ここにある極楽   作:蒼埼鷏

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本編

 その寺院の広間には十数人の男女が集まっていた。彼らの正面には蓮の花が描かれた屏風が立っており、それを背にするように一人の若い男が座っている。その若い男に向かって中年の男が涙を浮かべながら自分の身の上を語っていた。中年の男は商人であったが、長年雇っていた番頭の男に店の金を盗まれ逃げられた。信頼していた番頭がまさかそんなことをするとは思いもよらず呆然としていたが、無くなった金が返ってくるはずもなく。とにかく働かなければならない。病弱な妻も無理して仕事を手伝っていたが、ついぞ亡くなってしまった。男は妻の死に耐えられず、番頭がすべての原因だと恨みがましく泣き暮らすことになった。以上の話をうんうんと頷きながら聞いていた屏風の前の男が口を開いた。

「今夜は自分のことを皆さんの前でお話していただいてありがとうございます。話すだけでもお辛かったでしょう。今は大変でしょうが気を強く持って、悲しみをこの寺院で癒してください。恨みも怒りも忘れて心穏やかに過ごすのが肝心です。現世の艱難辛苦は私たちに課せられた試練ですが、人生の苦しみはかならず乗り越えられるもの。そうして生をまっとうすることで死後も必ず極楽に至ります。みなで助け合いこの世を楽しく生き抜きましょう」

 男は童磨という名の教祖であった。柔らかに微笑みながら流れるように説法を紡いでいく。この寺の教えである極楽教ではしばしば集会が開かれ、信者たちは自らの経験を共有し合う。辛いことも吐き出してみなに聞いてもらうことで消化し、日々を安らかに過ごす糧にしようという修行の一種である。童磨は教祖として今日の集会のとりまとめを行っていた。集会では神仏の加護を感じるような良いことがあった、願いを達成した、好い行いをしたという経験を語ることを禁じているわけでもない。しかしそのような前向きな人間は少ない。寺院の門を叩く人間はみな悩み深く、悲惨な境遇の者が多いからだ。今日の男もまだまだ悲嘆を語り尽くせていないようだった。また近いうちに集会に来ることになるだろう。

 悲しみなんていう無駄な感情を感じているから、と童磨は考える。

 信者の人たちはなぜ悩み、泣くという非合理な行動を取るのだろうか。泣く暇があるなら、仕事の一つでも進めればいい。二度と裏切られたくないなら、相手を見つけ出して復讐をして二度と裏切り者が出ないように自らの力を示せばいい。死んだ人間のことを想っても生き返って戻ってくるわけではない。童磨は生まれた時から自分とその他の人間の考え方が異なることに気付いていた。他人は感情というものを第一に優先するため、合理的な物の考え方をしない。神仏や死後の世界といったありもしないものに救いを見出したあげく、制御できない衝動に支配され愚かとしかいえない行動を取る。母親が良い例だ。両親は救いを得るために現世で善行を積むことを説いていたが、自分たちはその教えに違反し、家庭を壊す愚かな行いをした。父親は欲に負けて浮気を繰り返し、母親は嫉妬に駆られて夫と自らを殺したのだ。我が両親ながら頭が悪いとしか言いようがない。

 しかし、と童磨は思う。その哀れで愚かな心の動きが理解できなくても、彼らを救い安らかにあれるように導くのが教祖の務めだ。

 

 

 集会が終わり信者が帰ったあとに童磨が広間から出ると、廊下の向こうから歩いてくる者がいた。

「今日の集会はどうだった?」

「叔父様、こんばんは。いつもと変わりないですよ」

「今度の入信者は寄付をしてくれそうか?」

 男は童磨の叔父でこの寺院の運営を担っている。童磨は教祖として信者をまとめるが、事務方を取りまとめるのは叔父の仕事だ。このごろは口を開けばいつも寄付金のことについて確認してくるのが常だった。

「そういったことは叔父様にお任せします。俺は信者の話を聞いてあげることしか能がないので……」

「寺院の運営には金が要るんだよ。少しは考えてくれ……。兄さんもいつもそうだった。勘定のことなんてさっぱりわかりませんという態度で。信者に勝手に施しをやったり、御利益がありそうという理由でよくわからない高額な陶器を買ってきたり……。俺がどれだけ手綱を取るのが大変だったか。まあとにかく、せっかくお前のおかげで信者が増えてきたんだ。今後のためにも寄付金集めには協力してくれよ」

 

 童磨は白橡色の髪と、見る角度によって虹のようにきらめく珍しい虹彩を持つ。童磨の父は医者であり、ある宗教の熱心な信者であったが、童磨が生まれると「神の子だ、これは天啓だ」といって新興宗教・極楽教を作り上げたのである。童磨は生まれてから二十年の間ずっと極楽教の象徴として、信者の話を聞く役目を課せられてきた。そして両親が死んでから童磨が教祖を引き継いだ。そのうちその容姿の特異さに神仏の威光を感じた町人が寺の門を叩くことが増えたのであった。

「わかりました、叔父様」

「よろしく頼むぞ、童磨。極楽教はお前が頼りなんだからな」

 叔父はそう言って手を振り去っていった。童磨は彼を見送ると廊下を抜けて縁側から庭に出た。寺院の庭園は広く、中央の池の水面には風が静かに波紋を作っていた。近頃は暖かくなってきたと思ったが、今日は冷える。空を見上げると月が雲の間にかすかに見え、雪がちらちらと降り始めてきた。あの母子に初めて会ったときもこんな夜だったと思い出す。

 

 

 初めて会ったとき彼女の顔は打撲により腫れ上がり血と泥で汚れ、目も半分見えない状態だった。しかしその汚れた姿の中でまっすぐと童磨を見つめる緑の瞳は美しかった。

 まるで彼女の魂の光が強く輝いているかのように。

「お願いします、少しのあいだ宿をお貸しください……。この子のためにどうか……」

 雪の降る夜のなかを逃げてきたであろう彼女――琴葉は薄着で寒さに震えていたが、抱えている赤ん坊は彼女のだろう着物でしっかりと包まれていた。

 極楽教の教祖は現世で苦しむ可哀そうな人を救うのが役目だ。夫に殴られ姑にいじめられ、このままでは赤ん坊にも暴力の手が及ぶかもしれないと危険を感じ逃げてきた母子を匿うのは童磨にとって当然の行いであった。寺院に駆け込んできた琴葉はそのまま倒れてしまった。ようやく昼近くに目を覚ました彼女から逃避行の経緯を聞いたが、彼女はほとんど着の身着のままで逃げてきていた。寺院にたどり着いたのは幸運といえるだろう。昨日の晩に親子共に凍死していた可能性もあった。

 今夜も寒いが、彼女は温かくしているだろうか。琴葉の性格では、赤ん坊に自分の衣服を掛けてやり自分は風邪をひきそうなほど薄着でも気にしないのだ。

 童磨は外に出て寺院の周囲を一回り歩こうと門に向かった。ちょうど門の前を二人組の酔客が通り過ぎようとしていたところだった。

「わっ!」

 片方の男と目が合った途端に叫ばれた。

「いきなりどうしたんだお前」

「いや、すいやせん」

 童磨は笑顔で二人に会釈し、彼らが通り過ぎてから小さく「幽霊かと思って」という声を聞いて溜息を吐いた。彼の髪と瞳は目立って仕方ないので昼間の往来の激しいときは外に出るのを避けていた。かといって童磨を崇め、己を憐れむばかりの心の病んだ信者たちとともにずっと寺院の中にこもっているのも気が滅入るものである。必然、夜のうちに寺院を抜け出し散歩することが多くなった。しかし、暗闇の中では童磨の髪は月明かりを反射して幽鬼の類に見えるらしい。

