悔の頭蓋。
そしてまた、教壇に横たわる燃え盛る獣。
ローレンスの頭蓋。
悪夢の中にのみ存在する物。本物の頭蓋は、薄汚い獣のものになり果てたきりなのだから。
そしてだからこそ、獣はそれを求める。
うつつには存在しないと、脳が囁くだろう。世界が証明するだろう。であるからこそ、それを求めてやまない。失敗と後悔を無かった事にする為に。今は亡き追憶を、今とする為に。
追憶が戻る筈もないのだけれど。
微動だにしなかった、獣の指が動いた。
下半身が動き、その横たえた身を起こす。
頭を抑える。溢れるその身の炎が苛むように、目玉からまろびでた。
頭蓋の形を確かめるような動きでもあり、そしてまた脳の疼きを治める為の動きだ。
「Queaaaaaaaaaa!!!!」
嗚呼、無い。無い。
無い物ねだりをする稚児が如く、焼き焦げた獣
が天に響く絶叫をした。それは己を憐れむ絶叫か、喪った人間性の残響か。
初代教区長、ローレンス。
彼の、火の溢れる瞳が鬼を睨む。
焼けて落ちた修羅の眼がそれを、受け止めた。
…
……
「Queaaaaaa!!!!」
姿形は、過去に殺し合った獣と。
あの橋で闘った、聖職者の獣と同じ。
肥大化した左の腕と、雄鹿じみた角。そしてその体躯を支える強靭な下半身。
だが、そしてまた、あれとはモノが違う。
修羅をして警戒せしめるその威圧が、それ故に彼を快楽の笑みを浮かべさせていた。
左腕が、修羅を押し潰そうと真上から襲い掛かる。修羅はそれを動かずに受け止めた。
楔丸とローレンスの爪がぎちぎちと鎬を削る。体躯の差を物ともしない修羅の剛力ではあるが、しかし瞬間に体勢を崩した。
力負け?否。力では互角。だが獣は掌から、左腕から、炎を穿ち、彼を焼き払ったのだ。
修羅の身体は、既に焔が焼いている。だがその炎すら呑み込むような、恐ろしき怨嗟。執念の焔。獣の橙炎は修羅の黒炎をそのまま上書く勢いで彼を燃やし尽くさんとしていた。
ぎしり。修羅が嗤った。燃えし身体を纏う炎が再び穢れた黒い焔に舞い戻っていく。それと同時に。否、それすら待ちきれないと言わんばかりに、獣へ奔る。斬りかかる。
剣術の欠片も存在しない、乱雑な切り刻み。獣にはそれこそが寧ろ有効である。
脚を斬る。そしてその肥大化した腕を返す刀に
斬る。どちらも、硬い。獣の体毛と既に炭と化した皮膚が、その硬度を更に増し金剛石じみた強度を作り上げている。
だがそれを押し、潰し斬る形でぎちぎちと切れてゆく。ノコをすら必要としない、気狂いにのみ許された膂力。失った物にしか許されない怪力。
危。
襲い掛かる一撃を目に捉える。
修羅はそれを避けずに楔丸を構えた。
左腕による薙ぎ払い。
弾き飛ばす。
もう片方の、右腕による更なる払い。
力付くに防ぐ。
再び左腕による、一撃。
最後のそれのみは避けた。
修羅であろうと防ぎ切れなかった。
避けねば、死んでいた。
避けた、という事実に苛立ちを感じ、その思いを更なるどす黒い殺意に変える。
びきり、と足場に蜘蛛の巣じみたヒビが入った。瞬間、修羅は獣の背後に居た。影をも置き去る素早さで背後に回ったのだ。
狙うは脊椎である。
だが後ろ回った修羅を狙い、ローレンスの右腕が振り回される。純無比なだけの一撃を、膂力と執念の炎が致死性の塊とする。
直撃は防ぐ。それでも傷は浅くは無かった。が、まだ動く事になんの支障もない。
成る程。修羅が、悦楽と殺意に塗れた脳の、奥ばった場所で静かに思考を動かしていた。
肥大化している腕は、左腕のみ。あの左腕の一撃は、触れた物をそのまま塵芥に変えてしまう程に無双であろう。で、あるからといって、もう片方の腕が貧弱であるか。
そんな事は、断じて無かった。否。むしろ、その細く、短い腕こそが厄介極まりなかったのだ。それはまるで、二振りの刀の様であった。
短刀と、長刀。刀流じみた隙の無さ。
片方の間合いを見極めようとすば、片方がそれを断ずる。腑を裂き、肢体を灰塵へやつす。短刀にのみ気を付ければ、本命の死が待っている。
それを鑑みて。
修羅は楔丸を仕舞った。
死を、負けを受け入れるという事か?
