ぴりと空気が張り詰めた。
過去に一度ならず撃ち破った相手ではある。だが錆びきった今の己が敵うような者では間違っても、無い。鯉口を切ろうと指を添える。だが、刀は抜かない。それは、弦一郎も同様だった。
そのままに沈黙と時が流れる。
「…止めにするぞ。
今、我等に戦う意味は無い筈だ」
そう言い、弦一郎が背を向ける。確かにそうだ。あの時は互いに譲れぬ物の為に、成す事を成す為に、戦う他無かった。
だが今はどちらにもそれは無い。主の命は忍に無く、護るべき国は武者にはもう無いのだ。故に戦う必要も、無い。
「付いてこい、忍よ」
「…」
彼はそのまま、そう狼に言って歩き始める。
罠かとも考えた。しかし、付いて行く。いずれにせよ情報の共有は必要な事である。例えそれに危険を伴おうとも。
奥へ征みながらに、二人は話す。
その様子は何処か滑稽な様子を帯びてすらあった。
「…生きておいで、だったとは」
「いや。確かに俺は、死んだ。黒の不死斬りに、この身を黄泉返りの贄としてな」
「…」
「だがここに居る。修羅道に堕ちたと思っていたが、どうやら違うらしい」
尤も、貴様も死していなければだがな。
そう言い、狼を見やる。
「…弦一郎殿は、どの様にして此処へ」
「死して直ぐ、この教会に居た。
この、地獄の様な有様の街にな」
成る程、あの市街にでは無く、此処に初めに送られ、探索を重ねたのか。通りで、今までに彼についての話を聞かなかった筈だ。
「時に、狼よ。あれが見えるか」
ふと止まり、そう指をさす。
上に向け、指されたそこには何も無い。
ただ、虚空だけがある。少なくとも、狼にはそう見えた。
「…何も」
「そうか。ならばいい。
あれは恐らく、見えぬ方が良いものだ」
そう、再び歩き始める。そこには珍妙な沈黙と緊迫がある。或いはその緊迫は、そのまま周囲に向ける警戒でもあった。
「貴様は、如何様にしてここに居る」
「…仏を、彫っておりました。
ですが、気付けば此処へ」
「何も判らぬ、という事か。
まあ、責めはせん」
言動とは裏腹に、少なからず落胆しているようである。無理もない話だ。あわよくば此処に来た謎が解けるやもと、微かにでもそう思わぬ方が難しいだろう。
再び二人の間を沈黙が包む。進む先には死体が続々と転がる。そしてまた、それまでは永い時間閉ざされていたであろう鉄の門扉は、開け放たれていた。
恐ろしく巨大な、だが確かに人である死体らには矢が刺さり、また、刀傷がある。それから、この一連は。開いた門と殺戮は、全て弦一郎が行ったのだろう事が判る。
弦一郎は、不死では無い。それは、その鎧と身体に付く夥しい数の生傷が物語っている。変わらず、当然に、一度死んだら、終いであるのだと。
彼はこの地獄を、死なずの力を持たずして生き延び、調べていたのだ。それは正に、驚嘆に値する事だろう。しかし、では何故傷を負い、死を目の当たりにしてまでも探索を続けていたのか。忍びにはそれが解せなかった。
それを、目より読み取ったのか。
目を伏せ、彼は語り始める。
「この街が、何故斯様な有様に成っているか。
聞き及んでいるか、狼よ」
「『獣の病』と。そう、聞いております」
「そうだ。そして、それを治めるもの」
「…『血の医療』」
「ああ、そうだ。人を獣に変え、そしてそれをすら癒す事の出来る。そういったものだ」
「…それらを我が手に、納める事。
出来ると思うか」
「…弦一郎殿」
その一言で、全てに合点が行く。
彼の目的は、かの時より、何一つとして変わっては居ないのだ。
つまりは、そう。葦名弦一郎は、獣の病を、血の医療を、あの地へ。彼等の故郷へと持ち込もうと思っているのだ。
「病を敵に撒き、我らのみは癒える。さすれば、傷ついた葦名であろうとも闘えるであろう」
何一つ理想を諦めてはいないと。
そう言えば聞こえが良い。だが。
「…葦名は、亡びました」