「こんな見た目じゃなければねぇ」

 とぼやいてはみたけれどもこの白橡の髪と虹の瞳がなければ極楽教はなかったかもしれない。童磨はこの容姿で教祖となるべく生まれてきたのだ。いや、あの馬鹿な両親であれば俺がこの容姿でなくてもそのうち神の声が聞こえたと言って新興宗教を作り上げただろうか? いずれにしても童磨は教祖になる以外の道など考えたこともなかった。

 気を取り直して散歩を開始し、通りを少し歩くと角に見慣れぬ男が立っているのを見つけた。暗がりでよくみえないが、端正な顔をしている。男がゆるりと顔を上げて童磨の方を見る。眼が赤く光り、鋭い視線が童磨を射抜く。視線に貫かれた瞬間、背筋を凍てつかせるような寒気が襲ってきた。息が止まる。体が動いてはいけないと警鐘を鳴らしている。その時間は長く感じたが、実際は数秒に満たなかっただろう。寒気が消え再び息が出来るようになってから、ハッとしてその角を見ても男の姿は夜の闇の中に消えなくなっていた。

 

 

 

 

 庭の椿を眺めながら歩いていると、縁側に赤ん坊が転がっていた。じたばたと手足を動かし、次第に端の方に寄っていく。このままでは落下してしまうと慌てて駆け寄り抱き寄せる。腕を押しのけようとする赤子を部屋の畳の上へと降ろしてやる。

「ありがとうございます童磨さん」

 奥から赤ん坊を追ってきた琴葉が出てきて童磨に礼を言った。

「伊之助が這い這いを覚えたら大変なことになりそうだね。元気すぎる」

「元気なのが一番ですよ。成長するのが楽しみです。せっかくいらしたことですし童磨さん、お茶でも飲みませんか」

 いただくよ、と答えて童磨は縁側に座り込んだ。顔の腫れが引いて動けるようになった琴葉は寺院に置いてもらう礼をしたいと掃除や料理の手伝いを申し出た。といってもまだ彼女は病み上がりで片方の目は見えないままだし、何より赤ん坊の世話もしなければならない。だから寺院の手伝いは少しだけやってもらうことにしていた。その分、琴葉は童磨を見るとお茶を淹れようとか雑用をしようとか気を利かすのである。信者ではない、根の明るい女の子からの気遣いを童磨もありがたく受け取ることにしていた。おかげで最近は琴葉の部屋で伊之助を眺めながらお茶を飲んで休憩することが増えていた。

 伊之助が今日はことさら元気に転がっているとか、庭に太ったスズメが来ていて伊之助はご機嫌になったみたいとか琴葉の他愛のない話を聞く。春の日差しは柔らかく時間がのどかに流れていった。

 ふと愛情深く伊之助を見つめていた琴葉の視線が外れ、地面のあたりをさまよった。

「どうかした?」

「その……」

 琴葉が短く息を吐いてから答える。

「実家から文が届いたんです。……あの人がまた来たって」

「そう……。大丈夫だよ。ここにいれば見つからない」

 実家を通して旦那には離縁状を書くように要求してあった。しかしそれに納得しない男が実家に押しかけ、彼女はどこだと問い詰めに来たらしい。琴葉の両親は彼女が六歳の時に亡くなっている。彼女のいう実家とは両親と仲の良かった親友夫妻の家のことだ。養父母の彼らの事を琴葉は実の両親と同じように慕っている。彼らは決して琴葉の居場所を教えたりはしないが、暴力的な旦那が養父母に手荒な真似をしていないか琴葉は心配している。

 諦めの悪いやつ。彼女はもうお前のものではない。

「琴葉はずっとここにいればいいんだ。俺が守ってあげる。何も心配しなくていいよ」

「童磨さん……」

 琴葉は一度目を伏せてから顔をあげて童磨を見た。その顔には弱々しくも笑顔が戻っている。

「ありがとうございます。私たちが実家に戻れるようになるまでしばらく厄介になります」

「しばらくと言わずいつまでもいていいんだよ?」

「ふふ、童磨さんは優しいですね。こんなに立派な教祖さんはいませんよ。私とそんなに変わらないくらい若いのに」

「やだなぁ琴葉。極楽教の教祖としては当然の行いだし、褒めても何も出ないよ」

「ねえどうやって悟って教祖になったんですか? 教えてください天才の教祖様」

「俺は生まれついての教祖だからなぁ。うーん、ひとつ言えるのは琴葉に悟るのは無理かな」

 えー、そんなぁ! と琴葉が笑って答える。いつもの笑顔に戻ったな、と童磨は思う。彼女はにこにこ笑っている姿が似合う。

 

 

 雑談を続けていると門前の方がにわかに騒がしくなった。何やら大声が聞こえてくる。ちょっと見てくるからまた後でね、と言って、童磨は信者が集まり出した門の方に向かった。

「かやちゃんを返して!」

 騒ぎの中心では町人の娘が叫びながら寺院の奥の方へと向かっていこうとしていた。それを叔父と数人の者で止めようとしている。

「まあまあまあ落ち着いてください」

 娘が叔父をきっと睨む。

「かやちゃんはここに行くって言ったっきり連絡が取れないの! あんたたちが何かしたんじゃないの? 探させてもらうわ!」

「変な言いがかりをつけないでください。うちには居ませんよ」

 どうやら少し前に信者になった娘が行方不明で、その友人が探しに来たようである。確かに“かや”という娘は先月まで寺院に通い詰めていたが、そういえば近ごろは見かけていなかったと童磨は思い出していた。

「お嬢さん、お困りですか。俺が助けになりましょう」と童磨が声を掛ける。

「あんたがここのいんちき教祖? たいそうな身なりだこと。かやの亡くなった両親からの遺産を寄付金とか言ってせしめたんでしょう。私は騙されないわよ」

 娘はそう言い放つと、止める叔父を振り切り、寺院の奥に向かっていった。

「あらら。きついなぁ、極楽教に後ろ暗いところはないのにね。その子、こんな町で行方不明なんて人買いにでも攫われたんじゃないかなぁ。どう思う叔父様?」

「え? あ、ああ……そうだな……。疑われて困ったもんだ」

 叔父はハハと空笑いして、「好きにさせろ」と言って本殿に戻って行った。娘はしばらく寺院を探して他の信者たちに聞き込みをした後、何も手がかりがないとわかると、肩を落として去っていった。

 

 

 

 

 翌日の朝に童磨が日課の読経を終えると、入信希望の男がやってくることを下女に伝えられた。

「昨日の夜に一度見えたんです。豪華な着物を着た人でした。あんなお金持ちみたいな人にも現世の悩みがあるのかしら。想像つかないわ」

「誰にだって煩悩はあるものだよ」

 男はまた夜にやってきた。廊下を渡って広間に向かう。戸を開くと確かに質の良い染め具を使った紫色の着物を着た男が座っていた。端正な顔はどこかで見たことがあるような気がする。

「突然お邪魔して申し訳ありません」

 男は頭を下げてそう言った。

「私は商売もそこそこ成功し、部下にも恵まれていますが、昔から体が弱く、それだけがたいへんに気がかりでずっと悩んで生きてきました。健康になるという願いが叶うならどんな代償だって払ってもいいというくらいです。極楽教ではこのようなことに悩まされず、健やかに過ごすことができると聞いたのですが」

「極楽教の教えは日々の生活を丁寧に幸せに過ごそうというものです。教えに従い、心の平安を得れば病気などに思い悩まされることはなくなると思いますよ」

「たいへん興味があります。ところでこちらには今どのくらいの信者がいらっしゃるのでしょうか?」

「大体二百人を超えたところです」

 そう答えると、月彦と名乗った男は口元をゆるりとゆがめて笑った。

 

