あの日見た夢をもう一度、あの日見た光のその先へ 作:白髪ロング娘スキー
土曜日の昼過ぎ、病院のロビーは待機中の人たちで溢れていて、空いている席は一つも無く、人がひしめき合うが故の喧騒がこの場を支配して……はおらず、ロビーは静寂で満たされていた。
老若男女、誰一人として一つの例外もなく、一言も喋らない静かな空間は、なんとなく異質に感じる。
何処か奇妙な空間。
そんな静寂が支配するロビーを、一人の女の子を乗せた車椅子を押しながら通る。
カラカラと回る車輪の音は、静かな空間に良く響いた。
「元気だったか、ミカ。悪いな、ちょっと間が開いちまって」
「気にしなくていいわ。ちょっとだけ寂しかったけど、ケイゴだって忙しいだろうし。それに、ケイゴがこうして来てくれるだけでも嬉しいもの」
そう言って嬉しそうに笑う女の子は本当に幸せそうで、そんな朗らかな笑みは見ているだけでこちらの心を癒してくれた。
この笑顔が素敵な女の子はミカ、俺の幼馴染であり……生まれながらにして体の不自由な女の子だ。
とはいえ、その事に関して彼女が何か不満を口にした事は一度も無い。
我慢している部分は当然あるだろう。だが彼女には、そんな苦しい状況もなんのそのと、笑い飛ばせるだけの心の強さがあった。
「じゃあ頑張って仕事終わらせて、もっとミカに会いに来ないとな」
「そうそう、それでいいの。もっと頑張って私に顔を見せに来なさいな!」
「あはは、このやろー」
発育が悪く薄い胸を張り、楽し気にむふふーと笑う彼女。
彼女は知らないだろう、その笑顔にどれだけ俺が救われているのか。
俺が彼女に会いに来ているのは、彼女の事を思ってではなく、傷ついた自身の心を癒す為だという事を。
彼女はどう思うだろうか。
心配して会いに来たという幼馴染が、実は自分の事しか考えていないような屑だと知ったら。
……それでも会いに来てくれてるんだから、とにこにこ笑ってそうだ。
なんとなくそんな気がする。
さて、こんな事を考えている場合じゃない。
ミカは案外勘が鋭い、あまり暗い事を考えていると気付いて笑みを陰らせてしまうだろう。
気分転換に背筋を真っ直ぐ伸ばし、大きく息を吸う。
病院特有の強い消毒液の匂いは、張り替えられたばかりらしいリノリウムの匂いと合わさり、鼻にくるツンとした刺激臭となっている。
思わず咽そうになりながらも、肺に満ちた空気は俺の気持ちを整えてくれた。
「あっ、ケイゴ、少し止まってもらえるかしら?」
静止の声に応え、介助用ブレーキをかけてゆっくりと車椅子を止めた。
何事かと思えば、彼女は日の光が差し込む窓を眺め、ガラス越しに中庭の植物を見ているようだった。
同じく窓を覗いてみれば、窓の向こうに風に揺られる木の葉が見えた。
春も終わり夏の兆しが顔を見せ始めた今、風鈴代わりのさざめきに心が癒される。
とはいえ、元々風情には疎い俺だ。すぐに飽きてしまい、車椅子に視線を戻した。
すると、なにがそんなに楽しいのか、にこにこと満面の笑みを浮かべている彼女がそこにいた。
よく分からないが、楽しそうにしている彼女に水を差す事もなかろうと、ただ黙ってそんな横顔を眺める。
そうして暫く経ち、視線に気付いたミカが不思議そうに首を傾げた。
「ケイゴ?」
「……いや、なんでもないよ。もう動いても大丈夫かな? ミカ」
「ええ、いいわよ」
もう少しそんな横顔を見ていたかった気持ちを横に退かし、ゆっくりと車椅子を押し始める。
所々錆び付いたアルミが擦れ、キシッと音を立てながら動き出せば、吸い込まれるような黒雨の髪が空気に煽られてふわりと揺れた。
「……ごめんなさい。疲れてる筈なのに、こんな私のお世話なんてさせてしまって」
「それは言わない約束の筈だぞミカ。俺は俺の好きでやってるんだ」
そう、これはあくまでも俺がやりたい事だ。
疲れたから、忙しいから、俺はそんな抱えたストレスを発散したいだけなのだから。
だから、これは正確にはお見舞いなどではない。ただのストレス発散だ。
だからこそ、俺の癒しであるその輝くような笑顔を曇らされては困るのだ。
「ほら、そんなしかめっ面してないで笑えよ。俺はお前の笑顔が好きなんだから」
「……ほんと、サラッと言うわよね。……分かった、もう気にしない! 例えケイゴがどれほど追い詰められてても、この私がにぱっと笑って晴らしてやるわ!」
「そうそう、それで良いんだよ、お前は」
その笑顔が、俺にとっての生きる理由なんだからさ。
「っと、着いたぞ」
一旦車椅子の握りから手を放し、扉を開ける。
部屋番号103、ミカに当てられた部屋だ。
部屋の中には寝たまま体を起こせるベットや小さなテレビ、冷蔵庫や簡易的な洗面台が付いており、なるべく患者が動かず、そして快適に過ごせるようにされている。
申し訳程度についた小さな小窓からは先ほどの木が植わった庭が見えており、先ほどの大きな窓から見た時ほどではなくとも、気分が明るくなる程度の涼し気な光景を見せてくれている。
そんな小窓の傍には小さな花瓶が置かれており、中には可愛らしいガーベラが数本活けられていた。
「親父さんたち、来てたのか」
「ええ。といっても、そのお花と果物を置いたらすぐ帰ってしまったけれど。今、追い詰められてるらしくて」