そうであったならば、どれ程良かったろう。この時に彼が死ねば、この後に修羅の殺戮が現実のヤーナムに振われる事が無かったのだから。
修羅が、懐より新たな牙を取り出す。
それは、楔丸よりも余程薄い刃。
耐久性はあの名刀より、余程劣るであろう。だが代わりに、鋭さと長さ。そしてその切れ味はそれよりも勝るであろう代物。
ぎぎ、ばきぃん。
無茶を通して変形をした音が響く。柄頭に着いていた刃が変形を伴い、短刀へと変化をしたのだ。
その牙の名は、落葉。
時計塔の聖女が心弱き故に捨て、その命も武器も、何もかもを忍びが奪い立てた証座。
薄き異国の刃を手にしたという事。両腕を埋め、弾きの構えをすら出来なくなった状態。これはどういう事か。自ら進んでそれになったと言う事。それが意味する所は、もはや防御を必要とすらしないという事だ。
この段階で既に、修羅はこの獣の動きを、ほぼ全て見切っていた。
「Quoooooo……!!」
薙ぎ払い。それをずるりとすり抜ける。
足元を裂きながら、背後へ。
それを咎めるようなローレンスの一撃をまた、避ける。避けるだけでない。その一撃を放った腕をずたずたに引き裂いている。
ローレンスが痺れを切らしたように、跳躍をする。だがその隙はかの朱の羅刹にとっての福音にしか過ぎなかった。
その体積による跳躍、落下。それは当たってさえいれば、あくまで人の身体である修羅など、幾人であろうと殺める事のできる程の威力だった。誰であろうと死なねばならないような一撃だ。
ただそれは、当たってさえいれば、の話だ。
易々と、嘲笑うかのようにそれを避けた。
修羅の方向に向き直る煤けた獣を、衝撃が襲ってきた。斬撃。それが、列挙して襲って来た。
無数に。数えるのも馬鹿馬鹿しいほどに。
秘伝・竜閃。
なんともまあ、皮肉であろうか。修羅を切らんと刀を極めた男の技を、他でもない修羅に堕ちきった者が扱うのだから。
穢れた黒炎を纏う、鬼の一閃。邪悪な鎌鼬。
真空刃は一撃に留まらず、落葉の両腕に握られた刃が振われる度に放たれていく。
一撃で必殺となり得る一閃を、何撃となく。代償に薄き刃はその刀身に大きな罅を入れている。放つ度放つ度ローレンスの身体はずたずたに引き裂かれ、そしてまた落葉の葉はぼろぼろと枯れ果てて行く。
ばきぃん。
両腕の刀を変形、一本に戻した。
ず、と擬音の鳴ったような気がした。
いっそその様な、構えであった。
豪。真空を纏い、刃としつつ思い切りの良い突きが、放たれた。
竜閃と、マリアが放つ渾身の一撃を混ぜて放った、修羅の作り出した禍々しき混血技である。狼のずば抜けた技の粋、そして修羅としての怨嗟の力が可能にした技。
その無茶の代償として、剣が砕け割れた。
哀しき哉。落葉は、心弱きにより捨てられた挙句に、その身を人の心も喪った修羅に使い果たされてその生涯を終えた。
そしてその代償を払った一撃は、ローレンスの臍から下を全て爆けさせる程の威であった。それを見て、満足気に狂った微笑みを浮かべる修羅。だが、笑みが瞬間に凍る。
尚、消えない威圧。
寧ろ増したこの恐怖は何だろうか。
下半身が無くなり、飛び回る事も、動く事すら難しくなった筈のそれは、しかし未だにぞっとする程の危であると、身体中が警告を放つ。
ずるり、ずるりと上半身だけが這いずり、彼を追う。彼の手の内にある頭蓋をそれでも求めて。致命傷を負おうとそれでも。手に入れる為。我が手に戻そうとする為。あの日の警告を二度と忘れてしまわない様に。