 月彦は頭の回転が速く、物腰柔らかな男ですんなりと寺院の皆に馴染んでいった。仕事が忙しいのか来るのは決まって夜だが、週に一度は顔を出していた。叔父ともすっかり打ち解けたようで寺院の運営について叔父は計算の強い月彦に相談しているようだ。

 

「この世に神などいるのでしょうか」

 

 あるとき、こういった話を月彦とすることがあった。

「ああ、すみません。教祖様に対してこんな話を。しかしね、こんなに無慈悲の多いこの世を見守っている神などいないと思うんですよ。天災があり、飢饉がある。悪ははびこり、人はすぐ死んでしまう」

 教祖の立場としておおっぴらに同意するわけにはいかないが、童磨の考えもほぼその通りだったので黙っていた。

「もし神がいるとしたらそんな無責任な存在はない……。それはただ万能の存在というだけの何かだ。なれるなら私が神になりたいものですよ。病気もなく永遠に生きられる存在に。そういう人を超える存在になれるとしたら。あなたも教祖ではなく、神になりたいと思ったことはないですか?」

 おそらくこの男はすでに俺の本質を分かっている。教祖の無宗教に勘付くとはこの男はとても賢い。

「例えば仏教では弥勒菩薩さまは必ずこの世を救いにいらっしゃるといわれています」

 といってもそれは五十六億七千万年後と言われている話だ。作り話にしても途方もない年月で無責任と言われても仕方がない。

「我々は今を精一杯生きるしかありません。無力なものです。俺は見た目が特殊なために、蓮の化身だの神の遣いだの呼ばれることもありますけど、それに見合う力は持っていない。教祖と言ってもやれることはほとんどありません。助けを求める人を保護することはできますが、救いは個々人の思考の内から得られるものです。極楽教の教えは自分を許し、苦しみを減らすお手伝いをすることしかできない。病気を無くし、永遠に生き永らえさせるような奇跡は行えません。俺が本当に神になれるならなりたいものです。より多くの人を救う力が得られるなら。人の身で人を救う方法なんてそれこそ永遠に時間がないと答えは出ないでしょう」

 月彦は無表情で童磨の話を聞いていたが、この答えに満足したのかくすっと笑って言った。

「ではやはり神になるしかありませんね」

 

 

 月彦と神についての会話をしてから、童磨は自分のなすべきことについて考えていた。極楽教には日々多くの迷える人がやって来る。子供を亡くした母親、家業を息子に継いで隠居した老人、親を物盗りに殺されて口が利けなくなった少年、なかなか子を授からない夫婦、心臓の病で体の弱い男、貧乏な生活をいつか抜け出せると夢見ている女。みな幸せになりたくて、童磨を拝みにやってくる。心穏やかに過ごしたい、嫌なことは忘れてしまって二度と経験したくないと語りかけにやって来る。童磨は教祖として信者の悲しみを吸収してあげる気持ちでそれを聞いてやり、教えを説く。

 けれど、俺は人の気持ちを本当に理解したことがない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。自分の行いがどの程度信者の考えに影響を与えているか真に推し量ることができない。両親のように明らかに間違った行いをするものもいる。それでもこの教えは少しでも意味があると信じて教祖をずっと続けてきた。居もしない神にすがっている信者は哀れだと思うけど。

 俺は教祖としてちゃんとやれているかな、と琴葉に疑問をこぼした。琴葉はそれを聞いて少し驚いた顔をした。

「信者のみなさんは集会のあといつも童磨さんにありがとうございますってお礼を言っています。私は学がないから説法はよくわからないけど……。みなさんの感謝する気持ちは本物だって思います。だから童磨さんは立派です!」

「そう……ありがとう琴葉」

 琴葉が満面の笑みがついた言葉を聞いて童磨は眉を下げて答えた。彼女の笑顔は本物だ、俺と違って、と童磨は思う。俺に対する信頼という感情から生まれ出た自然なものだ。琴葉は裏表がなく、嘘を吐けず、純粋に人の善の部分を信じている。彼女の心は清々しいまでに綺麗だった。悲惨な目に遭ったのは他の信者たちと変わりないのに、彼女の心は少しも翳ったところを見せない。暴力は肉体を傷つけても、彼女の魂を損なうことはなかったのだ。

「やっぱりずっとここに居なよ、琴葉。俺には君が必要だ」

「へ!?」

 突然、琴葉が裏返った声を出す。

「やっ、あの、ずっとここにいるのはご迷惑おかけしますし、というか今の、いえいえいえいえ!」

「えぇ……そんなに否定されると傷付くのだけれど……。琴葉が寺院の仕事を手伝ってくれてみんな助かってる。信者の女の子たちとも友達が多いだろう。琴葉が居てくれるとその場の雰囲気がパッと明るくなるんだ。みんな琴葉が好きなんだと思う。極楽教で琴葉の存在は欠かせなくなっているんだよ」

「あっ、そういうことですか……。そうですか……。それはそれで別に照れるのですけど……」

 頬に手を当てて赤くなった顔を琴葉は隠した。

「琴葉は俺と一緒にいたくないのかい? 俺は琴葉と伊之助とずっと一緒にいたいな。ねー伊之助も俺と一緒が良いよねー。極楽教が大好きだよねー?」

「あい!」

 童磨が抱きかかえていた伊之助が話を理解しているのかいないのか元気に返事をする。

「ほら! 伊之助はこの寺が好きだって! ね、琴葉は?」

 顔半分を手で隠している琴葉を虹色の瞳で見つめる。琴葉はあーとかうーとか言葉にならない声を出した後、小さな声でこう答えた。

「……私も大好きです」

 

 その晩、童磨は再び考えていた。琴葉の真摯な答えを受け取るとしても。神という精神的なまやかしではなく、もっと具体的に、物質的に人々を救うことはできないんだろか、と。そして琴葉の赤い顔を思い出してくすくすと笑ったあと、なぜか心臓のあたりが暖かくなってきて寝苦しいなと思った。

 

 

 琴葉が寺院に来てから半年以上が過ぎ、季節はすっかり夏に変わっていた。実家と文を交わしていた琴葉は今日養父母に顔を見せに出掛けた。今までは旦那に見つかる恐れがあったから寺院に匿ってもらったわけだが、「琴葉はどこだ」と実家に問い詰めに来ていた旦那も来ることがなくなって久しく、今のうちに顔をみせに来なさいと言われたらしい。実家は寺院から山を二つ越えたところにある。養父母は足が悪く、山を越えて寺院までやってくることができないそうだ。赤ん坊を連れた山越えはきついだろうと伊之助を預かることを申し出たが、琴葉はしぶっていた。早く行って早く帰ればご両親も安心するし、伊之助も辛くないよ、俺がお世話をするから、というとようやく頷き出発していった。そういうわけで今日童磨は伊之助とお留守番であった。信者の子が伊之助の世話をするといったが、知らない子に抱かれて伊之助がぐずってしまったので童磨が世話をすることになった。風呂に入れてあげて、童磨の部屋の布団に一緒に寝かせる。

「今日はお母さんがいなくて寂しいだろう。俺が一緒に寝てあげるからね」

「あう、あー」

 もうすぐ一歳になろうとする伊之助は信者の子と居たときと違って童磨と一緒にいると落ち着いている。母親がいなくても泣かないのはそれだけ童磨の顔を見飽きているのかもしれない。安心してくれているなら良かっただろう。他人でも半年も一緒だと覚えるものだなぁ、と感心する。