「親父さんたちも大変だな……」
車椅子を押し、ベットに近付けてフットブレーキを踏んでロックし、ミカの前へと回りこむ。
背凭れに預けていた体を起こし、手を広げて俺の介助を待つミカ
その腋に左手をまわして肩を組み、優しく引っ張って腰が浮いたところで膝に右手を回して抱え上げた。
所謂お姫様抱っこの形だ。
そうして持ち上げたミカを、ベットにゆっくりと下ろしていく。
完全に横にさせると、ベットの操縦リモコンを持たせて車椅子を部屋の隅に片付け、椅子を引っ張り出してそれに座った。
「ありがとね」
「気にすんな、もう慣れた」
リモコンを弄り、ベットを起こして座ったミカが、冷蔵庫からフルーツの入ったバスケットを引っ張り出してさぁ食えと無言でテーブルに乗せた。
まぁ、親父さんたちが少ない空き時間を縫って買ってきてくれたから言い出し辛かったんだろうけど、お前果物そこまで好きじゃないもんな……
お、苺うめぇ。
おら、お前も一粒くらい食っとけ。
……にしても、だ。
「お前、また軽くなってないか? ちゃんと飯食ってるか?」
「む、女の子に体重の話は厳禁なのよ?」
「軽いって言ってるんだから許してくれ。それで、どうなんだ」
言い逃れはさせないとばかりに真剣な顔を作り、瞬きもせずにミカの顔をじっと見つめる。
そしてそのまま数十秒、目を泳がせていたミカが諦めたようにため息を吐き、大粒の苺を口に放り込んだ。
「まぁ、ちょっとだけ減っちゃったね」
「持ち上げた感覚で分かるくらいだぞ、そんな少しじゃない。キロ単位のはずだ」
「あはは、そこまで分かるんだ。……3キロ減ったよ」
そう言って病衣の袖を捲り上げ、今まで隠されていた腕を見せてくるミカ。
前に見たミカの腕は多少細くはあったものの、それでもまだ柔らかな丸みを帯びていた。
しかし、今のミカの腕は女の子らしい丸みはあるものの、少し力を入れれば折れてしまいそうな程に華奢になっていた。
「……なんでそんなに細くなってるんだ? ミカの体に付随以外の異常は無い。ちゃんと食ってるならそんな腕になる筈がないだろう」
「……言わなきゃ、ダメかしら?」
「駄目だ。もし体に異常があったり、飯が体に合ってなかったりしたら、病院側に報告して対策してもらわなければならない」
「うぅ……」
顔を赤くし、再び目を泳がせ始めるミカの姿に思わず訝しむ。
絶対に逃がしはしないという意味も込めて、椅子から立ち上がって身を乗り出せば、耳まで真っ赤にしたミカはしずしずと俯いた。
「……さ」
「さ?」
指と指の面を擦り合わせながら、もごもごと口籠るミカの言葉を反芻すれば、ミカは俯いたままプルプルと体を震わせ始めた。
そうしてしばし、覚悟を決めたのかバッと顔を上げ、やけくそ気味に言い放った。
「さ、寂しかったの……っ!」
「……寂し……かった?」
一度放たれてしまえばもう躊躇いは無いのか、呆ける俺を置き去りにしてミカの口はくるくるくるりと回りに回る。
「そう、寂しかったの! お母さんは来てもすぐに帰るし! ケイゴだっていつ来るか分からないし、居て欲しい時には居てくれないし! でもお母さんもケイゴも仕事で忙しいのは分かってるから無理なんて言えないし! それで二人とも来なくて期間が開いたらもう来てくれないんじゃないかって、そう思ったらご飯が喉を通らなくなっていって」
……少し不味いか。
「もういい!」
感情の制御が出来なくなっていっているのか、涙を流し始めたミカの頭に腕を回し抱きしめる。
最早話を続ける気力は無いのか、静かに腕の中に納まってぐすぐすとべそを掻いているミカ。
その目元に服の袖をポンポンと押し付けて涙を拭いてやる。
「お前の気持ちは分かった。大丈夫だ、安心しろミカ。お前の傍には俺がいてやるから」
「でも、お仕事が」
「そんなもの、お前に比べたら何の価値も無い。それに、お前の傍に居ながら出来る仕事なら一つだけ心当たりがある」
「ぐず、ぐす……ん、ほんとに?」
「あぁ、だから安心して今は寝ておけ。大丈夫だ、起きても俺は此処に居るから」
泣きべそを掻くミカの頭を優しく撫でながら、リモコンを使い介護用ベットの角度を水平に戻していく。
そうして水平に戻したベットにミカを寝かせれば、ご飯を食べていなかっただけでなく睡眠も不足していたのか、あっさりとミカは夢の世界へと旅立っていった。
ミカが眠ったのを確認し、先ほどまで座っていた椅子を片付ける。
この様子ならば暫くは起きないだろう。ならば、なにか栄養になる物でも買ってきてやらねばなるまい。
正直、病院に外から食料を持ってくるというのは褒められた行動ではないのだが、ヨーグルトや果物ならばそこまで強く言われる事は無いだろう。
外への道を歩きながら、ポケットから携帯を取り出し、仕事場にメールを送る。
あとは引継ぎといった雑事を済ませれば俺はフリーだ。
この病院で求人募集をしているのは、壁に張られているポスターで知っている。
ならばもう、何も障害は無いだろう。
「さて……なりますか、看護師に!」
「……カット! よし、撮影終わったよ、景!」
カメラの電源を切り、目を瞑って横になっている夜凪景の肩を揺する。
……が、帰ってきたのはすぅすぅと零れる静かな寝息のみ。
あれ、これまさか本当に寝てる?
