文字に憑かれた日々 作:フローライト大根
新居探しは、ままならない。
平成某年の三月二十日、四月より晴れて高校生となる俺こと“
高校生から一人暮らし? と思われるかもしれないが、そこにはまぁ俺なりの事情がある。
長いので、それは割愛するとして───現状を述べると、高校生でも家賃が払えるような物件は軒並み売り切れという惨憺たる有様だ。何処の不動産も来店した途端に苦笑いと来たもんだ、正直そろそろ心が折れそうだった。
カラカラと自転車を引きながら歩道を歩く。冷たい曇天は今の俺の心情と同じだ。気持ちのいい青空はどうすれば拝めるのやら、と大きな溜息。
ここ最近の曇り続きも、俺の憂鬱さに拍車を掛けている。日光を浴びないと鬱になるとはよく言うが、身をもって体験はしたくなかった。
「どーすっかなぁ………」
…正直、寮のある高校を選びたかったのが本音だ。
しかし悲しいかな、俺を預かってくれている親戚の可能な出費、そして俺への当たりの強さを鑑みるに、公立高校以外の選択肢は見事に消え失せているのである。
俺の事情を詳しく知らない友人は家から通えば? と言うが、それだけは御免被りたい。あの家は家じゃない、俺をじわじわと蝕み殺す毒と氷の箱だ。
あの家だけは、絶対に出たいのだ。
そんなことを考えて…焦りが一周を回り、奇妙な余裕すら出来上がって、もはや乾いた笑いしか出せず、新居探しを半ば諦めていた時の事だった。
俺は見た、見てしまった。
───信号は赤色だというのに道路へ飛び出す、この辺じゃ珍しい和服の子ども。
俺は聞いた、聞いてしまった。
───クラクションを鳴らす軽トラ。周囲の人の悲鳴と自覚のない好奇心の声。
…“もう駄目だ”とは誰の叫びだっただろう?
実際、その通りだと思う。どう足掻いても間に合わない距離、速さ、状況、素人目から見てもそれは当然だ、当然なんだ。
だから、足が動くことを諦める。手も、喉も、あの子どもを助けることを諦める。
それが普通なんだ。
…
───
周囲の声が遠のく。それでも悲鳴は聞こえて来た。彼を止めろ、という声もあったけれど、間に合うはずもないだろう。だってもう俺は走り出しちゃったんだから。
俺の視界には、もう急ブレーキとクラクションを同時に使ってる軽トラが間近に入っている。
何で間に合いそうになってんだ、馬鹿か俺は。畜生死にたくねぇのに身体が勝手に動きやがる。嫌だ、痛いのは嫌なんだよくそったれ。
和服の子どもをかき抱き、必死にアスファルトを蹴る。足首から嫌な音が聞こえるし、ふくらはぎからはパツんとヤバい音だって聞こえた。心臓はさっきから破裂すんじゃねぇのかってぐらいバクバクだし、視界は焦りとテンパリで真っ赤なままで、呼吸なんざ正常から程遠い。
転がるように歩道に突っ込む俺と和服の子ども。体のあちこちを擦り剥いたし、ぶつけたし、もう滅茶苦茶痛い。
正直なところ、取り敢えず激突を避けれた安堵と、全身の激痛で恥も外分も投げ捨てて泣き出したい。
「…ケガ、ない、か?」
馬鹿みたいな痛みを堪えて子どもに聞く。男なのか、女なのか分からない中世的な顔立ち。まるで人形みたいな黒々とした髪と瞳と、白い肌。
彼、あるいは彼女は───俺の安否確認に答えないで、ただ俺をじっと見つめて、はっきりとこういった。
「…“文字に憑かれた人”」
意味がわからなかった。
この子供は頭でも打ったのかと思った。
少なくとも俺には初めて聞く言葉だ。
聞き覚えなんて微塵もない。
なのに、その言葉を聞いた瞬間…俺は
呆気にとられて、でもその言葉の意味を知ろうとした時。
「そこの二人とも大丈夫!?」
「誰か警察と救急車!!」
「え? あの子が? …よし、なら…」
「写真撮ってんじゃねぇよ馬鹿!! おい消せ消せ!!! お前の携帯は何のためにあんだっつの!」
「あのトラック逃げようとしてるぞ止めろ止めろ!!」
一気に俺たちは喧騒に巻き込まれた。人やらパトカーやら救急車が来てもはや何が何だか…
───あー…また叔父さんに白い目で見られる…
ズキズキ走る痛みを感じながら、静かに意識を落とす。
もうどうにでもなってくれ。
諦めに近い思考の中、視界を真黒に閉ざした。
───
路地裏に転がる自分。見下して笑うガラの悪い奴。クスクスと笑われる自分。それでも恥じる事なく、間違った事を馬鹿正直に間違った事だと叫ぶ自分。