「まあ、伊之助の人生の半分を俺たちは一緒に過ごしているから当然かも」

 伊之助は少し目を離したすきにいつの間にか寝入っていた。母親に似て綺麗であどけない寝顔がかわいらしい。

「お母さん、早く帰ってくるといいねぇ」

 赤ん坊特有の甘い匂いがしてその晩、童磨は熟睡した。

 

 

 しかし、翌日の夜になっても琴葉は帰ってこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「実家にもう一晩泊まることにしたんだろう」

 叔父はそう言ったが、次の日の朝には童磨は琴葉に何かが起きたのだと直感していた。実家の養父母に久々に会い、話が弾んだとしても、琴葉が帰ってくる約束の刻限を破ってもう一晩滞在するとは考えられない。琴葉が長いあいだ伊之助を一人にしておくわけがない。絶対にすぐに帰るから伊之助をお願いしますと言って彼女は出かけて行ったのだ。不都合が起きて彼女は帰りが遅れているという自らの考えに従って、童磨は彼女を迎えに行くことにした。

 丸一日外出すると下女に伝えて、琴葉の実家に向かって出かける。山二つ先まで足を延ばしたことはなかったが、一本道で迷うことはないと聞いていた。普段は寺院の近くの大きな街で用は事足りて遠出する機会がないため童磨は旅慣れしていない。そのため山道では木の根に引っかかり一度派手に転んでしまった。黒い服が土で汚れ教祖としての威厳が台無しである。その後も苦労しつつ山を下りてから街道を半刻ほど進むとようやく町が見えてきた。

「琴葉さんのお宅はどちらでしょうか」

 通りを歩いていた娘に声を掛けて道を教えてもらった。寺院の近くの町よりはだいぶ小さい町だが、人々の活気にあふれていた。通りを歩く人が多い。その中で大人も子供も童磨を見ない者はいなかった。寺院の近くでは極楽教の奇妙な容姿の若教祖のことは有名で、道を歩いていても物珍しがられるだけだが、余所の町では怪しい人間だと思われているようだ。不躾なだけでなく刺々しい視線が刺さり居心地が悪い。俺は髪と目が人と違って美しいだけなんだけどなぁ、と童磨は内心で独りごちた。

 琴葉の実家はこじんまりした平凡な家だった。入口から声を掛けると父親らしき男が出てくる。

「すみません。俺は極楽教の童磨といいますが」

「ああ、琴葉と伊之助を匿ってくれたお寺の! こんなところまでいらっしゃってくださるとは。ふたりを助けていただいてなんとお礼を言ったらよいか……」

 母親も出てきて何度もお礼を言って頭を下げてきた。足の悪い自分たちのところにいても暴力を振るう旦那から琴葉を守りきれないため、寺院にいてくれて安心だという。優しい心根がにじみ出ている人たちだった。母親の方は特に柔らかい雰囲気が琴葉と似ている。実の親が亡くなってもこういった優しい人たちに大事に育てられたから琴葉はまっすぐに育ったんだろうな、と童磨は思った。

「それで今日はどういったご用件で……」

「琴葉を迎えに来たんです。彼女がいないと伊之助がそろそろ泣いてしまいそうですから」

「琴葉は寺院に帰ってないのですか? 昨日の朝にはここを発ちましたが」

「えっ」

 それなら遅くても昨日の夕方には寺院に戻ってきていたはずだ。やはり琴葉の身に何かあったんだろうか。山の中で怪我をして動けなくなった? しかし街道は一本道で来る途中で彼女は見つからなかった。山中を通るとはいえ人通りの多い街道でそれほど危険な場所はない。もし怪我をしたならすでに誰かに保護されているかもしれない。そこで最悪の想像が頭を過った。

「もしかしてあの男に見つかって連れ戻されたんじゃ……」

 同じようにその可能性に気付いた両親の顔が蒼白になる。童磨の胸は一瞬虫が這うかのような不快な感覚に襲われた。あの男はまだ琴葉を諦めていなかった? 実家の場所は知られているとはいえ、いつ訪れるか分からない琴葉を偶然見つけるなんてあり得るだろうか。可能性は低い。常にここを見張っていないとできないことだ。しかし――。

「俺が琴葉の嫁ぎ先に行って見てきます。万が一の心配ですが。単に足でもくじいてどこか道中の家か寺に一泊したのかもしれない。もし何かあったとしても必ず琴葉は保護するから心配しないで。極楽教の教祖の名にかけて誓います」

 不安がる両親に対し、童磨は固い声でそう告げた。

「……琴葉をお願いします」

 こくりと頷いた童磨は二人に別れを告げる暇も惜しみ、すぐに道を取って返して走り出した。

 

 

 胸を這いまわる虫が増えていく。その家に近づくほどにその感覚が強くなっていった。いるわけがない。とっくに寺院に帰っているはずだ。俺と行き違いになっただけに違いない。しかし悪い予感というのは当たりやすい。童磨は日暮れ前に養父母に教えてもらったその表長屋にたどり着いた。窓の格子から中を覗くと部屋の中心に座り込む琴葉が見えた。天井の梁から降ろされた赤い縄で手首が縛られ、腕を上にあげられた格好で固定されている。その姿を見た瞬間、血管に氷の針が流れ込んだような衝撃を感じた。部屋に他に人の影がないことを確認すると、躊躇わず戸に手を掛け、上がり込んだ。雑然としたその部屋は本や紙の束、家主の仕事道具であろう浮世絵の道具が散らばっている。

「琴葉……!」

 近づいて見ると顔に大きな青あざができている。男から殴られたのだろう。なんでこんな綺麗な顔を殴るんだ。気がしれない、と童磨は思った。着物は着崩れて半分胸が露出している状態だった。はだけた首元と脚に縄の跡がある。鬱血の跡と白い肌が対照的で痛々しい。他にも何箇所か打ち身の跡を見つけるたびに、童磨の頭はすうっと冷えていく。彼女はこの半年ですっかり傷が癒えていたんだ。それが再び傷付き、この地獄のような家に囚われている。彼女がこんな目に遭う理由がどこにある――――!

「琴葉、大丈夫かい。いま縄を解いてあげるからね。俺が来たから大丈夫だよ。安心して。すぐ助けるから」

 殊更優しい声音で童磨が声を掛けると、気を失っていたと思われる琴葉がうっすらと目を開けた。

「あ……、に……」

「琴葉、だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。俺たちの寺院に帰ろうね」

「ど、うまさん……。にげて……」

「題材に触れるな!」

 男の声。振り向こうとした途端、頭部に衝撃を受ける。体が横向きに倒れる。琴葉のかすれた悲鳴が聞こえる。側頭部が熱い。おそらく血が出ているだろう。体を起こし部屋の入口の方を見ると、背の高い男が立っていた。

「盗人か? 勝手にこの部屋に入って来るんじゃない。出てけ!」

 でかい声で威圧される。手には硯を持っていた。勝手に部屋に入っていたとはいえ、初対面の人間をいきなり鈍器で殴るとは容赦がない。童磨は男を睨んで毅然として告げる。

「お前がこの家の主人か。琴葉を解放しろ」

「こいつを? あははははは! そうか、分かったぞ。お前か! こいつの新しい男は!!」

 男が唐突に笑い出した。

「この半年、どんなやつのところに逃げ込んでよろしくやっているのかと思っていたが、こんな毛色のおかしい男のところにいたとはな……」

 ニヤニヤしていた男が唐突に真顔になる。

「俺の女に手を出しやがって! ぶっ殺す!」

 男は硯を振り上げて再び童磨を打ち据えようとした。とっさに起き上がり避けるが、狭い室内では大して逃げ場はない。

「琴葉はお前のものではない! さっさと離縁を認めろ!」

「うるさい! そいつは俺の女房だ!」

 頭を狙った男の攻撃を倒れるように避けると、足元にあった本と紙の束にぶつかった。それらが床一面に散らばる。瞬間、童磨の視界に一枚の絵が飛び込んできた。

 それは春画だった。赤い縄が巻き付いた裸の女の画。倒れ伏した女の顔は苦痛でゆがんでいる。周囲を見回す。床に散らばったどの春画も一様に女たちは体の自由を奪われ、暴力的に傷つけられていた。そしてその顔はみな同じだった。

