六本指の猿   作:場理瑠都

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 本作は、「妄想歴史小説」ですから、真に受けないように


第1話

 その部屋の中では、咳の音だけが、聞こえていた。

 

 部屋の中央に置かれたベッドの上に横たわる、一人の老人が断続的に繰り返す咳の音だけが、室内に聞こえていた。

 

 豪華なベッドだった。

 

 今のこの国で、このような豪華なベッドに眠ることが出来るのは、おそらく今そこに横たわる老人一人だけであろう。

 

 ベッドに横たわる老いた男は、醜かった。

 

 どんな人間であっても、一目見た次の瞬間には思わず目をそらしたくなるような醜さによって、その男の外見はできていた。

 

 今まさに、病によって消えようとするその男の命が、まさにそのことによって命の本質を晒しているがゆえに、醜いのかもしれない。

 

 命とは、本質的に、醜い。

 

 人は文明という装飾や性欲という色眼鏡によって、それを胡麻化す。そうしなければ、生きていくことから逃げ出したくなってしまうから。

 

 しわにまみれ、しなびた肌と、骨と皮ばかりに細くなった体を、咳をするたびに震わせ、それでもなお生き続けたいという執念を放ちながら、醜く老いた男は寝台に横たわりながら、何かを待望していた。

 

「殿下」

 

 声がした。

 

 部屋を開けて、入ってきた、横たわる男とは別の人間の声だった。

 

 老いた男は、ぎろりと、ベッドの上から、彼に比べればずっと若いその男をにらみ、問う。

 

「来たのか?」

 

「はい。徳川内府様が、いらっしゃいました」

 

 うやうやしく、頭を下げて、淡々と、若い男は答えた。

 

 老いた男の顔は、それまで、苦痛に満ちていた。

 

 その顔が、部下から一人の男の来訪を告げられたとたんに、ぱ、と明るく、歓喜に満ちたものに変わった。

 

「すぐにここへ通せ。治部」

 

「はっ」

 

 治部と呼ばれた男は、一礼すると、部屋から出て行った。代わりに、治部よりは年を取った男が、部屋に入ってきた。

 

 肥った男だった。

 

 その巨体からは、見るものを畏怖させる雰囲気が、発せられていた。命すらあやふやな時と場所を幾たびも乗り越えてきた人間だけが、その雰囲気を放つことが出来る。

 

 その男は、知性を感じさせるその顔を苦悩で満たしながら、ベッドの前で床に跪いた。

 

 ベッドの上で、上半身を起こした老いた男は、それをじ、と見下ろし、思った。

 

 きっとこいつは、この体の中に、世界の総てを飲み込めるだろう。今の俺には、もうできないことだ。

 

 形式的な挨拶を、二人は交わした。その後で、ベッドの上の男は言った。

 

「この世から去る前に、お前の顔を見たくなったのだ。内府よ」

 

「何をおっしゃいますか。太閤殿下」

 

 内府と呼ばれた、床に座る男は、太閤殿下と呼んだ、ベッドに横たわる男をじっと、見た。

 

「殿下ほどのお方が、病などとの戦にて命を落とすなど、決してございません」

 

「しゃあしゃあと世辞を口にするな。内心では、俺が死に近づいているのを喜んでいるのであろう?」

 

 内府は、驚いた挙動をした。

 

「滅相もない……。一体誰が、そのような戯言を申したのですか! この内府徳川家康、殿下への忠誠心はこの国で最も強い男でございます。そのような讒言で殿下のお耳を汚したものなど、私が首をはねてやりましょう!」

 

 太閤は、笑い出した。

 

 この死に瀕した体で、まだここまで笑うことが出来るかと、家康は内心で驚いた。

 

「本当に、お前は狸だなあ! 流石、御屋形様に己の妻子を殺せと命じられても、顔色一つ変えずに従った男よ! 本心を隠蔽することにかけては、この国でお前にかなう者はいないであろうよ!」

 

 太閤は、再び、激しきせき込み始めた。家康は立ち上がって、彼の背中をさすってやった。太閤の咳は、ほどなくおさまった。

 

 太閤は、家康の手をつかんだ。

 

「お前の手は、大きいな。家康」

 

「……」

 

 家康の手は、大きく、ごつごつしていて、ささくれだっていた。苦労の跡が、目に見えてわかる手だった。

 

「お前はその手で、俺が亡くなった後、この国の総てをつかむだろう。これほどの強き手なら、こぼれ落とすモノなどないくらいに、全てをつかめるだろうな。さきほど出て行った石田治部三成の、筆と紙しか持たぬような清くて弱弱しい手では、決してつかめぬ。父である俺と違って何一つ不自由のない生まれ方をした秀頼には、このような手を持つことは、決して叶わぬだろう。二人はいずれ、お前の強い手で握りつぶされるだろうな」

 

 ここ数日、決して見せなかったくらい活力にあふれた様子で、太閤は語った。その姿は、かつてこの老人が戦場をかけていた頃のようだった。今、家康と話すことが出来るのが、彼にはたまらく嬉しかった。それが、活力の源であった。 

 

「なあ家康、俺はお前に言ったことがあるかな? 俺が、人を見るときは、必ず手を見ることで、その者がどんな人間かを理解してきたことを」

 

「いいえ」

 

 家康は、首を振った。

 

「初めて聞いたお話でございます」

 

「ははは、そうか。そうだよ。俺は、子どもの頃からそうだったのだ。きっと俺の手が、人と違っていたから、俺は子どもの頃から、他人の手を見る癖がついたのだろうな。俺の手は、化け物の手だ。この国は、俺という化け物の、6本の指を持つ手に、一度握られたのだ!」

 

 家康は、無言で、太閤の手を見つめた。

 

 普通の人間の手には、指は五本しかない。

 

 だが今、家康の前にいる太閤豊臣秀吉という男の右の手には、親指が二本あった。

 

 

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