途中でメソッド演技が暴走していたのは気付いていたが、まさかそのまま寝落ちするとは……
これ苦労するの、連れて帰る俺なんだけど……
「お疲れさまでした。あ、これどうぞ」
どうやって連れて帰ろうかと頭を悩ませる俺に、両手にコップを持った看護師が近付いてくる。
そのコップを受け取って一口含み、異常がないことを確認して一気に飲み干した。
中身はどうやらただのオレンジジュースの様で、特におかしな味はしなかった。
念のため、もう片方のコップも軽く口を付けてからテーブルの上に置く。
「……ありがとうございます。動画の投稿に関してですが、そちらが動画を掲載してからの方が良いでしょうか?」
「いえ、院長は何時でも大丈夫と言っていましたよ! あっ、ただし、投稿する前に動画データとその宛をメールなどで送って下さいますか?」
「分かりました、ではそのように。それと景の服ですが……」
「こちらで着替えさせるという事も出来ますが、いかがでしょう?」
「……いえ、報酬から引いておいてください。このまま連れて帰ります」
「分かりました。では院長にはそのように伝えておきますね」
仕事に戻っていく看護師を見送り、もう一度完全に眠ってしまっている夜凪景を起こそうと揺さぶる。
しかし、幾ら揺さぶろうとも全く起きる気配はない。
あーもう、仕方ないか。
「よいしょ、っと」
ロビーで俺たちの演劇を見ていたギャラリーの人達が自分の部屋へと戻っていく。
一部の老人や若者たちは、自身の連れに先ほどの俺達の演技の真似を披露していた。
何とも微笑ましい。
そんな光景を尻目に、持ってきた機材などを片付け、夢の世界に旅立っている夜凪景を背負って病院を後にした。
先程は夏の始まりという設定で演技をしていたが、今の季節は4月、春の半ばだ。
並ぶ桜が風と共に揺れ、静かに花びらを舞わせている。
まだ散り始めなのか、木はピンク色に染まっていて、宙を舞う花びらも多くはない。
しかし、それでも散る桜が春の終わりを感じさせるのは何故なのだろう。
春は出会いの季節、春は別れの季節。春は始まりの季節、春は終わりの季節。
店先にツヤツヤと光る大粒のイチゴが並ぶ季節だ。
……いや、最後のはなんか違うな。
背中からずり落ちていく夜凪景を背負い直し、ひらひらと舞う桜吹雪の中を歩きながら、そんな下らない事を考える。
夜凪景は、日本人女性としては割と高めな160後半という身長のわりに、スレンダーなモデル体型のおかげか体重自体はそこそこ軽めだ。
とはいえ彼女も人間、一定量の重さはある。
しかもそれに加えて、今の俺は来る時には夜凪景と二人で分担して持ってきた機材も一人で抱えている。
単純に重い。そしてキツい。
何でもいいから別の事を考えながらでもないと、辛すぎてやってられない。
だからといって、すぴすぴと幸せそうに眠っている夜凪景を起こす気にもならない。
「全く、何の夢を見ているのやら」
家まではまだまだかなりの距離がある。
というか、まだ病院から出て200メートル程度しか進んではいない。
では目標地点である夜凪景の家はというと、ここからおよそ2km先。
「あぁ……これ、明日は筋肉痛だね」
高校二年としての始まりがすぐそこに控えている俺にとって、割とシャレにならない問題が起きようとしていた。
夜凪景、頼むから早く起きてくれ……! そう思いながら必死に歩く。
結局彼女はこの後、家に着き、姉弟たちが遊びから帰ってきて空腹を訴えるまで起きる事は無かった。