 

 琴葉。

 

 |こんなもののために琴葉は傷つけられていたのか《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。

 こんなくだらないもののために。

 これ以上冷えることなどないと思っていた頭がさらに冷え、体のどこかから何かがぶつりと切れる音がした。

 硯が背中に投げられ、衝撃を受けた童磨は散らばった絵の中に突っ伏す。続けて男が放った蹴りで、床を転がされた。

「童磨さん――!!」

 琴葉がかすれた声で叫ぶ。童磨は胸ぐらを掴まれて、間髪入れず男が童磨の顔を思い切り殴る。口の中が切れて血の味が広がった。

「―――――!!」

 男は何かを大声でわめいていたが、耳がその男の声を聞いても童磨には内容を聞き取ることができなかった。このくだらない男の声を聞く価値を感じなかった。ただ殴られながら怒りに紅潮した男の顔を眺める。

 自分の罪を自覚できない愚かな人間――。

 神がいたならこのような生きる価値のない醜い人間は即刻殺していただろう。

 童磨は冷え切った頭で考える。ああ、ほんとクソみたいな世の中だ。

 男の体重の載った拳を顔で受け続ける。しばらくして殴打がやむと近くの山の中まで引きずられ藪の中に打ち捨てられた。頭から流れてきた血でかすむ目で日が沈んだ空を見上げる。雲が厚く垂れており、今にも雨が降り出しそうだった。最悪だな、と童磨は胸中でつぶやいた。予想以上に男は危険だった。童磨より背丈が大きく、画家には不相応なしっかりした体つき。嗜虐的な性癖。怒りに任せて何をするかわからない血走った目。暴力では勝てない、と童磨は判断した。一度寺院に戻ろう。極楽教の名を大々的に使って奉行所に訴えるのだ。確実に琴葉を救いだし、あの男に報いを受けさせなければならない。琴葉と同等、いやそれ以上の目に遭わせてやる。

 童磨は痛めつけられた体を無理やり起こした。体中がズキズキと痛んだが、ゆっくり歩くには問題ない。琴葉はもっと辛い目に遭っている。そう考えて降ってきた雨に濡れながら歩き出す。そもそもなぜ琴葉の惨状は今まで問題にならなかったのだろうか? これまでも日常的にあのような暴力に遭っていたのだったら幾度となく近所の目に触れていたはずである。もしかしたらあの男が近所の住人に金を握らせ、口をつぐませていたのではないか。あの家は散らかってはいたが、物が多く貧乏を感じさせなかった。そしてその配った金は琴葉をいたぶって描いた絵で稼いだ金なのだ。冷め切った頭とは反対に熱を持った体を降りしきる雨が伝った。今は寺院に戻るのが先決だ。

 寺院に着くと血と泥で汚れた教祖を見て信者たちがぎょっとして駆け寄って来た。何事かと心配する彼らを無視し、童磨はまっすぐ叔父の部屋に向かった。

 襖を開けて声を掛けると、叔父は書き物机に向かっているところだった。銭箱が横に置いている。寺院の帳簿を付けていたようだ。

「童磨か。今日はどこに行っていたんだ? 夜中に帰って来るなんて兄さんに似てきたんじゃないか……。――どうしたそのなりは」

 苛立つように答えた叔父が振り返ると、血で汚れた甥の姿に気付き目を見張った。

「琴葉が連れていかれたんです。俺は連れ戻そうとしましたがご覧のとおりで……」

 叔父は明らかに動揺した様子だった。忙しなく目を動かして童磨の怪我の様子を見た。

「……琴葉は実家に帰ったんじゃなかったのか?」

「実家には行ったんですが、琴葉は昨日の朝には帰ったと言われて……。万に一つの可能性で元旦那のところに行ったら捕まっていたんです」

「わざわざお前が実家に出向いたのか? たかが一日帰ってくるのが遅かったというだけで?」

 叔父が何を驚いているのかわからない。童磨は苛々してきた。拳を畳に叩きつける。

「たかがとはなんですか。琴葉のことなんですよ! 今も琴葉はあの男に殴られているかもしれないんです!! まさかあの男がここまで琴葉に執着し、琴葉を見つけることができるなんて……。最初から俺も同行していればこんなことにはならなかったのに」

 夫に非があって離縁を妻から言い渡された場合は普通別れてやるものだ。離縁状を書かなければ夫の恥とされる。そうでなくても寺に身を寄せる琴葉は――極楽教は正式な縁切り寺ではないが――世間的には離縁しているのと同じ扱いである。それを認めないやつの執着を見誤り危険性に気付かず、琴葉を一人で出掛けさせたのが間違いだったと童磨は悔やむ。これまで琴葉は出掛けるとしても寺院の近くで必ず信者か童磨と一緒に過ごしていた。今回の帰省は琴葉が寺院から離れる唯一の機会だったのだ。人攫いにはもってこいだっただろう。

 叔父は童磨を奇妙なものをみるように見つめて言った。

「お前が信者の一人に入れ込むなんて初めてだ」

「琴葉は信者ではありません。俺の大事な……」

 その先に続く言葉が見つからなかった。家族である叔父と極楽教の信者、その二つしか童磨の世界にはこれまで存在しなかったために。

「大事な……客です。彼女を連れ戻すために協力してください叔父様」

 琴葉は保護すべき弱者。他にどんな形容があるだろうか?

「はぁ……。とにかく今夜はどうしようもない。怪我の手当てをして休め童磨。寺のものを行かせるとしても明日以降だ。まったくあの男がお前にまでこんな暴力を振るうとは……」

 叔父は頭を抱え、眉をしかめた。今夜はこのような厄介ごとが起きるはずではなかったというような狼狽。童磨の頭に疑問が過る。

「しかしどうしてやつは琴葉がここを離れる日を知っていたのでしょう」

「…………実家の方にずっと張りついていたんじゃないか?」

「琴葉の両親はしばらくやつには遭っていないと言っていました。だからこそ彼女を呼んだんです。あいつが油断を誘って琴葉をおびき出すために姿を隠していたのか……」

 童磨は一度言葉を切ったあと叔父をひたと見て続けた。

「もしくは誰かがあの男に琴葉の出掛ける日を教えたんじゃないですか?」

 叔父が銭箱を一瞬見た。

 自分にとって叔父はどのような存在だったろう。童磨は考えた。両親が亡くなってから彼は極楽教をともに運営する協力者であり、自分にとってただ一人の家族だ。家族とは絆で繋がり、互いに愛し合うもの。だから俺は叔父のことが好きだ。しかし、自分が大事にするものを奪い、壊すような存在なら……それを家族と呼び、赦すことはできそうにない。母が父の浮気に気付いた時もそう思ったのだろうか。ある日、嘘が白日のもとに晒され、絆が幻想のように消え去った。そして母は包丁を握った。

 また崩壊するのか、俺の家族は。

「琴葉が実家に帰る日を知っていたのは、手紙を送った両親と俺も含めた寺院のもの数名だけです」

 琴葉のことを聞いた時の叔父の動揺、あの男(・・・)というまるで知っているような呼び方、金に困らない画家と銭箱を見た叔父。

「|叔父様なんですね。琴葉の場所をあの男に教えたのは《・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・》」