ヒーロー気取り、主人公もどき、痛い奴、そう言って自分を指をさして、せせら笑う声。そんなものには慣れていたし、別に気にしてもどうにかなるわけじゃなかったから、自分はこういうものだと受け入れていた。
いじめとか、恫喝とか、まぁそういった事にも自分の体は勝手に動いた。被害に遭ってる人を助けようと、自分の意思とは全く正反対に動いた。それで何度も傷ついて、嗤われて、きみ悪がられて、避けられていった。
もちろん、そういった声ばかりじゃないと知っている。
この身体のおかげで友人だって出来たし、周囲の大人からの反応も良かった。
けど、それがまぁ…贅沢だとは思うが、自分には少しだけ息苦しかった。
その行動全部が、自分の意思でやった事じゃない。
だから、手放しで褒められるが申し訳なかったし、それで気を良くしている自分が…あまり好きじゃなかった。
───冷血漢が。
…叔父の言葉を思い出す。
いまだに胸へと刺さる言葉。
そうなれたら、どれだけ良かったか。
───好きでこうなったわけじゃねーっての…。
それで身体はいつもボロボロだ。
本当に、我ながら少し引く。
自分はしぶとく生きている。
そんな実感と共に意識を上がらせた。
惰性半ばに目蓋を開ける。それと同時に体の感覚も微睡から起き上がる。来るであろう激痛に身構えたが…いつまで経っても、体に走る激痛は何故か無く、それどころかまるで健康体のように身体が軽い。
…どういうこった、まさか夢じゃあるまいな。一周を回って冷えた頭が、自分の頬をつねろと命令を出し、何故か無傷な腕はそれを実行した。
「…痛え、だめだこれ夢じゃねぇよ…」
…ますますどういう事だ!? 確かに全身すりむいたし! というか足から嫌な音とかしたし!? 滅茶苦茶痛かったしそれで気絶したような気がしたんだが!?
流石に怖くなって上体を跳ねるように起こす。今まで天井しか映さなかった網膜が新たに映し出したのは、昭和モダンチックな内装。
黒みを帯びるまで古びた木板の床。木を基調とした部屋全体と家具。部屋を照らすように天井に吊られた電球。西洋風の窓ガラスからは夕焼け色の日差しが入り込み、時代錯誤なこの部屋を視覚的な暖かさで満たしている。
そして何より目を引いたのは───至る所に所狭しと敷き詰められた本棚。本のないところを探せというのが無茶なほどあった。
これじゃあまるでここは───
「……図書館みたいだな…」
しかも随分と前時代的な。
教科書でしか見た事がない内観を眺めながら、そんなことを思っていた。
驚きの連続で、感覚は完全に起きた。さらに周囲に目を向けると、この部屋は無人であり、自分はどことも分からぬ寝台の上に横たわっている。
…むしろわからない事が増えた。まるで情報量の暴力だ。もうどうにでもなってくれ、深いため息と共に寝台に身を投げた。
「やー、そろそろ起きたかい?」
すると、柔和な声がどこからともなく飛んできた。
とっさに起き上がってみると、眼前には中年に差し掛かるか否かというぐらいの男がいた。男は茶色いロン毛と顎髭、丸メガネが特徴的な柔和な顔立ちを持っていた。
男は俺の言わんとしていることを察しているのか、俺よりも早く口を開く。
「ここは病院じゃないよ、あの子を助けてもらったお礼もしたいし、聞きたいこともあるからね。ちょっと悪いけれど、ボクの家に運んじゃった」
はっはは、と柔和に笑う男。さらっととんでもないことをしてんぞこいつ。
「体の具合はどうだい?」
「…滅茶苦茶良いです…」
「よしよし、流石は河童の妙薬だ」
聞いたこともない薬の名前を呟きながら、男は俺の横たわる寝台の間近に椅子を引きずり、そこに腰を置く。
人差し指で丸メガネをくいっとあげながら、若干のドヤ顔で男はこう言った。
「ボクは古橋。この私立図書館“本の街”の館長兼司書だ」
「…“本の街”…?」
「聞き覚えがないのは当然だよ、結構隠れスポットみたいなもんだから」
古橋と名乗った男は、俺に一枚の名刺を渡してきた。そこには確かに「私立図書館“本の街”」と書かれている。
電話番号、住所、地図までも完璧に記載済みだ。
しかし地図を見るに、此処はあまり入り組んだ所にあるわけでもなさそうなんだが…。
「うしろのしょうめん」「だぁれ」
「ゔぉおあ!?!?」