もう、その国は存在しないのだ。亡国への尽力など、只々晩節を穢すだけだ。このような悍ましき物を持ち込むなど、尚更。
だがその様に愚されようと、弦一郎の威容は些かにも翳りはしない。堂々と、正しい事を為しているかのように。
「ああ、そうだろう。
だが、なれば再び興せば良い」
「…興したのなら。
それは最早、葦名ではありませぬ」
「違うな。我等の土地を、我等が奪い返す。そうなるだけだ」
「この地にて得た物。
それらを、我らに御せるとは思えませぬ」
「俺は、あの国の為なら、どの様な異端の力であろうと従える。従えてみせる」
莫迦げている。無謀を通り越し、愚かだ。
この街に広がる地獄を、故郷にまで展開させるつもりだとでも言うのか。
「どのようにも思うがいい。俺は俺の、為すべき事の為に動く。そして、貴様もそうであろう。忍びよ」
「…何を…」
「何の目的も無く、ただ死を待つだけの身ならば、何故貴様は此処に居る。この、聖堂街に」
「…」
「何かを為すべき事だと思い、それを為すために此処まで来たのだろう。その眼は、そう云う者の眼だ」
「……」
「…些か、喋り過ぎたな」
己はそうではないと。そう、反射のように思った。だが、何が異なるというのだろう。
主は既に居らず、それを命じた者も居ない。最後の不死たる自らを死そうという、それ。
それは、己が己に課した使命。
己の思いし、為すべき事。
御子様が望んでいる、というのは、己が手前勝手に作り上げた、主の偶像に過ぎぬ。
ならば、己は何がしたいのだ。
俺は、此処に来て、何をしていたのだ。
そうだ。それでもこの、幻より儚き偶像に縋る。それこそが、自らに潜む野獣を。修羅を、縫い留めるよすがなのだ。
「狼よ。貴様の目的も、血の医療だろう。
目的は違えど、求める物は同じだ」
「…は」
「ならば、この限りで良い。俺と共に来い。
平穏に済めば良いが、そうなるとは思えん」
「…」
異論は無かった。
概ね、その通りだと考えていた。
今やこの巷で会う者は全て獣。
医療教会の長がそうであると決まった訳では無いが、ただ、可能性は十全に有る。であるならば、闘える者は多いに越した事は無い。無論、何も無くば、それで良い。
故に、無言のままに付いて行く。
道中の、教会の人員らしき者はその殆どが和弓の餌食となり、また一部は、狼の牙に刈り取られた。
そうして、恙無く巨大な門扉へと辿り着く。
この街に来てより初めてとも言える程、円滑で、且つ危なげの無い道程であった。
…
……
長い階段を登る。響く音は二人分の足音と、人が読み、囁く警句の言葉のみ。
大きな広間のその中央に、声の主は居る。
あれが、教区長であるのだろう。
警句を聞き、返す者は誰も居ない。
未だにそれを信じ、祈り続ける敬虔と秋訴を嘲笑うように、静寂と月明かりがこの聖堂を占めていた。
見え、聞こえるものは、人の形と、人の声。
獣であるやもという思案は、杞憂であったか。
否。
狼は確かに、その者からする獣臭に気付いていた。そして弦一郎もまた、異様な気配を感じ取っている。刀を互いに引き抜き、背より近づく。
隙さえあらば、其のままに屍とするつもりであった。
しかし変容は、例に漏れず急激であった。
刃が追い付かぬ程に。
背骨をへし折らんばかりに反り、悲鳴を上げる。びりびりと鼓膜が痛むような絶叫。その叫びは、成る程、人としての意志が、身体が、内側から微塵と裂けて行く激痛に依る。
ごきごきと、骨が変容する。
ぐちゃぐちゃと、肉が生える。
鮮血が散る。
ぞくぞくと、背が何かを感じ取った。
これは、怖気か。いや、やはり違う。
「…これは…」
「参るぞ」
月明かりに照らされ、白き獣が姿を見せる。
その手は未だ、祈るように組まれている。
変わり果てた教区長は。
異邦の二人に、ただ静かに殺意を向けた。
次回、教区長エミーリア戦。
with、弦一郎殿。