「――なにを言ってるんだ」

 叔父は起伏のない落ち着いた声で答えた。しかし一瞬の空白が、それが事実であることを童磨に伝えた。

「琴葉が逃げ出した嫁ぎ先をこの寺のものは知らない。俺も今日、琴葉の養父母に教えてもらうまで知らなかったんです。琴葉は……あの男についてろくに口にすることがなかったから」

 話せなかったのだろう。口に出せば痛みが蘇るから。俺は彼女が受けてきた痛みをほんの十分の一も想像できないでいた。信者のように恨みつらみを口に出さないのは彼女が苦しみを乗り越えた証拠だと勝手に思っていたのだ。外見は癒えても彼女の内側は傷ついたままだったかもしれないのに。ただ俺は彼女を心の綺麗な人だと思うだけだった。

「しかし叔父様、あなたは琴葉の養父母と寺の代表として文を交わしたことがある。彼らから住所を教えてもらっていたんじゃないですか? 叔父様だけだ。やつに接触して教えることができたのは」

「何を馬鹿な。俺はそいつには会っていない。そもそも俺がなぜそんなことをする必要が?」

 眉を寄せて戸惑う叔父。その様子はわざとらしく大げさに見える。

「あの男は琴葉が戻って来るならいくらでも金を出したでしょう。あなたは金と引き換えに彼女の情報を教えたんだ」

「私が彼女を売ったと? はあ……。童磨、言いがかりはよしてくれ。俺がそんなことをするはずがないだろう」

 叔父が頭を振る。言葉にいら立ちが混ざってきた。

「そんなに寄付金が足りなかったですか? どうしてこんなことしたんです? 何にその金を使ったんですか?」

「言いがかりはやめろッ!! なんの証拠があるッ!!」

 叔父は激昂した。確かに証拠はなかった。すべて可能性だ。叔父の不審な態度からの推論に過ぎない。しかし童磨の冷めた頭は導き出した答えが真実であると確信していた。

 なにか証拠さえあれば。

 

「証言が必要かな」

 

 そこに第三者の声が響いた。

「誰だ!」

 叔父が叫ぶ。部屋の隅の暗がりに目を向けると、そこには紫色の着物を着た男がいつの間にか立っていた。

「お前の言うとおりだ。こいつが女の情報を画家の男に売った。こそこそと顔を隠してな。礼金をたんまり貰っていたところを私がこの目で見ていた」

「月彦さん……?」

 童磨がつぶやく。月彦は普段の穏やかな様子とはかけ離れた重々しい気を発していた。彼の目は赤く光り、瞳孔が縦に伸びている。その目を細めて月彦が言葉を続けた。

「今度が初めてのことじゃない。これまでも信者の中で身寄りのない娘を遊郭に売ったりもしている。これが救済を謳った寺院の中核というのだから笑わせる」

「……お前ッ!」

 月彦はあざけりを込めて言い放った。叔父は焦りをにじませ、月彦をにらんだ。

「琴葉だけじゃなかったんですね」

 童磨は驚きとともに叔父を見た。月彦のいうことが本当なら今までまったく気付かなかったということだ。叔父は黙って童磨と目を合わせようとしない。

「そうだ。かやという子……。行方不明になったあの子がそうですね? これまでこんなことを繰り返していたんですか?」

「…………寺院のためにやったことだ。極楽教のために金が必要だった。お前のためでもあるんだ、童磨。仕方ないことだった」

「それでは本末転倒だ! 救うべき人たちをあんたは苦境に売り飛ばした!」

「金がなければ人を救うことはできないんだよ!!」

 叔父が童磨の方を見てまくしたてた。

「理想論では人は救えない! あの女のような行く当てのない者を保護するにも金がかかる。ごくつぶしをいつまでも留め置いてなんになる? 金は何にでもかかる! 建物の維持にも! お前の食うものにも着るものにもだ! 俺はあるべきものをあるべき場所に返しただけだ。ほんの少しの人間を本来いるべき場所に。それだけで極楽教は継続でき、他の多くの信者を救うことができる。それがお前の望みだろう?」

「極楽教を頼る人々すべてを救うのが俺の望みだ!」

「そんなことは不可能だ。だから俺が上手く調整してやっていたんだ」

 叔父の目にはどこか狂ったような熱が宿っていた。

「これは俺の使命だ。お前の父親のときから続けてきた。兄さんは能天気で馬鹿で、ありがたい教えは作れても実務はからっきしだった。俺が支えてきたんだ。現実的に寺院が継続できる在り方を探ってきたのは俺だ。それで確立した方法なんだ。一部を切り捨て、金にして、さらに多くを救う。兄さんはそんな仕組みを知ることもなく最期までのん気に教祖を続けていたよ。幸せな理想を掲げて現実を見ない人だった……。お前も同じだ。お前が二代目教祖になってもこの方法は続けてきた。童磨、どうして今更気付いた? これまでは信者がいなくなってもお前は不審に思うどころか、いなくなったことにすら気付いていなかったろう」

 確かにそうだ。俺は町の子が信者の子を探しに来るまでいなくなったことを知らなかった。叔父の言い方ではこれまでも何人か売られていたのだろう。琴葉がいなくならなければ今後も気付くことはなかったかもしれない。

 薄暗い部屋にくすくすと月彦の笑い声が響いた。叔父が月彦を見遣る。

「なにがおかしい」

「お前は遊ぶ金が欲しかっただけだろう。寄付金だけでも切り詰めれば質素な寺の暮らしで問題はない」

 叔父がぐっと言葉を詰まらせる。

「あんたは何者なんだ。帳簿のこともいろいろとあんたに相談してしまっていたのは軽率だった。俺を調べるために近づいたのか? 売られた人間を探しに来た?」

「違うな。お前は上手くやっていた。売るのは誰も探すことのない身寄りのないもの。情報を売るときは足がつかないように正体を隠す。ただ私はお前のような小狡い人間を見分けるのが得意でな。腐ったどぶを這いまわるねずみの臭いがする。私が興味があったのはこの寺院そのものだよ」

 そこで月彦は童磨を見た。値踏みするような目だ。

「肉親に騙されていたことに気付いてどうだ? 汚れた金で買った高い衣装を着せられて、豪華に飾られた壇上に人形のように座らされ、祀り上げられていたと知った気分は?」

 暗がりの中で行灯の火が揺らめく。童磨の瞳は光を映し、緑から黄色、赤へと色を変えていった。

「叔父様」

 童磨の呼びかける声は地を這うように重かった。責め立てるように響く断罪の調子に叔父が咆哮する。

「俺は兄さんに相談されたとき、確かに極楽教を金を稼ぐ事業として立ち上げた。だがそれは当然のことだ! 慈善事業は博愛の精神だけでは成り立たない!! どれだけ人を救いたかろうが、信仰があろうが……。何もなければ分け与えられないんだよ。俺のような現実をわかってる利己的な人間が一人は必要だ。理解してくれ童磨。お前はどれだけ俺に助けられてきたと思ってるんだ。二人が死んだとき、まだ子供だったお前を支えてきたのは俺だ。兄さんと同じ、人を救いたいと素面でのたまう馬鹿な甥のために俺は尽くしてきたんだ!」

 両親が死んだとき、悲しさより呆れから泣く童磨を叔父が抱きしめたことを思い出した。叔父はぼろぼろと泣きながら言った。「俺にはお前がいる。お前には俺がいる。二人で兄さんの作ったこの寺院を続けよう。兄さんもきっとそう望む」と。それから俺はこの人だけが俺に残された家族だと思い、両親に掛けていた優しさと慈しみをこれからは彼に向けてやろうと決めたのだ。そして二人で極楽教を続けてきた。