なんだ今両耳ぞわっとした!! ぞわっとしたぁ!? 飛び跳ねるように寝台から離れてから振り返ってみると、そこにはさっき助けた着物の子どもと、初めて見る着物の子どもがいた。
助けた方は花柄、初見の方は紅葉柄の着物を着ていた。瓜二つの中性的な容姿をしたこの二人の子どもは、くるくると踊るように回り、こっちを見てはクスクス笑う。
「おとうとをありがとう」「いのちのおんじん」
「とてもあせった」「しぬかとおもった」
「「ありがとうございます」」
交互に喋ってくるくる回る。
最後にぺこり、と頭を下げる二人の子供。
…俺が助けたのは弟の方らしい。
「あっはは! 懐かれたみたいだねぇ! ボクからもお礼を言うよ───本当に、ありがとう」
「…………どうも」
古橋さんにも頭を下げられる…自分の意思じゃないけれど。助けたのは事実だし…まぁ、むず痒いけど受け取るしかない。こればっかりは、何度体験しても奇妙な感じがして慣れない。
「……納得いかないってところかな?」
「───ッ!?」
ざっくり、と急に自分の確信に切り込まれた気がした。男の丸眼鏡が、まるで俺をその場に射止めるかのように見据えてくる。
さっきまで柔和な顔だった彼は何処にもいない。細められた目、光る眼鏡、その全てが俺に“嘘”と“誤魔化し”を許さないと言うかのようだった。
席を立った彼は、固まったままの俺を間近に見る…けれど、奇妙な感じだ。この男の目を見れば、見るほど───確信が出来上がっていく。
「君は随分と強く“憑かれてる”ね?」
憑かれてる。その言葉であの子どもに言われたものを思い出す。
「…“文字に憑かれた人”…?」
「ん? 知ってたのかい?」
「おとうとがいった」「ぼくがきづいた」
…聞き間違えじゃなかったようだ。
文字に“憑かれる”とはどういうことだろう? 悪霊に憑かれるようなものだろうか? 疑問は自然と口に出ていた。
「何なんですか、“文字に憑かれた人”って」
すると、古橋さんが待ってましたと言わんばかりにニヤける。再び丸眼鏡をくいっと指で押し上げ、何やら大袈裟に両手を広げ、口を開こうとする。まるで同じ趣味を持つ人を見つけたみたいな破顔のままでいる。
…二人の子どもはそれを見た途端、嫌そうな顔を…いや、違う。焦っているような顔だ。彼等は急遽いそいそと机の上に乗り出して、何故かクラウチングスタートの体制をとる。古橋さんは背後で起こる変化に気づかないまま口を開いて───。
「それはだね───どぅふぉ!?!!」
着物の子どもから、後頭部へピンポイントで飛び蹴りをお見舞いされた!?
「古橋さん!?」
驚く俺を他所に、音を立てて床に転がり倒れる古橋さん。着物の子どもらは、二人とも眉根を寄せて、何やら怒ったような声色で古橋さんに問い詰め出した。
そんな側から見れば、どこか微笑ましくもあるだろう寸劇じみた諍いの中、自分はなぜか、妙な胸騒ぎを感じる。
「いっぱいはなすのはだめ」「こっちのはなし」
「へたにしりすぎると」「ふこうになる」
「あいたた…そうだ、そうだった…」
……本当に、本当に唐突だと、自分でも思う。
けれども
───「誘発された偶然性」という理論がある。偶然をこちら側から掴みに行き、それを糧に成長するといった理論だ。
しかし実際、転機、分岐点といった“偶然”は自分の意思とは関係なく、衝撃を伴ってやってくる。そこに個人の事情は鑑みられることはなく、それは不意な災害と同等だ。
これに振り回されるのはもう慣れた。慣れたが、ああクソっ、何だよ、俺は一体どんな起点に立っている?
「や、すまないね。こっちも色々とあるから」
「ふるはしはいつもこう」「おっちょこちょい」
何もかも分からない。しかし間違いなく非現実的なものからの手招きを受けている。逃れる事なんて、簡単にできるはずだ。
しかし、それでも…柄にもなく、年甲斐もなく、
まったくおかしい頭だと思う。俺はこんなにもギャンブラー気質じゃなかったはずだろうが。刺激を求めるにしたって危険が過ぎている。現実逃避? 逃避する先が非現実の極点だろうに、ああ、まったくどうしたらいいんだか。
「うん───取り敢えず、君、今日は一旦帰るといいよ。
それで明日、もしボクの図書館を見つけることが出来たら、そうしたら“文字”について教えてよっか」
“…いずれにせよ、ここだ。
ここが、俺の人生の中で最大の分岐点だった”