あの祭壇に身を横たえ獣の炎にその身を焼きながら、彼は想い続けていたのだ。我が身を焦がし、犠牲にしてでも、ただ追憶を手にしたいと。狂おしいほどにそれを追い求めて、永遠に追いつけぬ残光を追い続けたのだ。だから、この程度では止まらない。死に繋がる傷を負った、そんな程度では。
涙ぐましいそれを尻目に、修羅はごきんと手を鳴らした。溶けた鉄義手が無理矢理に駆動を齎された音。
再び何かが変形させる音。それは狼が手にしていた狩道具だった。大きな剣の形であった物の柄がその機構により伸び、先端を横に動かす。あっという間に、剣が戦用のツルハシ…ウォーピックへと姿を変えた。両腕で振るう筈であるその杭を、しかし修羅が片手に振るう。
教会の杭。獣の臓腑を縫い止め、殺す為に医療教会が創り上げた、鬼の心の臓をえぐる為の武器。
危。
脚を刈り取るような地擦りの薙ぎ払い。当然、意図した事では無いのだろうが、しかし下半身を失った事によりその一撃は高度が下がり、先ほどの一撃よりも避けにくく、弾く事も難しい代物となっている。
それを、前へ踏み込み避ける。
眼前に躍り出た。片方の腕は身を支える為に地面に付いている。故に先程のような、片方の腕の動きを片方が補う事は出来まい。
「!」
だが修羅は瞬間に、ローレンスの頭部にある角に鉤縄を飛ばし、翔け飛び、背後に回った。
「Quoaaaaaa!!!」
先程まで修羅が居た場所には、ぬたぬたと恐ろしい輝きを放つマグマが煮立っていた。
口から放たれた、鉄すら溶かす獣の炎。内に溜まる一方であった獣性と、それすは焼き尽くさんとする啓蒙と人間性の成れの果てである。
あれに触れれば、あくまで人の身体である彼の体は、何も残らなかっただろう。
裏回る瞬間に、楔丸と教会の杭がそれぞれ斬り穿った。それぞれは眼を貫き、頭蓋を砕いた。ローレンスはしかし、それを気にする素振りすら見せない。
瞬間、理解した。
奴の肉体は既に死んでいるのだ。半身が弾け飛んだ時にか。はたまた、祭壇に横たわっていた既にか。現実でその頭蓋が警句を破った時からとうに死んでいたのかもしれない。
ただその身体を動しているのは、彼の中の溢れんばかりの後悔と啓蒙、獣の衝動。燃え盛る炎がその情動であり、怨念だ。
炎こそが、彼の命の現れ。
両手で、マグマの海を遊泳するように。
泳法でもあるように、ローレンスが両腕をばたばたと動かし始める。
獣の腕力が、身体をみるみる恐ろしき勢いで動かし始める。歯車仕掛けのからくりが如くに、きりきりと、修羅へと。
腕が、交互に叩きつけられる。失われた下半身と上半身の間から、マグマが迸る。右手に回り、辛うじて避けるものの地が溶け、そして逃げ先も消えてゆく。
追い詰められるのは時間の問題だろう。
劣勢。絶対絶命。
その瞬間を鑑みて修羅はまた、嗤った。
今日一番の、晴れやかですらある笑みだった。
ずん。
閃光の様であった。達人であろうと、剣聖だろうと、その動きを捉えられただろうか。
その、遊泳じみて動く手の片方が地に着いた瞬間。水滴の王冠が永劫に感じる程の、弾指に満たぬ瞬き。楔丸と杭が鈍色の閃光となった。
両腕を、縫い止められた。
それぞれが接地したその刹那を狙い、楔丸と教会の杭が、地面に縫い止めたのだ。