 だがそれも今日までだ。

 童磨は叔父の側にある机に向かった。引き出しを開けて目当てのものを探す。ノミが見つかった。鋏の方が良かったがこれでも良いだろう。突然のことに反応できない叔父に対し、童磨はそのノミを振りかぶり、左目を狙って突き刺した。

「ぎゃあああああああああああああああああ!!!!」

 叔父が叫ぶ。ノミを引き抜く。もう片方の目に刺そうとするが、叔父が暴れて上手く刺さらない。右頬に刺さる。首元に刺さる。右腕に刺さる。何度か狙いを付けて振りかぶって刺す。刺す。刺す。

 少しすると叔父は動かなくなったので童磨は右目にノミを突き刺すことができた。ぐりぐりとかき回して引き抜く。ぐちゃぐちゃとしたものがノミにくっついていたので放り投げた。畳に血がだくだくと流れている。すっかり部屋を汚してしまった、どうやって掃除しよう。

「派手にやったな」

 しまった、月彦がいたのだった。童磨はすっかり忘れていた彼の存在を思い出した。どう言い訳したものかと返り血を浴びた頭を捻って考える。

「あのー、今見たことって黙っていて貰えませんか?」

「いいぞ」

 ダメ元で言ったことが了承されて拍子抜けする。

「その死体も処理してやろう」

 べん、と琵琶の音が鳴ったと思うと叔父の死体が消え去った。驚いて血で汚れて何もなくなった畳と月彦を交互に見遣った。

「お前は見どころがある」

 月彦が血だらけの童磨に近寄る。薄闇の中で気付けば彼の顔貌は変わっていた。いつか見た顔だ、と童磨は気付いた。冬の夜に俺を観察していた人ならざるモノ……。

「人を殺すことに躊躇がないのは良い傾向だ。きっと強くなれる。お前たちのどちらかを配下にしようと思って見てきたが……、お前の方が合っていたようだな。童磨、お前をこれから鬼にする」

 鬼。唐突な単語に童磨は困惑する。

「私が血をやればお前は鬼に変わる。鬼は永久の時間を生きる。怪力を得て、異能すら操る超常の存在だ。日の光を浴びることはできないが……、それもいずれ克服するだろう。童磨、お前には手伝ってもらいたいことがある。私はあるものを探している。それを探すのに人間の力を使いたいのだ。お前が鬼の教祖となって信者と共にそれを成してほしい」

「それは契約ですか?」

「いいや命令だ。お前に拒否権はない」

 擬態を解いたその男はびりびりとした重圧を発していた。ここで断ったら命はない。それがはっきりわかる。

「悪いことではない。お前は人間を超えた存在になるのだ。それはお前も望むところではなかったか? 紛い物の神の遣いではなく、本物の力を得るというのが……」

 その通りだ。俺に力がないからいつまでも信者たちを救えない。琴葉も助けられない。

「我が元に下って強くなれ童磨」

 男の手が童磨の頭に置かれた。鋭い爪が皮膚を破り肉をえぐる。男は童磨に存分に自分の血を注ぎ込んでやった。男の血が体を巡る。細胞が入れ替わり、筋肉が震え、びくびくと体が跳ねる。その時間がどの程度だったか――。気付いたら童磨の体は前のめりに倒れていた。体を起こして主人を見上げる。この男は絶対的な支配者。童磨の体が、血が、すべての細胞が彼への畏怖を訴えた。

「ほお。鬼になったばかりで理性を失わないとは。やはり見どころがあるな」

 男は嬉しそうに微笑した。彼が嬉しいと俺も嬉しい、と童磨は思う。この男の役に立ちたい。童磨は男に隷属することに何の違和感も持たなかった。拳を軽く握ってみる。体には力が溢れていた。ほとばしるほどの活力。怪我をした側頭部や顔面を触る。すっかり傷が治っていた。

「凄い」

「今のお前は普通の人間の数十倍強い。今日お前がやられた相手も赤子の手を捻るように殺せるだろう」

「月彦様、ありがとうございます」

「それは偽名だ。私の名は鬼舞辻無惨――。しかし、それを決して口に出してはいけないよ。私はお前がどこにいても何をしていてもわかる。その名を口にしたらお前は死ぬ」

 鬼舞辻は口に指を当ててこともなげに言い渡した。

「体が変わって安定するまで今夜は好きにしていい。指令は後日言い渡す」

 鬼舞辻は後ろを向いた。

「忘れるな。私はお前を見ているぞ」

 また琵琶の音が鳴った。鬼舞辻の姿が掻き消えるまで童磨は平伏したままだった。血だらけの部屋に一人立ち上がり、軽く跳ねる。これまでの自分とは比べ物にならない力。自分が生まれ変わったことを感じる。

「よし、琴葉を助けに行こう」

 攫われた姫を助けに行く。救世主のように。神様のように。今の俺なら何でもできる。

 

 

「ひぃっ……近寄るな! 化け物! 来るな!!」

 逃げる男をゆっくり歩きながら追っていく。男の片方の脚はあらぬ方向に曲がっている。逃げられる心配はない。それに五体満足だとして鬼になった童磨から逃げられる術はない。この体は最高だ、と童磨は感動していた。どれだけ走っても息が切れることはない。男に殴られても、刃物で刺されてもすぐ回復することができた。それに男が恐怖する顔は見物だった。

「あはははは、待て待てー」

 家から飛び出して逃げた男を市中と反対側の山の方に追い詰める。男の叫び声は強い雨音にかき消され、誰が聞くこともない。脚を引きずって藪の中に隠れようとする男。隠れてもすぐわかる。鬼の体は目も良ければ耳も良い。

「見ぃつけた」

「ひッ」

 胸ぐらを掴んで童磨より一回り大きい体を宙に浮かせた。

「ぐッ……あッ」

 男は腕をつかみ、足をばたばたと暴れさせる。

「たす、たすけて……」

「よい、しょっと!」

 ぶん投げる。十間ほど離れたところで木にぶつかって落ちた。男は大きく咳込み、その後ひゅーひゅーと掠れた息が聞こえてきた。童磨はゆっくりと近づいてしゃがみこみ彼の顔を覗き込んだ。うつろな目が童磨を見返す。無事だった右腕を折ってみる。絶叫。続けて左手を折ってみる。またまた絶叫。

「うるさいなぁ……。夜中に騒ぐなって教わらなかったの?」

 左足をぐりぐりと踏みにじりながら言った。

「ゆる……して。ゆるしてください……。おれがわるかった……。あいつとは……わかれるから……」

 息も絶え絶えといった様子で男が言葉を発する。

「それは当然でしょ。君には今までの報いを受けてもらわなきゃならないんだ。琴葉と同じくらい辛い目に遭ってもらわなくちゃ……。でも俺は君のように趣味が悪くないからな……、なんだか可哀そうになってきちゃった。もうやめるね」

 そして童磨は男をひょいと担ぐと、跳躍し山の奥へと向かった。人が来ないような奥まった場所にたどり着くとちょうどよい崖があった。

「ばいばい」

 自分の罪を死んでつぐなってね、そういって男の体を放す。手を放した瞬間、男は絶望の表情を浮かべ――、すぐに深い渓谷の闇の中に消えていった。

「ふふ」

 これで邪魔者はいなくなった。叔父もこいつも。さあ、琴葉を連れて寺院に帰ろう。

 男の家に向かう。琴葉は布団に寝ていた。あれだけ大騒ぎした横で寝ているとは……、いや、寝込んでいるのか。

「琴葉……琴葉……大丈夫かい?」

「…………童磨さん?」

 熱でも出ているのか、朦朧とした琴葉が、ようやく童磨を認識した。

「来てくれたんですね。でも駄目です……。帰ってください。夫が貴方をまた傷付ける」

「夫なんかじゃあない。君はもう自由だ。あの男はもういないよ」

「ほん……と……?」

「ほんとだよ。これから君はずっと自由だ」

 彼女は涙を流した。緑の瞳から流れるその涙が綺麗だな、と童磨は場違いに思う。自由というものを彼女はどれだけ欲していたのだろう。

 琴葉の体を起こして抱える。こんな厭な場所はすぐ離れよう。夜の闇を切り裂き、寺院を目指して走った。運んでいる最中に琴葉がごほごほと咳き込む。血を吐いた。もしかして内臓でも傷ついているのか。童磨は琴葉に負担がかからないようにできるかぎり急いだ。

 寺院に着き、琴葉にあてがった部屋に向かう。琴葉を降ろし、急いで布団を敷く。慎重に琴葉をその上に寝かせてやった。琴葉が「伊之助……」とつぶやく。伊之助は部屋の赤ん坊用に作られた柵の中ですやすやと寝ていた。そっと抱き上げて琴葉のそばに寝かせてやる。伊之助の穏やかな寝顔を見て、琴葉はほっとした顔を見せた。

「琴葉……、安心して……。もう何も怖いものはないよ」

「童磨さん……」

 再び琴葉が咳き込む。大きく喀血した。

「琴葉!!」

 ぞっとする。医者を呼んでこなければ。立ち上がろうとする童磨の腕を琴葉が掴んだ。

「待って……、童磨さん。言いたいことがあるの……。」

「琴葉、無理にしゃべっては」

「いいの。わかってるの。今までさんざん痛めつけられてきたから……。今の状態が限界を超えてるってことも……」

「琴葉、しゃべっちゃだめだ」

「聞いて……。あの人のところにいたとき、本当に不幸だと思った……。どうして私がこんな目にって毎日思ってた……。でも伊之助が生まれて……。人生に光が射したの。私はこの子に会うために生きて来たんだって思った。あの人がこの子に手をあげるかもしれないって思ったとき……この子が同じような目にあうのは許せないと思った……。だから逃げられたの」

 彼女の呼吸音がおかしい。もしかして肋骨が折れていたのか。声が次第に小さくなっていく。耳をそばだてなければ聞こえない。

「琴葉!」

「ここに伊之助といられたこの半年は……幸せだった……。童磨さん、ありがとう。ねえ……伊之助は……ここで……優しい父親の元で育ってほしいんです。私がいなくても……大丈夫よね……」

「琴葉、琴葉、ああ、約束するよ」

「童磨さん…………伊之助を……よろしくね…………」

 琴葉は伊之助に手を伸ばした。最期の瞬間までその瞳に我が子を焼き付けようとする。

「わたしの……かわいい子……。しあ……わせに……いきて……」

 音にならないほどの声量でそう言うと琴葉は最後の一呼吸をした。

「いかないで。いかないで琴葉。返事をして」

 琴葉の体から生気が抜けていく。伸ばしていた手がパタリと落ちる。あれほど光り輝いていた美しい瞳ががらんどうに変わる。魂の光のないガラス体。もう何も映していない。

「嘘だ。嘘だ。嘘だ」

 呼吸がない。体を揺さぶっても反応しない。胸に耳を当てても鼓動がない。

 琴葉が死んでしまった。

「琴葉、琴葉、ねえ、琴葉。返事して」

 童磨の心臓を言い様のない衝動が駆け抜けた。この衝動をなんと呼んでいいのかわからない。ただただ琴葉の死を信じたくないという思いだけがあり、名前を呼び続ける。琴葉の顔を見つめているとぽたぽたと雫が彼女の顔を濡らした。

「あれ? 何だこれ……」

 自分の顔に手をやると濡れている。服の袖口で拭った。あとからあとから液体が溢れて袖が濡れていく。

「おかしいな……なんで今俺……」

 

 

 

 

 

 

 

 「お腹が空いているんだろう」

 

 

 

 

 

 

 

 だらだらと彼の口からはつばが垂れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次に意識を取り戻したのは、赤子の泣き声を聞いた時だった。そのとき童磨は緑色の球体を口に運ぼうとしていた。これは目玉だ。とっくりと眺める。飴玉みたい。唾液が溢れてくる。どうしてこんなに美味しそうなんだろう。舐めてみた。やっぱり美味しい。パクリと一口で食べる。

「そうだ。いっぱい人を食べて強くなれ」

 脳内に無惨様の声が響く。はい、無惨様、と心の中で返事をする。

 しかしおかしいな、俺が食べているこの子は救わなきゃいけないはずの人間じゃなかったっけ……。そうだ、この子は生きている間は不幸だった。それで死んじゃったんだ。死んだ人間はもう救えない……。いや、違う、これが救うってことだ。童磨は気付いた。俺は鬼だ。人の理を外れた存在になったんだ。病もなく老いもしない生物。俺がこの子を糧にしたなら、俺の中でこの子は一つになってずっと生きられる。人間より高位の存在として永遠に存在できる。これが本当の極楽(・・・・・)だ。実際にここに存在する極楽。俺の中に。

 赤ん坊がわんわんと泣いている。童磨はハッとする。そうだ、この子は伊之助。これは琴葉。どうして曖昧になっていたんだろう。ごめん、伊之助、彼女を守りきれなくて――。童磨ははっきりした頭で再び彼女のことを考えた。きっと彼女の心の中にもまた極楽があったのだろう。最期に彼女は心の内を俺に打ち明けたが、彼女は苦難を乗り越え、幸せを得ていたのだ。伊之助という光を。俺が見てきた人々の中で唯一精神的に極楽にたどり着けていたとしたらそれは彼女しかいない。

 俺の中で永遠を生きよう――。ずっと万世を共に過ごそう。そうすれば肉体も、精神も、君のすべてが救われる。童磨は琴葉の死体を食べ続けた。肉を剥ぎ、血をすすって、骨までかじり尽くす。ああ、美味しくて、美味しくて、涙が出て来た。

 

 

 

 

 

「教祖様、新しい入信希望の方がいらっしゃいました」

「うん。連絡ありがとうねぇ」

 下女から帳簿を受け取り、広間に向かって歩き出す。

「それとあの赤ん坊はどうしましょうか」

「そうだね……。優しい父親の元で育ってほしいっていうのが母親の遺言だけど、琴葉のような心の綺麗な夫婦はどこを探したってみつからないだろうし……」

「ここで育てるということは?」

「それはないよ。彼には祖父母が居る。彼らの元に送り届けよう。あの人たちなら大丈夫だろう。きっと伊之助を幸せに育ててあげられる」

 童磨は伊之助の丸みを帯びた顔を思い浮かべて微笑んだ。あの子はきっと琴葉に似て美人になるだろうな。

「……どうしたの?」

 下女がぽかんとして顔で童磨を見ていた。

「いえ、教祖様がいつもと違って笑っていたので……」

「えー俺はいつも笑顔じゃないか?」

「そうですよね。でもそんなに優しい顔は初めて見たもので……。あっ、すみません失礼なことを言いました」

 ちょうど広間に着いたので彼女は赤い顔をして下がっていった。よし、と童磨は気合を入れて襖を開ける。蓮の屏風の前の定位置に座った。今日から極楽教、改め、万世極楽教がこの地に開かれた。俺のやることは信者を救うこと、生まれ持った俺の使命。そして、無惨様のために働くこと。信者を救う方法を与えてくれた彼に尽くす。もう何も俺を悩ますものはない。俺の内に極楽はある。鬼になってからより自分らしくなった気がして童磨はにこりと笑った。

「じゃあ帽子を被って、と。どうぞどうぞ、入って貰っておくれ」

 

 

 

 

 

 

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