両腕を縫い止められ、這いずり移動する事と、そして攻撃を封じられたローレンス。
瞬間に、口から溢れる溶鉄で彼を焼こうとした。
しかしそれが吐き出される前に、羅刹の笑顔は頭の上から襲いかかり、双腕で頭部を地に叩きつけた。口が閉じ、溶鉄は最早放てない。
まるで、立ち上がれない。修羅の剛力が、獣を完璧に服従させしめている。
修羅の掌から。身体から。
溢れ出た黒い焔が、盛った。
「Quaaaaaaaaaaaa!!!!!」
獣の炎を、獣の炎が侵食していく。
人間性の慣れ果てを、人の慣れ果ての黒い炎が燃やし尽くして行く。
「……Qu…aaaa…!!」
人の末に獣に成った者。
人の末修羅に成った者。
ただ、後者の黒い炎のみが教会を覆う。
包み込み、全てを燃やし尽くす。
「………」
数刻後。
けたたましい断末魔すらも消えた。
修羅の目の前にあるのは黒炎に塗れ、二度と動く事もないただの獣の死体であった。
忍殺。
こうして、修羅は悪夢を後にした。全てを蹂躙し尽くした事を分かり、此処にはもう用が無いと。
そうして、紫色のランタンの前に座った。
そうだ。まだあの世界には幾つも命があった。殺す為にある、命が。
オドン教会に、戻り着く。びりびりと全身に身体中に強者の匂い。命の気配を感じる。
赤い月に錯乱していた赤ローブが、すん、と匂いを嗅いだ。誰かが来訪した事を感じ取った。
「……おや?狩人さん、かい」
「……いや、あんた…だ、誰だ?」
修羅は、刃を振るった。
…
……
「狼!」
「………済まぬ。大丈夫だ」
医師の声が彼をまた、正気付かせる。
彼女もまた、狼と共に廃寺を焼いている。
寺の中に焼けてある死体は、内府の追手。
忍びが生きていると知り、けしかけられた一人の密偵であった。
密偵が来たという事実。それは、葦名に。此処に、狼らが居る事を、認識されてしまった、という事である。内府の軍が、此処を。
それが示すは此処には居られないという事。
ここに、この故郷に身を置く事は最早出来ないのだ。
故に、この寺を二人は燃やしたのだ。
最早、足跡を残す事能わず。
そしてまた、燃やす事は、彼らの戻る依辺を無くす事にも繋がっていた。彼らにはもう戻るべき場は無いのだと。
薄々と感じていた、別れ。それが目の前に提示される瞬間は、思っていたより、ずっとずっと、早かった。
回想していた修羅の記憶を、頭から振り払う狼。二度と、ああは成らぬと決めた。犯した罪を償い、いつ終わるとも解らない贖罪をする。それはまた、人であり、人として生きる事だ。
「……では、参りましょうか」
「……ああ」
薬師が、狼にそう促す。
そうして、荷を持つ。
「……エマ、以前も言ったが…」
「…私も、もう行く場所もないのです。
共に行かせてください」
「……」
最後に、彼らは廃寺を振り返った。
火の勢いも、最早衰えつつある。
燃える。
彼らの世界が、彼の居た世界が。
故郷である葦名の国。
その最期の名残が、燃えて尽きていく。
灰に。
『葦名』は、ここに全て、潰えたのだ。
それを見届けてから。
二人は、静かに歩を進めていった。
何処へ向かおうか。それすら、不明瞭。
西か。そちらも、良いかもしれない。
二つの影が、夜闇に溶けていく。
朝霧が静かに音を消してゆく。
彼らの行方を知る者は、誰も居ない。
【外典、ここに閉じる】
以上で外伝を一区切りしようと思います。
聖杯ダンジョン篇は…ひとまずは未定です。